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熊野学研究センターの失敗の歴史 4 田辺の熊野歴史博物館運動

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 いわゆる熊野地方には二つの中心都市がある。西の田辺、東の新宮だ。しかし、新宮にはてらいもなく「熊野の都」と公の出版物に書いてしまうほど熊野であることに自信があるのに対し、田辺は若干腰の引けたところがある。というのはだいたい熊野=近世の牟婁郡と言われているが、牟婁郡の牟婁は田辺のことだということになっている。となると牟婁郡の中心は田辺ということになるが、しかし熊野国が国郡制度に吸収されたとき、牟婁郡に組みこまれたと書いたものがあるのだ。そうすると田辺はむしろ熊野地域の目付ということになってあまり分がよくない。地形的にも熊野地方は東の方が開けていて浜が多いが、西側については田辺周辺以外は港町が数個ある他はギリギリまで山が迫っていてあまり人気がない。

 とはいっても院政時代の熊野詣の中辺路の入口でもあったし、熊野別当が田辺に新熊野神社(今の闘鶏神社)をつくり、その境内で源氏と平氏のどっちにつくか闘鶏で決めたという伝説があるくらいだから、太古はいざしらず歴史的には熊野の一部であったといってもよいだろう。ただし田辺は和歌山・関西方面とのつながりが強く、地形的な制約で中央からこの地域を見張る役目を担ってしまうのはしかたのないことだ。江戸時代には新宮の水野氏にならんで田辺に安藤氏が置かれ、紀州藩中央とは別の支配になっていたが、この牟婁郡地域について、田辺から串本までが口熊野、その東側が奥熊野という大雑把な分類がなされていた。安藤氏水野氏に加え紀州領・幕領が複雑に入りくんでいた熊野地域を大雑把に把握するためのもので、それが明治後の西牟婁郡東牟婁郡+(三重の南北牟婁郡)の別れ目となったようだ。明治中期頃の都市の規模でいうと田辺よりも新宮の方が二倍くらいの都市だったというところもまたおもしろいところだが、今は新宮は人口3万程度の小さい都市であるのに対し田辺は7万程度でどっちが大きいとか論ずるまでもない。

 それはさておき新宮での「熊野記念館」構想があったころ、田辺にも似たような構想がわいていた。それが「熊野歴史博物館」である。この運動の足跡をたどれるものとして、熊野歴史博物館設立準備室による『熊野史研究』という雑誌がある。創刊号は1985年12月(昭和55)。熊野記念館が新宮に偏っているのでそれに対抗する意味でもあったのだろうか。案外読めるものが多くておもしろい。熊野記念館資料収集委員会が出していた『みくまの』が展示をつくるために資料を整理するような文章が多いのにくらべると、一般的な論文雑誌に近い。これは新宮市立図書館の『熊野誌』が歴史が古いことや大逆事件への思い入れが激しいことなどから、程度の低い郷土史家の文章がまじることに比べると格段の差がある。

 さてしかし、この田辺側での運動については新宮市立図書館の郷土資料室で適当に調べただけなのでこの雑誌の記述以上のことはよくわからない。第20号(1992.3.20)の編集後記には県による熊野学研究センター構想に触れている。そこで田辺による熊野歴史博物館の目はなくなったとおもってよかろう。しかし雑誌は雑誌としてその後第50号(1999.9)まで出ていた。50号で廃刊となった理由はよくわからないが、49号にある文章が掲載されている。それは46-48号に載った被差別民に関係する文章が問題になったのでおわびのために出した文章だ。(ここでこの文章は終わる)

悲田院長吏文書

悲田院長吏文書

大浜レクリエーションの森はいつできた?

 新宮の海岸線は王子ヶ浜というが、その北側を大浜というらしい。そこに松林があり、レクリエーションの森という看板が出ている。

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 レクリエーションというからこれも瀬古市長のころの新熊野林間リクレーション構想関係なのかとおもって調べたらすこしちがった。カスってはいる。

 その森の一部を切り取ったように総合体育館があるが、その前に瀬古市長の名前が入ったよくわからない記念モニュメントがたっている。これも関連してるのかとおもったが、調べてみるとすこしちがった。

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 この体育館は昭和55年(1980)にできているので昭和56年に策定されている国土庁の旗振りでできた新熊野林間レクリエーションとはまったく別にできたものだった。広報しんぐうをさかのぼってみると、まずその海岸の国有林の一部を払いさげてもらうところからはじまり、昭和53年(1978)からの三年計画で国などの補助も得て作ったものだという。しかしそれは体育館のことであり、レクリエーションの森ではない。

 その国土庁の計画は国の補助が出るものだけ載っているのだが、その計画を地方で敷衍して、地方だけの資金で作る計画も載ったものが『新宮周辺新広域市町村圏計画』、昭和56年(1981)3月になる。それをみるとスポーツ・レクリエーションの中に

大浜健康の森公園 昭和56年度 一般財源

大浜野外運動場 昭和56-57年度 一般財源・地方債

 とある。こういうふうに開発するという案があったようだ。しかし結局できたのが

大浜レクリエーションの森散歩道 昭和57年(1982)7月

 だった。広報しんぐう(昭和57年3月)には「新宮営林署の協力を得て、市内大浜地区にある松林の中に遊歩道を作っています」とあり、運動場や公園として整備するのはあきらめて、松林をそのまま利用して間に遊歩道を作る方向に切り換えたようだ。どういう理由でそうなったのかまでは調べきれていないがどうせ財政的理由か林を保全するためかそのへんだろう。

 まとめると、瀬古市長による新宮独自の開発計画で大浜の国有林を払いさげてもらってまず総合体育館をつくったものだが、そこで国土庁が旗振りしてできた「新熊野林間レクリエーションエリア」構想が入り、その一環でのこりの松林を遊歩道として整備した、ということになる。

BOOX Note 10.3

BOOX Note 10.3

熊野同友―瀬古潔三〇〇〇日の行とそれを支えた人々 (1984年)

熊野同友―瀬古潔三〇〇〇日の行とそれを支えた人々 (1984年)

熊野学研究センターの失敗の歴史 3 小辺路は熊野記念館が初めて調査した

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 熊野学センターについてあんまりいいことを書いていなかったがここでいいことも書いておこう。いわゆる熊野参詣道、世界遺産に登録されているのは中辺路、大辺路小辺路、奥駈道、伊勢路となっているが、その昔はあんまりはっきりしておらず、だいたいは今言うところの中辺路のことを言っていた。田辺から本宮まで行く、院政時代に平安貴族が頻繁に行ったその道である。何回も話題に出している「歴史の道調査報告書」の第一弾、『熊野参詣道とその周辺』でもそのへんの事情はおなじで、こんな風に書いている。

熊野参詣道というと、一般に熊野へ向かっての道筋を考えがちである。参詣に行くということからいえば、そう考えるのが当然のようである。しかしそう考えたのでは、具体的にどこからどこまでを参詣道とするかという段になって行き詰まる。

(略)

しかしこれは熊野に向かっての道を考えようとするところに起点の問題が起こるのであって、ここで考えを変えて逆に熊野に起点を置いて考えれば、終点についてはさほど問題にしなくてすむのではなかろうか。

 そのような感じなので和歌山県教育委員会が最初に出した『歴史の道調査報告書(I) 熊野参詣道とその周辺』では小辺路はほとんど言及されていない。「熊野古道」の概念図があるのだが、そこに「高野道」として描かれているのは熊野街道でも龍神を通るもので、のちに龍神街道として扱われる道だ。まぁそもそも熊野古道自体が地域振興のために発掘された道なのだから具体的にどこかなどということはそんなに重要ではないかもしれない。山中の古街道など日本中にいくらでもあるが山より他に何もないところの道が観光資源に変化することは大きい。

 そのような状況ではあったが、報告書がでた同年昭和54年(1974)の末には田辺の方の郷土雑誌に小辺路を紹介する文が載った。玉置善春「埋もれた熊野参詣道 -近世の『小辺路』の諸相-」だ。そこで概略の地図が示され、歴史の道調査報告書が粗忽にしていた道を正したのだった。その後、昭和56年(1981)の『高野山参詣道2』、昭和57年(1982)の『龍神街道』、『修験の道』では小辺路としてそのルートが紹介はされた。しかしその後、和歌山県教育委員会でこの道が歴史の道調査報告書で出されることはなく、昭和58年(1983)の『河川交通及び海路交通』が出て、和歌山の歴史の道調査報告書は打ちどめとなった。

 小辺路が調査されなかった最大の原因はそのルートのほとんどが奈良県を通ることだろう。ひょっとしたら『熊野参詣道とその周辺』でほぼ直線の小辺路が地図にのらず、「高野道」として龍神経由の道が示されていたのもそのせいかもしれない。今でも歴史街道などは県別でパンフレットを作っているくらいだからそのころなら当然よその県のことに手を出せなかったのだろう。

 ちょうどいいところにいたのが熊野記念館のために結成された熊野記念館資料収集委員会である。昭和60年(1985)から一年半かけて小辺路を調査した。なにせ熊野記念館資料収集委員会は新宮周辺の歴史と自然の専門家を集めたものだから一気に全線踏破するようなことはできない。昭和62年(1987)1月に『熊野古道 小辺路調査報告書』を出した。これが小辺路を本格的に調査した最初のものとなる。体裁は「歴史の道調査報告書」に倣っているが、最後に座談会的なものがのっているあたりまた新宮らしいゆるさを見せている。自然部会も参加したのがおもしろい点かもしれない。

 この報告書が出ると、関西方面からの反響が大きかったようだ。今まで知られていなかった高野山から熊野への道の最初の報告書であることに加え、高野山までは南海が通っているくらいだから関西方面からのアクセスは抜群なこと、田辺から歩く中辺路よりも距離も短くハイキングしやすい。というあたりがその理由なのだろう。しかも小辺路ルートはその後さらに林道建設で破壊が進んでいるからこの報告書によってのみうかがいしれる状況などもある。

 その後、奈良県教育委員会による小辺路の調査報告書が平成14年(2002)に出た。これは世界遺産登録を念頭に置いたもののようだったが、それでもやはり奈良県内に調査が限定されている。県の壁は高いらしい。その調査報告書の中では熊野記念館資料収集委員会による報告書の評価は高く、

「ほとんど唯一の調査報告書」であって、今回の奈良県教育委員会の調査でもこの達成に依拠し、改訂増補を試みることにした

 と書かれているほどである。瀬古潔市長の熊野記念館は箱としてはいまだにできあがってはいないものの、業績は確実に残しているようだ。

 ちなみに海路書院の歴史の道調査報告書集成でも最初に出たのは和歌山をあつかった巻だ。一巻に全部収まっていて便利。

近畿地方の歴史の道〈4〉奈良1 (歴史の道調査報告書集成)

近畿地方の歴史の道〈4〉奈良1 (歴史の道調査報告書集成)

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新熊野林間レクリエーションエリアの現在

 新宮のあたりをうろちょろしているが、毎夜車中泊で生活している。三菱のEKワゴン(新型の方)は車内はかなり快適にできているのだが、車中泊のことまでは考えて設計されていない。平っぽくははなるがデコボコしていたり傾いていたりするのでどうしても変な姿勢になる。まぁ体の疲れもたまってくるので、この月曜の夜は高田グリーンランド 雲取温泉で泊まってみた。安かったから泊まったのであって高ければ泊まらない。

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 これが新宮の瀬古潔市長が熊野記念館をねじこんだ「新熊野林間レクリエーションエリア」の中核施設のその後だ。今の収入の柱は温泉施設で、日帰り温泉だけやってた方が財務体質的にはよいのだが、もともと研修施設から出発したところだから宿泊も研修施設もやっているという。

 昭和56年(1981)頃の整備計画書によると、この「新熊野林間レクリエーションエリア」の方向性として

神秘の熊野文化と南海のロマンを体験する圏域をめざして

 とある。そしてここ高田に作られるのは複合型のレクリエーションエリア。写真で撮ってきたこの施設は

鑑賞・体験施設 修験道追体験活動、神話の世界を瞑想、歴史や文化を鑑賞する活動を行うことを目的とした施設

 であって、修験道を正面に出していたようだ。実際、昔のパンフレットをみると、今はただの「会議室」「大広間」でしかないところに「熊野文化道場」「熊野教養教室」「瞑想ホール」「かたらいの熊野民話室」などという名前がつけられている。でも実際修験道のなにかをこんなところでしたんだろうか。そうだとすると宗教施設をつくってることになり、問題になるかもしれない。そもそも修験道で人が来るんだろうか。まぁこの時代の後にオウム真理教がやってくることを考えると、案外受けはよかったのかもしれない。

 昭和58年(1983)に「新熊野体験研修センター」ができ、昭和59年(1989)、その横に「農林漁業実習館」が開く。これで研修施設と宿泊施設が揃ったことになり、当時の「広報しんぐう」によると「レクリエーションエリアの両翼」などと紹介されている。そういうとうちのあたりにもゼミナールハウスというのがあったが山奥に研修施設を作るというのはそのころよくある計画だったんだろうか。

 まぁしかし研修・宿泊施設だけでは財務的に厳しかったらしい。ふるさと創生資金の一部(1000万円)をつかって温泉利用権の手続をし、近畿大学と組んで温泉の掘削に着手したらしい。「ふるさと健康公園整備事業」で事業費は7.5億だそうだ。まぁ順調に温泉は湧き、健康保養館なるものがオープンしたのが平成6年(1994)。これが大盛況でそこから経営が安定したそうだ。この健康保養館に今は受付がある。

 らしいらしい、そうだそうだと書いているが、これは、温泉に入ってから外をブラブラしていると出たところに新宮市役所の高田支所があり、そこで聞いたらたまたま詳しい人がいたのだ。もちろん何の準備もないところでいきなり聞いた話なので後から調べると微妙にズレてたところもあったが、そこは修正した。建物がいつできた程度の事は調べたらすぐわかるが、経営の話は聞かないとわからない。

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 これが泊まった部屋だが、ここまで書いたところの「農林漁業実習館」に相当する。襖で区切られて12畳だが、三つ部屋がならんでいるので、最大36畳の部屋になるようだ。この広さで3000円程度なんだから安い。温泉はなぜか「天台烏薬」という漢方薬くさい薬草風呂と普通の風呂と露天風呂がある。天台烏薬は自生しているもののようだが、これを徐福が求めにきたという設定になっているようだ。

 ということで今日からまた車中泊である。さてどこで寝るかな...

るるぶ南紀白浜 伊勢 志摩'18 (るるぶ情報版 近畿 10)

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熊野学研究センター失敗の歴史 2 梅原猛と熊野学研究センター(仮称)

これの続編です inudaisho.hatenablog.com

熊野記念館計画からみくまの総合資料館計画へ

 さて瀬古潔市長の遺産である熊野記念館であるが、昭和58年(1978)の市長交替後の財政事情で取り止めになり、市政50周年を飾れなかったということは書いた。翌年新宮の長期総合計画にいれていつかは建設することとし、当分はレクリエーションエリアとして開発された場所での活動として取り組まれたのである。ただしこれ、既に書いたようにレクリエーションエリア構想に外挿して拡張したようなものなので、とりあえずは構想に沿った形での展開に戻し、カネの目処が立ってから建設することにしたともいえる。

 城跡の用地が確保されているのに建物については放置されたまま月日は過ぎたがその一方で併設される予定だった佐藤春夫記念館については、家が寄贈されることになって用地の確保もすみ、移築されて平成元年(1989)にはオープンした。同年熊野記念館の資料収集委員会として活動していた人たちも「みくまの総合資料館」と名前を改めることになった。

梅原猛 と 熊野学研究センター(仮称)

 ところでちょくちょく新宮に来て講演会など開いていた梅原猛だが、昭和62年(1987)には国際日本文化研究センター(日文研)の所長となり、日本文化デザイン会議のようなイベントを主催するようになった。その三回目、昭和63年(1988)に「熊野」をテーマにした。このバブルの時代、「熊野」が一種のブームだったようなのである。あるいはバブル景気で浮かれる世間の風潮へのアンチテーゼみたいな扱いだったのかもしれない。和歌山県の方でも昭和61年(1986)に熊野文化リゾート基地の形成という構想を作ったが、この盛り上りを見て、やはり梅原猛などを招いて懇話会を開き、各所の意見を聴取して、平成3年(1991)に「熊野学ネットワーク」の構想をぶちあげ、そのなかで熊野学研究センター(仮称)が登場した。

 梅原猛は「縄文文化」と彼がおもっているものに固執し、アイヌ沖縄はその成分が濃いとして注目したが、そういう文脈で熊野にも注目していたようだ。だから熊野学についても、熊野だけで学がなりたつというような事を書いていたりするが、その是非はさておき、この「熊野学」とはつまり何なんだろうか。

 答えは簡単な話で、そのころ地域研究が流行っていただけだ。県が出した報告書などをみると各地の「学」の例として、横浜学、小田急学、播磨学などが並べてある。熊野がそのころ流行っていたので地域振興の一環として県が熊野学を立ちあげようとしたのだろう。ちなみに梅原猛がどれだけ入れこんでいたのかはわからない。後年日経の「私の履歴書」欄を書いたときには熊野のことは出てこなかった。まぁ、もともと哲学の人だから...

新宮への誘致とみくまの総合資料館計画の止揚

 熊野学研究センター(仮称)はどこに作るか決まっていなかったが、新宮からすると「みくまの総合資料館」計画の蓄積があるので誘致もしやすい。ただしどこに熊野を代表する建物を置くかは常に論争になる。だいたい新宮は沿岸なので照りつける太陽に青い海と、ほぼ南国の雰囲気がある。そのころの熊野ブームは神秘を強調していたのでイメージ的にはズレるのではなかろうか。

 それはともかく、平成8年(1996)には熊野学のセンターと文化ホールを合わせた文化複合施設を誘致することに成功。平成10年(1999)から新宮旧市内の南側にある広角に用地を取得、と話が大きく動きだした。当時の市長は岸順三。あまり評判はよくないが、とにかく話が動きだしたので、「みくまの総合資料館」のチームは熊野学研究センター(仮称)への合流を目指すことになった。

佐藤春陽市長時代

 平成11年(1999)に市長が交替。佐藤春陽は元県職員で県と話がしやすい……はずだったが、話がしやすいの意味が違っていた。たとえば県がスポーツ公園をつくるということで取得していた土地をわざわざ購入してそこへあらためて野球場を作るというようなことをしていたらしい。新宮の意見が通りやすいというよりは県の意見が通りやすいということのようだ。そもそも市長になったのも退職した直後なので、年金がもらえるようになるまでの腰掛けのようなものだったんだろう。熊野学研究センターのはいる複合施設のための広角の土地を整備したはいいものの、県側の動きがあまりないまま、その話を持ってきた西口勇知事が健康上の理由で交替し、平成12年(2000)から木村知事になって話が有耶無耶になっていく。一方でそのころから本格的に動きだしていたのが世界遺産登録を目指す運動だ。

熊野古道世界遺産登録

 熊野古道世界遺産登録運動は1997年(平成9年)ごろからはじまり、わりと順調に進んで2004年(平成16年)には正式に登録された。熊野古道は「紀伊山地の霊場と参詣道」というタイトルで登録された。霊場+参詣道という形で登録されたのは新宮市などが「熊野三山世界遺産登録準備委員会」などを結成したので両方の顔を立てたんだろう。しかし、世界遺産センターは本宮に平成17年(2005)建設された。その運動の中で熊野学研究センターに触れられることもなく、県へ要望を出しても通らず、やがて佐藤春陽市長は自前で作ると言いだした。

熊野川町との合併

 平成17年(2005)には新宮市熊野川町と合併する。どうもその旧庁舎に熊野学研究センターを入れるという案もあったらしいがそれもポシャった。平成の大合併那智勝浦町や本宮町との合併はできないままに終わった。特に本宮などは西海岸の田辺と合併してしまった。

国際熊野学会の設立

 そうこうしているうちに「熊野学」の領域でも変化があった。世界遺産登録のすこし前くらいから明治大学の林雅彦とかいうのがチョロチョロしだし、三重県の方の熊野で活動していた早稲田大学などとともに「国際熊野学会」を立ちあげてしまったのだ。本格的な熊野学のための場ができたのはよろこばしいが、箱なしでも話が進むような形ができてしまった。

そして今回の熊野学センターの計画へ

 新宮の問題としてオークワやイオンなどの大型店舗が出店したため、昔の商店街が寂れてしまったということがある。....これは自分の観察ではない。寂れるのは大型駐車場もなく自動車時代に対応もしていない不便な商店街や、巧みさが全く見当らない都市計画のためだろうとおもうのだが、それはさておき新宮人はそう思うようだ。そこでその商店街に近い小学校・文化会館の跡地に図書館やホール・熊野学センターからなる文化複合施設をつくって賑わいを取り戻すということになった。2008年(平成20年)からの長期総合計画はこれまでの思い付きのような計画よりは着実に進んでいるのだが、それでも台風被害で一回休みになり、さらに遺跡がでてストップし設計変更し、という具合で、結局今回のように熊野学センターは延期となったのだった。

 ちなみに

熊野学

 このサイトは新宮市教育委員会と文化振興科が管理していたが、2012年で更新がストップしている。その後は

熊野学の森

 が同等の内容を更新しつづけている。ここに出てくるなんとかスクールというのが、瀬古市長の残した設定の末裔ということになる。

地域研究入門―世界の地域を理解するために

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熊野詣 三山信仰と文化 (講談社学術文庫)

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