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君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

平岡龍城の『日華大辞典』のパトロン

 平岡龍城晩年の仕事の『日華大辞典』だが、パトロンがわかった。満洲かせいだ実業家が金を出していた。『日華大辞典』を推薦していた大物たちは平岡龍城を応援していたわけではなく、そのほとんどはこの実業家の関係なんだろう。福岡出身の満洲の実業家だから黒龍会とか玄洋社のつながりがあっても当然。日華大辞典の評価や広告が数点しかみつからなかったのだが、この実業家で探せばすこしはでてきた。しかし、病気で倒れてもこの辞典の仕事だけは援助しつづけて完成までこぎつけたということでそういう形で評価されてるのしかみつからない。『日華大辞典』を出したタイミングも事業の失敗と連動しているようにもみえる。なるほどこれは情報のこらんわ。しかも平岡龍城についても、専門外の人からそういう投機的な評価をされていたということでその成果のほどがあやしくなってくる。(土建屋のおやじが先生先生と言ってるような感じだと言えばわかりやすいか)

 平岡龍城は熊本出身らしいのだが、熊本が明治前期の大陸浪人の主要産地であることもわかってきた。日清戦争のときには遼東山東半島方面での戦争は前提としておらず、戦線が拡大してはじめて通訳を調達することになり、あわてて北京語/華北方言のできるやつをかきあつめ、それでも足らずに熊本に養成所をつくって急ごしらえしていた。熊本にはその前に日本では数少ない中国語教育の拠点があり、大陸に雄飛していたので作りやすかったようだ。その早期大陸浪人人脈や陸軍通訳人脈がのちの東亜同文会につながる。ということだが、なぜかその人脈の中に平岡龍城の名が見えない。北清事変の前後の北京在住日本人の集まりの中にも名前がみつからない。何者なんだ本当に。
 ただし偽名とかではなく確実に存在した人だということはわかっていてその資料をもうすこし集めたらなんとか尻尾がつかめるような気がしている。ということでそのうちまた熊本とか東京に行くだろう。

 ところで中国語中国語と書いているがこれは便宜的に書いてるだけで清末期にはそういう標準語的なものだけでも北京官話と南京官話の二系統があり、中華民国時期はどういったものを標準語とするかがなかなか決まらなかった。ペキンとかナンキンとか言ってるのは南京官話が主要な貿易用語だったころの名残。