メモ@inudaisho

君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

紀伊国名所図会の熊野篇(牟婁郡の部)はつかえるのか

 今は新宮とか那智勝浦のあたりをうろうろしている。新宮市の図書館は10万冊程度しか蔵書がないのだがそのうち3万冊弱が郷土資料ということでむしろ研究施設のようなもんなんだろう。新宮市立図書館 - Wikipedia によると、文化複合施設をつくって熊野学センターを作る予定だったそうだが遺跡がみつかったせいでカネ不足の新宮市は熊野学センターについては今回見送ったらしい。複合施設の建設計画は改めて作成され2020年完成予定とのこと。(20180503 書いたころはWikipediaのアップデートされてない情報に基いて放棄したとだけ書いていた。20180420に今後の計画が発表されていた)

f:id:inudaisho:20180422193032j:plain

 図書館に行って郷土資料のコーナーに行ってなにか見るというのは興味のある地域にいくと必ずするのだが、中にはその郷土資料コーナーが別室になっているところがある。この新宮市立図書館もそうで、軽い気持ちで本を見にいくと書庫に案内されてしまい最初は怖気づいて受付横にあるという軽い本を見にいったがこっちは軽すぎて読む気にならない。結局書庫に入って読ませてもらうことにして適当に読んでいるうち紀伊国名所図会に行き当たった。

 分厚い四冊の活字本があったのでそれを手にとって読んでみるとどうも記述が妙で、明治大正のことが入っていたりする。はて。校訂者が勝手に記述を増やしたのか?とおもって調べたのだが、そもそも熊野のあたりである牟婁郡の部については江戸時代の間に刊行されていなかったようだ。ではこの熊野篇は何なのか。ということで本を比較したりいろいろしていたのだが、結局のところ江本英雄「『紀伊国名所図会』出版の背景」、『和歌山地方史研究』47-49(2004-2005) に詳しくまとまっていた。まず本体の『紀伊国名所図会』だが、高市たけち志友が江戸時代藩の意向を組んで編集にとりくみ文化年間に一編二編を発行。その後、国学者の加納諸平が天保嘉永のころに三編後編を発行したが、牟婁郡については江戸時代の間に発行できなかったらしい。大正年間に活字校訂本を出したときも牟婁郡の部はないままだった。どうも10冊程度の草稿はあったらしいが出せる状態ではなかったようだ。

 事態が大きく動き出したのは昭和11年郷土史家の貴志康親が『紀伊国名所図会』の後摺本を影印で出したのだが、そこで熊野篇について『西国三十三所名所図会』(嘉永六年)から熊野関係を抽出して代用したことだ。大正の活字校訂本にも関わっていた高市志友の子孫高市志直に無断で出したので訴訟沙汰にもなったらしいが、それが本当かどうかはともかく、まちがいなくそのことが刺激となって、未出版の草稿が出ることになったらしい。図会なので当然木版の挿絵がいる。江戸時代に作られた分は草稿でも挿絵が残っていたらしいが、それで足りないものは鈴木雲渓(1867-1945)が描いた。昭和12年から昭和18年までかかって全て出版された。昭和45年、『紀伊国名所図会』の活字校訂本を復刻したとき、熊野篇もその体裁に会うように編集されて付された。というわけで現在見れる「熊野篇」はその編集された活字校訂本と、貴志康親が補った『西国三十三所名所図会』の熊野の部の影印本になる。

 活字校訂本の値打ちだが、草稿が存在してそれをそのまま使っているところはそれなりの値打ちがあるが、昭和になってから諸書を参考にしてでっちあげたところはあまり値打ちがない。活字校訂本の構成はこうなっている。

  • 1 田辺・白浜→中辺路→潮見峠・近露
  • 2 熊野権現の由来、比曾原王子→奥瀞
  • 3 玉置口→湯之峰・本宮→北山→尾鷲・長島・荷坂峠→九鬼・木本→新宮→那智
  • 4 那智山→勝浦→大辺路→太地・古座・串本・田辺、1で漏れた社寺を補

 これは鈴木雲渓が後序にまとめたのだがそこではこう書いてある。

三の巻以下は何分にも未定稿にて簡畧その要を得ず、殆ど手控えに等しきものなれば、數種の他書を引用し、魯魚の誤りを正しつゝ、取捨按排し、

 ということでそれをそのまま受けとれば田辺から本宮くらいまでしか草稿は整ってなかったんだろう。挿絵で追うと岩瀬広隆のものは第一巻で終わっている。そもそも第一巻の終わりも妙なところで終わっているので、そこまではそれなりに揃っており、その後本宮まではなんとか都合を合わせることができたものの、そこからは昭和10年代に揃えられる材料から抽出するしかなかったんだろう。

 しかし今日江本論文をメモしながら通して一回読んだだけなのでどっか漏れているところもあるかもしれない。岩瀬広隆が全部書いているという件については今影印本の画像をみると後編あたりの挿絵は署名がないので案外田辺のあたりは高市志友がある程度書いてたのかもしれない。江本論文では熊野篇の草稿なるものは加納諸平の第二原稿ではないかと推測していたが、岩瀬を基準に考えるとちょっとマズいんじゃなかろうか。いずれにしても鈴木の挿絵は熊野篇第二巻からみっちり出てくるので、絵についてはそうなんだろう。(20180503 これについて臨川書店が平成8年に出した影印本の解説(須山高明・高橋克伸)によると、岩瀬広隆は第三編作成のため京都から呼びよせた浮世絵師で後に紀州藩のお抱え絵師になっている。)

 以上紀伊国名所図会の熊野篇について検討したが、今自分がうろちょろしているのは新宮から那智勝浦のあたりなので、もちろん東海岸の記述を見たい。その観点からいうとこの熊野篇はまったく価値がない。まだ三十三所名所図会を流用したものの方がそれなりの情報といえる。ちなみにその貴志康親が出した影印本は国会図書館デジタルコレクションで公開されていた。

 ところで国会図書館デジタルコレクションの全コマダウンロードについてあんまり使わないかもみたいなことを書いていたが、今チマチマダウンロードできないのでやってみたところ一発で落ちてきた。これは便利だわ。目次はあとから自分でつけたらいい。

紀伊国名所図会 (版本地誌大系)

紀伊国名所図会 (版本地誌大系)