メモ@inudaisho

2017/06/24 はてなダイアリーから引越 / 君見ずや出版

熊野列石と宇久井半島の神籠石

 最近新宮で郷土資料の最近の雑誌を眺めているので面白いと思ったことを書いていく。ただ車中泊生活でかつ新宮周辺は充電ポイントが少ないのでこうしてアウトプットしていくのもなかなか厳しいものがある。

 那智と新宮の間に宇久井半島というのがあるが、那智勝浦町史を見ていると文化財としてここに神籠石があるという記述がある。

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(openstreetmapの画像を加工)

 神籠石というのはまぁ考古学では有名な神籠石論争というのがあり、これ城でしょという見方に対して喜田貞吉が神域説でがんばったのだが、戦後になってその多くは、白村江の敗戦のあと半島方面からの侵略に備えて西日本の要所に作られた朝鮮式山城(少なくとも古代山城)だということになった。昭和50年代の年寄であれば基礎知識が戦前止まりということは普通なので なんか不思議な石組があるのでそれだと思いこんだということは十分考えられる。では何だろうとおもって宇久井半島で現地観察したのがこれ。

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 近づくとこうなっている。

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 これは... 節理では....

 このときは那智勝浦町の図書館でそれを読んで見に行ってその後熊野一周をしたのでそれ以上のことがわからなかったのだが、新宮でダラダラと地方の雑誌を読んでると同じ疑問を持って同じように調べた専門の人がいた。

すなわち、この石群は、「自然石を数列に地中深く積み並べた跡」(『那智勝浦町史』1980)とは認められず、地表に直接露出した基盤の花崗斑岩の一部であり、柱状節理に沿って形成された侵食地形、自然の造形物である。 (後誠介「宇久井岬の神籠石とされる石群の成因」『熊野誌』38、1992)

 なーんだそんなことか、ではこんな文章を作っている意味がない。どうしてそんな妄想が町史にのってしまったのか、その背景を探っていこう。宇久井半島がある那智勝浦町の山側には高津気という地区があり、そこには「熊野列石」という名で有名な石組みがある。この熊野列石はこの熊野地方の山間部にある長大な石垣群のことで、特にこの高津気の列石は立派なものとして有名だ。具体的にはこんな感じ。

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 この「列石」であるが、現地ではシシ垣とされていたものである。猪や鹿の獣害を避けるための「城壁」だ。このシシ垣だが今では有名となってたとえば日本全国のシシ垣所在地を連絡する「シシ垣ネットワーク」なんてものもある。

シシ垣ネットワークへようこそ

 ではなぜシシ垣ではなくより抽象的な「列石」と呼ばれているか。考えられるのは、この列石が神武東征や邪馬台国と結びつけられて騒がれた時代があったその影響だ。日本書紀の神武東征では奈良盆地に大阪方面から入ろうとして敗北し、紀伊半島を海路で迂回し、奈良盆地の東南へ出て今度は勝ち、国の基礎とするということになっているが、迂回したあとの上陸地点らしきところについてこのように書かれている。

遂越狹野而到熊野神邑、且登天磐盾

 この天磐盾は新宮の神倉神社があるところを指すというのが一般的な解釈で、従って「狹野」というのも現在の新宮市佐野のあたりのことだということになっている。そして宇久井半島というのは佐野の南側にあるのだ。そういうところからロマンというか妄想をかきたてられ、熊野の山奥にある謎の石垣は神武東征のとき熊野原住民が作った石垣だといったり邪馬台国とこじつけた本を出す人がいたりマスコミがもてはやしたりした時代があったようだ。そしてそのロマンがどうしても捨てられないらしく、この石垣群はシシ垣ではなく「熊野列石」という名前で呼ばれるようになったというところではなかろうか。実際全てが江戸時代に作られたシシ垣というわけではなく、もともとあった石組みを転用したところもあったようではある。

 ただし、そういった騒動があった頃からそう遠くない昭和62年(1987)の時点で『熊野の列石』という調査報告書が出ているが、その中でこのシシ垣について高津気の人たちに聞き込み調査をしている。その中で、このシシ垣を境として外側を入会地(つまり共有地)としていたこと、海側の宇久井の人達と山側の高津気の人達の間では、宇久井の人達は高津気の入会地で草や薪を自由に取っていいこと、高津気の人達はそのかわり宇久井の海で自由に魚など取っていいという取り決めになっていたことがわかる。そしてこのシシ垣を大事にして毎年決まった日に手入れをしていたという事だ。長年の整備の結果だから立派なものになったのもうなづける。そもそも高津気のシシ垣を見にいけばわかるのだが、あたりの山中には石がゴロゴロしていてこのような石垣を作るのに何の不自由もない。寄せて積むだけでできるのだ。

 そして宇久井半島の神籠石に戻る。山の中にある石垣をみてそういうロマンに繋げるくらいであるから、半島に地中からでている謎の石をみて同じロマンから、神籠石かも、と思う人もいたということだろう。那智勝浦町史が出たのは昭和55年で、『熊野の列石』の調査報告書が出る7年前である。まぁ、本気で信じてなかったとしても、熊野列石とリンクさせた観光名所にはなるくらいの考えはあったかもしれない。ただ、熊野地方をまわると、こういう柱状節理があちこちにあるので、石にそれほど興味がなくても見慣れた人ならすぐにバレるだろう。実際、那智勝浦町史にはのったものの、町指定文化財目録にはのっていなかったらしい。