メモ@inudaisho

2017/06/24 はてなダイアリーから引越 / 君見ずや出版

富士の本宮・新宮から熊野の本宮・新宮を解釈する

 熊野を離れて伊勢にしばらくいたが図書館の休日(月曜)になったので移動することにし、寸又峡温泉梅ヶ島温泉という硫黄泉がどんなものか知るために伊勢湾の対岸まで移動した。ついでに大学のときの知り合いとメシでも食うために静岡に寄ったのだが、そのとき早く着きすぎたのでそれまで行ったことのない静岡市文化財資料館というところへ行ってみたら、静岡浅間神社の境内にあって、そもそもこの資料館自体が神社にある文化財のために存在するようなものだった。静岡浅間神社は賤機山の麓にあり、「静岡」の名前もこの賤機山に由来するものらしい。

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 静岡浅間神社は戦国時代の末期今川氏から武田氏が奪ったが、さらに武田氏が滅びるときに徳川家康が焼いてしまったということで、駿河国をあげて再建したということで今のように豪華なものになったようだ。駿府(今の静岡)の地位は家康死後急速に低下したがそれでも旗本が交替で集まる土地ということでこの浅間神社にもいろんな宝物が残ることになったようだ。

 ところでこの静岡浅間神社の由来などをみていると、富士宮浅間神社(富士山本宮)を勧請して富士宮の方を本宮、静岡のを新宮としたということになっており、実際「富士新宮」という名前で中世の古文書などにも書いてある。静岡浅間神社という名前ではあるが、そもそも神戸神社・大歳御祖神社などが既にあったところへ浅間神社を勧請したという形のようだ。その年代は醍醐天皇の延喜元年(901)ということになっている。富士山信仰で在来の神を上書きしたという形なのかもしれない。そこで気になるのがその年代だ。醍醐天皇宇多天皇の子で、宇多天皇は寛平9年(897)に醍醐天皇に譲位して上皇となり、さらに昌泰2年(899)には出家して法皇となった。醍醐天皇宇多法皇もその約30年後に相次いで死ぬのだが、富士浅間神社に本宮新宮ができたのは宇多法皇がまだまだ元気なころということになる。

 ところで宇多法皇というと熊野三山の浮上には非常に縁の深い人で、この天皇が仏教に凝り、最初に熊野参りをしたのがのちの院政時代の貴族による熊野参りの盛期を導いたことになっている。そもそも熊野三山の歴史について、院政時代の熊野参詣盛期以前は非常にあやふやで、研究書などでもまちまちなことが書かれている。社名についても熊野三山が成立する前は「熊野坐神社」「熊野速玉神社」でしかなく、本宮新宮などの呼称がいつからかについてもはっきりしたことはわかっていない。本宮・新宮・那智を一体のものとして熊野三山として整備されたときに神格の整備も行われたという説がもっともらしい。花の窟などとの関係もはっきりしないが、熊野三山の祭祀の中には花の窟ががっちりと組みこまれている。熊野三山が整備されたときにそれ以前の祭祀が熊野三山の一部に組み込まれたのかもしれない。花の窟での祭祀が日本書紀の熊野有馬村の祭祀を残したものだという解釈があるが、むしろ仏教儀礼ぽいという当然すぎる指摘もあり、修験道の香りが強い熊野三山の整備のときに日本書紀にある祭礼なるものはこんなんだろということで仏教的儀礼から適当に選ばれたのかもしれない。そのあたりも歴史の闇の中だから格好の妄想の的だ。だいたいこの紀伊伊勢あたり、権威づけのために偽書とか平気で作る風土で熊野三山自身もその由来を中国から飛んできたことにしたり適当な話を作っている。伊勢外宮も伊雑宮も玉置神社も牛鼻神社もその後から来たものというだけだろう。

 富士新宮を新設した延喜元年(901)はまた微妙な年で、宇多が藤原氏牽制のためにとりたてていた菅原道真がその年初に失脚し、その年末には宇多法皇が東寺で伝法灌頂を受けて、真言宗阿闍梨になっている。宇多法皇天皇になる前は実は臣下であり、そこから天皇になったため、以前つかえていた陽成上皇との関係には悩まされたらしい。仏教に入れこんだのも藤原氏対策だけではなく、陽成上皇との関係を克服するためという面もあったのだろう。陽成は長命で醍醐・宇多の死よりも20年ほど後に死んだので、宇多は死ぬまで宗教に入れこむ理由があった。

 最初の熊野参詣は延喜7年(907/8)ということになっているがそのために神格の低かった熊野の神社が浮上することになったという。もっとも本宮新宮などという関係はそのころはなかったようだ。新宮市の方では新宮という名称はゴトビキ岩のある神倉神社に対するものであって本宮に対するものではないとか阿須賀神社に対するものという言説があるが、これは速玉大社に対する贔屓目だろう。むしろこれは富士山をまつった浅間神社の本宮新宮の関係に近いのではなかろうか。歴史が古く在来の神があった静岡の地に富士山の浅間神社をもってきて富士新宮としたように、在来の神があったところへ本宮の神をもってきて新宮とし、上書きしたのではないか。本宮の神は川の中州にあり、その実よくわからないとされるのは、神倉神社のゴトビキ岩信仰のように対称がはっきりしていないからだが、そういう抽象的なものの方が後からできたという筋はありえそうではある。10世紀は日本中で律令制が崩壊して地方の国府などの中には廃絶するところもでてきたということになっているが、むしろ古代からそれまで律令制下に適応して生きのこっていた豪族勢力がそのころようやく国家制度に組みこまれて在地性を失い、在来勢力が巣喰っていた国府が放棄されたというだけかもしれない。静岡で起こったような神格の上書きはそれに先行して起こったのかもしれない。延喜式はその記録なのかもしれない。

 全然関係ないが、富士山のあたりは熊野の新宮とおなじように徐福伝説をもっていたりする。

静岡浅間神社の稚児舞と廿日会祭

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富士山文化――その信仰遺跡を歩く(祥伝社新書325)

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