メモ@inudaisho

2017/06/24 はてなダイアリーから引越 / 君見ずや出版

水滸伝の不分巻百回本について

水滸伝の世界』

 高島俊男水滸伝の世界』(大修館書店1987、ちくま文庫2001)という本がある。水滸伝の内容だけではなく、研究史まで入れた幅広い内容を一通り解説したもので、しかもその専門的な内容を一般人に読ませる読み物に仕立てあげることに成功した名著といえるものだが、1987年(昭和62年)に出たものだけあって、内容が古くなっているところがある。それが一番よくわかるのがこの「不分巻百回本」の件だ。

水滸伝の世界 (ちくま文庫)

水滸伝の世界 (ちくま文庫)

水滸伝の成立史と不分巻百回本

 水滸伝の成立史は複雑だが、大雑把に書くと、まず水滸伝の元になった各種説話があり、それらを物語としてまとめた百回本ができ、そこから内容をダイジェストした文簡本が生まれ、さらに田虎王慶故事が挿しこまれた文簡本ができ、その田虎王慶故事を百回本相当に詳しくストーリーを仕立てなおして挿しこみなおした百二十回本ができ、さらに百八人勢揃いから後をぶった切った七十回本ができるという大筋がある。大筋と書いたが、1980年代までにわかって『水滸伝の世界」にまとめられたのがそれくらいということだけだ。その後順調に水滸伝研究は発展し、もうすこし詳しいこともわかっている。

 水滸伝のテキストの大分類として文繁本と文簡本というのが使われてきたが、その違いは文章が詳しく書いてあるか簡単にまとめてあるかという違いだ。が、最近の研究では分巻不分巻を重視するようになっている。当初の百回本は二十巻百回本として登場したが、やがて百巻百回本となり、不分巻百回本ができた。そこから百二十回本ができ、七十回本ができた、とするのが最近の定説となっている。以上は文繁本での話で、文簡本は巻の体裁をのこしているのが多いので分巻百回本の方から派生したものであるということになる。要は古さの目安に「巻」が使えるということだ。もっとも研究というのは当然とおもわれていることでも検討しないといけないので文繁・文簡の先後についてもその細部については要検討ということになる。

 ところが『水滸伝の世界』の段階では不分巻百回本は百二十回本から田虎王慶故事を抜いて百回本に仕立てなおしたもの、という説が主流だった。その証拠として挙げられる事の一つが「移置閻婆」で、宋江の話の中で、時間の経緯が不自然なのを辻褄があうように直した操作のことだが、それを最初にしたのが百二十回本であり、不分巻百回本は移置閻婆されているから百二十回本から作ったものということになっていた。どうしてそんなことになったのだろうか。

水滸伝の研究史

水滸伝諸本の残存状態

 水滸伝の研究史は長いようで短い。江戸時代の水滸伝研究というのは中国語研究の延長上にあった。読み物として受けいれられ、日本の戯作者が水滸伝をストーリーの雛形として使ってからはその内容に対する考察もなくはなかったが考察程度だった。その中で一人、名が伝わらないある高崎藩士と推測される人による水滸伝諸本の比較研究があったが、これは長く顧みられることがなかった。なぜなら水滸伝の諸本が研究される対象として研究者の手に届く場所に揃う時期がなかなか来なかったからだ。いいように言うなら孤証だから使えなかったのであるが、悪いように言うなら、水滸伝諸本の位置が定まるのに時間がかかってその武士と同じ地平に立つのが遅れただけである。

 とはいえ、日本はその武士の研究にみられるように、中国本土に比べて水滸伝の各種版本がよく残っていて、しかも外国のものだから比較的冷静に研究できるはずだった。中国本土では違った。中国では水滸伝は消費されるものだったから、古い本は新しく出た本にどんどん淘汰されていき、清末の時点では七十回本と各種文簡本が市場に出回っている状態だった。大量にあるのだが、そして大量にあるがゆえに、古い本は焚き付けにされたり素材として使われたりして消えてしまっているという状態だ。日本はそのときどきに出た本を値打ちもわからず買ってありがたがって残した結果、地層のように古い本が残ったというだけである。

中国の水滸伝研究

 いわゆる研究というのは近代とともにヨーロッパからやってきたものなので、中国における研究というのは日本のそれより短いはずなのだが、実は短いようで長い。無論それは近代的な意味での研究ではないのだが、水滸伝は中国の人たちの嗜好物だったので売り文句として水滸伝はこういうものだという前提がある程度共有されていたからである。そしてそれが時に文章に纏められている。たとえば百二十回本の前についている「発凡」というのがそれだし、金聖歎が七十回本の先頭に残した文章なんてのもその前提に新しいものを追加しようとしたものになる。いろんな本についている序文などもそれだ。今では単なる資料扱いされているが、売り文句であり資料であり独自研究でもあると思って慎重に扱うしかない。二十世紀中盤の水滸伝版本の研究というのはその「発凡」の中に書いてあることが何を意味するのか、ということが話題の一つだった。さきほど例に出した「移置閻婆」という言葉もそこに書いてあったものだ。そしてそういった文章の中に出現する「郭武定本」という水滸伝の善本の幻想が今も研究者の頭のどこかにあってどう処理したものか悩ませるのである。

 さて中国における水滸伝の研究は、辛亥革命清朝が倒れ、中華民国が出現してから、中国の統一口語を作るための規範として水滸伝が持ちあげられるところから出発した。政治の国中国で、政治的な理由でクローズアップされて研究がスタートしたのだから尋常なスタートにはならない。その後も水滸伝は革命の見本としても持ちあげられたり、修正主義者の象徴として下げられたりして、常に政治の渦の中にあった。「紅楼夢」も水滸伝と並んで口語の規範になったのだが、こちらはすでに清代に「紅迷」という熱狂的なファンがいて、徹底的に考察が加えられていた。また、本についても中国の国内の範囲でほぼなりたつものだった。しかし水滸伝は違う。成り立ちが古すぎて、明代後期に出版していた人たちでさえ、確実なことはよくわかっていない。しかも善本とされる百回本の「容与堂本」は日本に数部ある。さらにその時点で中国には七十回本と文簡本しか市場に出回っていない。というところからのスタートだった。

続出する謎の水滸伝版本

 ただしそのようにこれからの中国の口語を象徴する本のいいものが日本にあるというのは中国のメンツ的に具合が悪いものらしい。最初は文簡本から文繁本ができたのではないかという説が出た。ちなみに文繁・文簡の区別が重要になるのは当然ながら、口語の規範にしようというのだから文章を大事に見たからだ。文簡本からできたことにすれば、中国市場に大量にでまわっている文簡本が先行していたことになる。ところが、中国は広い。探せばなんらかの本が出てくるもので、やがて李玄伯という人が百回本をみつけ、これこそ郭武定本であるとしてなぜか「活字にして」出版したので文簡本が先行したという説は消え、文繁本百回本が最初という説が通った。ところがこの活字本を詳細に調べるとどうも不分巻百回本らしい。しかも百二十回本の痕跡まである。ということで、不分巻百回本は百二十回本から作られたという説の素地ができた。

 さらに戦後になって、「天都外臣本」という本があらわれた。これこそ「郭武定本」という触れ込みなのだが、なぜか『水滸全伝』という百二十回本の活字本でその対校相手として出てくるのみ。これも喧喧諤諤の議論がなされ、部分的には古いものをのこしている可能性はあるが、古い版木が清代まで残ってボロボロになったのを補って出版されたものだろうというところに落ちついた。

 こういったメンツ先行の操作はやがて北京に入手経路不明の容与堂本百回本が出現し、その影印本が出版されることで決着した。さらに嘉靖年間に遡るとされる残本(一部だけの本)まで出現した。とりあえずこれで中国のメンツはたったので、ようやく落ちついて研究できるようになったのである。といっても中国の政治の荒波が文化大革命というピークを迎え、ようやく落ちつくのが1980年代だ。

 このように、中国が繰り出してくる虚実にふりまわされていたのが戦前戦後の水滸伝研究であり、それに疲れ果てた日本の研究者が武断的に百二十回本の冒頭の「発凡」に「移置閻婆」が書いてあるのだから百二十回本が最初にそういう操作をした、不分巻百回本は百二十回本から出来た、としたのが不分巻百回本についての説で、それに中国側も唱和しただけだった。『水滸伝の世界』はそれを追認しただけに過ぎない。

不分巻百回本についての新説の登場

佐藤錬太郎

 不分巻百回本についての新説は意外なところから現れた。中国文学畑ではなく、中国哲学畑から。駆け出しの李卓吾研究者の佐藤錬太郎である。ここまでで何回も挙げてきた容与堂本には李卓吾の評がついている。それどころか百二十回本にも、百回本の他の本にもついていてそれぞれ違いがある。さてどれが李卓吾の本物の評なのか、というのがその研究の核心なのだが、それと同時に版本の系統研究もやり、ここで初めて、不分巻百回本が百二十回本に先行するのではないか、という説をとなえたのだった。その諸研究がまとめられたのが「李卓吾評『忠義水滸伝』について」『東方學』71、1986 である。佐藤氏はこれで東方学会賞をもらったのだが、その論文の核心である李卓吾評の真偽についてはともかく、不分巻百回本の説については水滸伝研究者に受けいれられたわけではなかった。それは翌年出版された『水滸伝の世界』(高島1987)でまったく触れられていないことでもわかる。

高山節也

 つづいて水滸伝諸版本の系統研究に登場したのが高山節也「佐賀鍋島諸文庫蔵漢籍明版について -遺香堂繪像本忠義水滸傳-」『汲古』13 、1988 である。ここでは新出版本の不分巻百回本の遺香堂本と諸本を比べ、李玄伯本が遺香堂本と百二十回本との合成本であることを示唆した。さらに系統的には百二十回本は遺香堂本と祖をおなじくするとした。不分巻百回本が百二十回本に先行するという説をはじめて検証した人である。ただし佐藤論文については瑕疵が多いとした。

笠井直美

 さらに、北京大学に留学したとき、たまたま李玄伯本の原本とおもわれる本をみつけ、調べた結果をまとめたのが笠井直美「李宗侗(玄伯)旧蔵『忠義水滸傳』」東洋文化研究所紀要131、1996 である。ただしみつけたマイクロフィルムは後半が欠けた残本の状態であった。その版本が遺香堂本とほぼ同版であることを確認し、李玄伯が出した活字本は原本を百二十回本で補ったものであり、不分巻百回本の代表のように扱われているがそれには値しないとした。研究史の紹介の部分で自説に有利なように曲げて紹介してるところがあるのは否めないがしかし核心部分とはあまり関係ない。結局この説は広く受けいれられていなかったようで、2009年には「北京大學圖書館藏『忠義水滸全傳』 - 「萬暦袁無涯原刊」情報の一人歩き-」『名古屋大学国語学文学論集』21で詳細な調査をし、現存の百二十回本の刊本情報が曖昧で、いわゆる袁無涯刻本は百二十回本ではない可能性もあることを示し、またその中で再度不分巻百回本が百二十回本に先行することを示した。

小松謙

 これらの論考によって不分巻百回本が百二十回本に先行するようであることは確定したようなものだが、さらに小松謙「水滸伝諸本考」『京都府立大学学術報告「人文」』68、2016 において、金聖歎の七十回本のテキストを基本に諸本のテキストを詳細に比較したうえで同様の結果も出ており、通説として確立したといえる。ただ、不分巻百回本間の詳細な位置付けの検討はまだ残されている分野だろう。最後に、なぜこんなものを書いたのかまとめておく。

なぜこれを書いたか

 水滸伝については日本の中でかなり詳しい方だと思っていたのだが、この不分巻百回本のことについて全くわかっていたかったことに今ごろ気付いたのがショックだったからだ。これは自分が当然のことながら、そもそも研究者レベルではなかったことを意味する。中国文学をやってる学科に行ってそれなりの訓練を積んでいれば、版本のことにも触れなければはならず、こういうことにはならなかったのだろうが、版本のことについては文章で書いてあるのを見てもよくわからず、見ないといけないなというところで停まっていた。

 高校のころ『水滸伝の世界』を買ったのがよくなかったのかもしれない。その中にあった愛読者カードを出したことがきっかけで高島さんと文通するようになり、なぜか『水滸伝人物事典』の手伝いをするということになった。今から思うと、それまで学生使ってやってた水滸伝辞典稿のような作業を想定していただけで、頭をひねるようなことをさせるつもりはなかったんだとおもうが、とりあえず浪人したので早速作業に入り、言われるままにカード作成からはじめた。中文にしようかなとおもっていたところ、文学部はメシが食えないということで工学部にして大学に潜りこんだのはいいものの、貴重な休みをその人物事典作成に費してしまった。今から思うと非常にもったいないことをした。そのころ女子とキャッキャウフフしておけば今まで独身で過ごすということはなかったかもしれない。カードができるとお役御免とおもっていたが、次は文章を書くのもやれということだった。アホなので言われるままにやっていたが、同時に大学も時に休学して旅行に行くことを覚え、結局工学部では間に合わなくなったので文学部に転部した。しかしなぜか中文ではなく、東洋史に入ったのだった。そのころまでに人物事典の原稿は一度書きあげたのを増量して書きなおし、そこから難波さんという高島さんの別の知り合いが手をいれて減量させるという手順になり最後に高島さんが手をいれて完成となった。付録としていろいろ勝手に調べたことをつけた。高島さんは資料をくれるだけで、いちいち教えない。ほぼ独自研究で勝手にやる。それを高島さんが勝手に直すということで機会は与えられたがほぼ矯正されていないという状態で全く訓練されたものではなかった。地方制度史なんか調べたおかげで、金末の漢人世侯など気になったが、結局水滸伝で卒論を書いて、杉さま等の教授連を煙にまいて適当に卒業した。これも全く指導されず、書いた成果も何の検証もされないというアホなことだった。杉さまにはよくわからないが面白いという御言葉を頂いたがバカにされただけかもしれない。大学はいいところにいったが、漢字の読み方の手解きをうけただけであとは自分の独自研究しかやってなかった。そのノリで、ちくま文庫の駒田訳『水滸伝』の解説を3巻以降代筆したがこれも完全な独自研究だった。今からおもうとこの時点で不分巻百回本のことについては不安に思っていたようで、百二十回本から作った百回本があるというようなことは書いていない。しかし、上に書いたようにちゃんと論文を追っていれば、少くともそういう説があるということは知っていたはずだ。基本のキもできていなかったのになにか知ったふりをしていろいろと文章を書いていたわけだ。

 2003年に社会に出て当時手ぶらでできたWebプログラマの真似事をやったあと、2006年頃に水滸伝の解説の代筆をやり、さらに岩波新書高島俊男水滸伝』みたいなのをやろうという話がでたのでこれも代筆せよとのことだったが、内容については『水滸伝と中国人』みたいなことを考えてある程度書いたが、せっかく岩波新書で出せるのだから、高島さんが本来書きたいという語学的な面からの水滸伝を出した方がいいのではないかという気になり、書き手紙を置いて逃亡してしまった。

 実は高山1998とかは目を通しているのだ。だから知らなかったというのは言いわけにはならない。当時の自分には理解を越えた内容だったので理解していなかっただけだ。Wikipedia にも既に書かれていることだからいまさら何も言うことはないが、それまで内容の古い『水滸伝の世界』を金科玉条とおしいだいて、不分巻百回本について無視した説を垂れながしていたのは事実であるから、ここに不明を恥じて明記しておく。

中国の大盗賊・完全版 (講談社現代新書)

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水滸伝 (図解雑学シリーズ)

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