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信陽遷都ネタは中国の近代史的におもしろい

信陽遷都というネタが2月7日中国で出回り、日本でもレコードチャイナが紹介したせいでネットで出まわってます。
レコードチャイナ:大気汚染で高まる遷都論、2016年に河南省信陽市へ首都移転?―...

(写真は百度でひろったものでおそらく字を書きかえただけのもの)
武漢がよいのだが武漢は既に大都市として発展しているのでその北の信陽ということらしく既にそういう提言がなされてはいるらしい。百度れば2010年ころにもそういう話がでていますね。まぁその真偽はさておき、中国の近代史上でこれについて二点ほどおもしろいことが考えられます。(注意:以下はただの歴史読み物です)

第一に軍事的観点。中国は沿岸部が発展してますが、沿岸部って海から攻められやすいんですね。今の首都北京は、清のときには第二次阿片戦争で天津から攻めあがられ、義和団の乱では外国の大使館を包囲したものの八カ国連合軍がこれまた天津から攻めあがってすぐに降参することになりました。中華民国の南京もそうですね。上海と南京の間にドイツ軍仕込みの塹壕網をめぐらして日本軍を相当足止めしたものの、日本軍が上海の南方海岸から上陸し、中国軍の側面を衝いたので総くずれとなり南京もあっという間に陥落です。
そういう歴史をかかえていると戦争しようとしてもおちおち戦争なんか始めれません。内陸に移動してどっしりかまえたいところです。

第二に、国民党と共産党という観点。国民党と共産党の愛憎の歴史の出発点がその信陽の南の武漢なんですね。
初代中華民国大総統の孫文はすぐに中央からしめだされ紆余曲折の末に広州に拠点を構え、ここで誕生まもないソ連赤軍をみならって軍隊を育成し、ソ連の子分である中国共産党と合体して政権奪還をめざします。で孫文亡きあと蒋介石がその軍隊を率いて北伐にむかうわけですが、そのとき新生中華民国の首都に予定していたのが武漢です。武漢を攻めおとしてそこに拠点を移動したのはいいものの、共産党と手をつないだ国民党左派にのっとられてしまいました。共産党ソ連の手先と嫌っていた蒋介石は、南京上海まで平定して南中国を押さえてから共産党をたたきだし、左派の色濃い武漢ではなく南京に首都を置きました。
以後蒋介石は北伐を継続させとりあえず中国全土を統一しますが、その一方で共産党を目の仇にし、日本がどさくさにまぎれて満洲国をつくっても、とにかく共産党を先につぶすという方針をつらぬいた結果、毛沢東率いる中国共産党を生みだしてしまいます。毛沢東は古参党員ですが本来指導部にいるような人間ではなかったのに、共産党蒋介石においつめられ、戦争のことがわかる毛沢東がのしあがったというわけです。蒋介石はその後の日本との戦争では第二次世界大戦まで粘りに粘り、アメリソ連をつかって日本を追いだしたものの、結局蒋介石毛沢東に追いだされるハメになってしまい、現代にいたります。
初期にはごくわずかしかいなかったインテリの政党中国共産党が勢力を伸ばせるようになったのは国民党の組織を利用して大きくなれたからだし、また農民への宣伝なんかは共産党の得意分野で、肝心の軍事教育や作戦指導はソ連頼みということで、蒋介石共産党を追いだすまでの国民党と共産党というのは切っても切れない関係でした。

今の中国共産党の大きな外交目標の一つといえば台湾を実行支配することで、海軍の増強なんかもそれにからんた長期計画の一環ともいえます。まぁ新陽遷都が本当なら、台湾の国民党にむけて「あのころからやりなおそう」みたいなメッセージをおくろうとしてるのかもしれません。

以上ガセネタをもとにヨタ話を書いてみました。