メモ@inudaisho

君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

インドと中国の国境騒ぎはどこで起きているのか?

(金鰤向け記事)(google地図へのリンク貼りまちがえてました...)

4月15日 中国の小部隊が中国インドの実行支配線を越えて10kmも侵入し、キャンプをしてから居座りつづけているというニュースが20日ごろから日本でも報道されていますが、どれもこれもインドのニュースをそのまま垂れながしているもので、実際にどこなのかよくわからない。

インドの報道では Daulat Beg Oldi の Burthe とされています。Daulat Beg Oldi はタリム盆地とインド平原を結ぶ交易ルート上にあり、すぐ北がカラコルム峠。Wikipediaの地図は以下の通り。
http://en.wikipedia.org/wiki/File:China_India_western_border_88.jpg

さてカラコルム峠ですが、これが1892年、インドを領しているイギリスと清が公式に認めた双方の境目になります。分水嶺でありなおかつキャラバンの通る交易ルートなのでそこが選ばれたようです。
しかしカラコルム峠だけが決まりその東西の国境がどこを走っているのかについては決められませんでした。以後、イギリスは清に何度か国境画定をもちかけますがのってくることはなく、国境は最後まで決まらないまま。その間、イギリスの方ではわりと妥当な線を引いたり、欲張った線を引っぱったりしていました。その欲張った線を継承して独立したのがインド。欲張った線というのはアクサイチンを全部囲んだ線です。アクサイチンはチベット高原の西北の隅にある無人の荒野で、Daulat Beg Oldi はさらにその西北の隅になります。まー要するに、タリム盆地のヤルカンドから南のクンルン山脈をのぼりつめたところにあるのがアクサイチンの荒野。その隅で小川がながれているのが Daulat Beg Oldiで、川ぞいにカラコルム山脈を下っていくとラダックに至りカシミールに出、果てはインド平原に下りるわけです。
ちなみに一番欲張った線ではカラコルム峠の北側もインドになりますがさすがにそこまでは主張できないようですね。

中国共産党チベットを占領してから、インドと国境画定交渉をしようとしますが今度はインドがのってこない。実は中国、1950年代半ばにはアクサイチンの東部にタリム盆地チベットを結ぶ道路を建設してしまってるんですね。インドもイギリス時代のアバウトな国境を勝手に解釈して国境警備所をつくったりして起こったのが1962年の中印国境紛争です。アクサイチンの方にいたインド軍は、さっさと力の差を見極めて反撃できるところまで撤退したので傷は浅かったのですが、ブータンの東の方(マクマホンライン)のインド軍は杜撰な指揮でボロ負け、ヒマラヤ山脈の下まで追い落されてしまいました。人民解放軍は圧倒的に勝っている間にとっとと撤退、一方的に「実際支配線」Line of Actual Control - Wikipedia から20km兵を下げる事を宣言しインドにも下げるよう要求します。以後その線が中国とインドの事実上の国境となります。
ここで重要なのは、イギリス時代具体的な国境線について合意に至ったことがないように、「実際支配線」についても合意に至ったことは一度もないということです。
ちなみに兵を下げることについてもインドは従っていません。清がイギリスの言いなりになるのがイヤだったように、インドも中国の言いなりになるのがイヤだったんでしょうね。(ボロ負けしたブータンの東の方では展開しづらい地形ということもあり、山脈の麓まで下がっています)

( 米空軍地図(1967作成1995修正) http://www.lib.utexas.edu/maps/tpc/txu-pclmaps-oclc-22834566_g-7d.jpg をもとに作成)
そこでこの Daulat Beg Oldi を中心とした地図をみましょう。カラコルム峠から東に走っている点線がインド主張の国境になります。要するにアクサイチンの北の縁です。そしてカラコルム峠から南に走っている網かけ線がいわゆる「実際支配線」です。昔のキャラバンルートはカラコルム峠から南にDaulat Beg Oldi、Burtsa、Murgo、と下っていき、さらに川にでて川沿いに南下していきます。川を下っていくとラダックのレーに出ます。
さてこのどこで騒ぎになっているのか。一応比較のために 10kmのゲージを貼ってみたんですがこの網掛け線から西に10kmとなると相当奥になりますね。ニュースにでてくる地名の Burthe というのはこの地図の Burtsa のことかと一時おもったんですが、それだと山の中になってしまいます。
ただ、カラコルム峠と Daulat Beg Oldiの中間をみてください。なぜか不思議なことに網掛け線が道路を跨いでいますね。そしてその境目のDaulat Beg Oldi側からカラコルム峠はだいたい10kmあります。
米軍の他の地図はこの米軍地図と同じように「実際支配線」を描いているので、なにか基づくものがあるんでしょうが、インド側にしてみればカラコルム峠から南がインドであることは決まっているのに道を下ったらすぐ中国を通らねばいけない事になりなんかおかしい。最初はここの事かとおもったんですが、まぁわかりません。ただ、道路建設が邪魔されているとかいう報道もあるので可能性は高い。

ちなみに同じ地点をgoogle地図でみるとこうなります。
全画面地図 Google Maps (35.458 77.863)
google地図だと跨いだりしてません。しかも「実行支配線」を比べると結構ズレてます。これだとどこが問題になってもおかしくないですね。

地図のことはこれまでにして、ヒートアップする原因は他にもあります。それが Daulat Beg Oldi にあるインド軍の飛行場です。この飛行場、紛争の数年後の1966年地震で壊れて使われないままになっていたんですが、2008年に供用を再開しています。道路建設とかいうのも、カラコルム峠を交易ルートとして復活させるという他に、軍用の意味もあるようですね。これも中国をいたく刺激しているようで、インドのミサイルや他の基地復活とあわせ、インドに中国への野心ありとさわいでいる向きもあるようです。

最後におおざっぱな歴史のお話。まぁこのへんは無人地帯なのでどこに属するも何もないのですが、大まかにいえばラダックの一部になります。そしてそのラダックはチベットの一部だったわけですが、19世紀にパンジャブシク教国にのみこまれその一諸侯になり、さらにシク教国がイギリスに組みこまれる過程でカシミール藩王国の一諸侯となります。そういうわけでラダックは小チベットとよばれることもあります。チベットから切り離されたかわりに中国の支配からまぬがれ、チベットらしい文化が残っているところとして有名。しかし中国からすると、もともとチベットの一部だから中国の一部という中国的理屈がなりたちそうですね。

以上。

(追記:個人的には某大先生が「このカラコルム峠のLACはアメリカが中印間にしくんだ地雷」とか言いだすのを予想。某大先生というのは「継続革命失敗してくやしい」みたいな文革の本かいたり「尖閣アメリカが日中間にわざと残した地雷」みたいなこと言ってる中国専門の大先生ですね)