メモ@inudaisho

君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

紅頭嶼

 台湾の南東に紅頭嶼という島がある。今は蘭嶼という。

蘭嶼 - 维基百科,自由的百科全书 (中文版)
蘭嶼 - Wikipedia (日本語版)

 台湾からだいたい60km離れている小島で、フィリピンのバタン諸島の最北の島からだいたい100km離れている。
 これだが、中文版のWikipediaの方には、

1877年,恆春知縣周有基將紅頭嶼(蘭嶼)併入清帝國版圖,隸屬恒春縣。

 と書いてある。1877年になってようやく清の版図に入ったということだ。

 いや実は今日国会図書館関西館で雑誌をてきとうにみていたら鳥居龍蔵が紅頭嶼に行ったときの報告の一部が転載されており、その中に1877年のことが書かれていたのですこし調べてみたのだ。
 鳥居龍蔵Wikipediaによれば台湾併合後の1897年にこの島を調査したとある。転載されていた雑誌は明治35年(1902)8月25日発行のものなので5年後だ。何が転載されていたかというとその調査報告の中で島と「支那人」のかかわりを調べた部分だ。

光緒三年(明治十年)清國政府ハ公然紅頭嶼ヲ以テ其領地トナサンガ爲メ、人ヲ茲ニ派遣セシム

 とあり、その後鳥居龍蔵が恒春でそのころの文書をさがしてどういうわけでそういうことになったかを調べてあげている。それをみると、紅頭嶼に漂着した商人が帰ってきて島に本土の人間が住んでいるというので調査することになり、島の測量と物産風俗などを調べたということだった。結局「蕃人」しかいなかったので一人つれて帰って調査結果を報告して終わりだったらしい。しかし鳥居龍蔵の興味は風俗に偏っており、その調査がどのようにして「公然紅頭嶼ヲ以テ其領地トナサンガ爲メ」だったのかには全然触れていないので、「併入清帝國版圖,隸屬恒春縣」と中文版Wikipediaにまとめてあるのがどういう手続でおこなわれたのかについてはよくわからない。

 しかしこれが日本の台湾出兵の後の出来事だと知るとなかなかおもしろい話になる。琉球王国への宮古島の貢納船が台湾の南端に漂着し、「生蕃」に殺された事件(1871)ののち、日本が台湾に出兵して「生蕃」を征伐した事(1874)があったのだが、そのとき清は福建船政大臣の沈腊を台湾に派遣して防衛を担当させ、そのまま「欽差辦理台灣等處海防兼理各國事務大臣」に昇格させて日本との有事にそなえたのである。
 沈楨腊は台湾の整備に着手するが、日本の台湾出兵の翌年(1875)日本の遠征軍が上陸した地域の中心に城をつくり、防衛拠点としてつかえるようにした。それが今ものこる恒春古城である(中国の城は城壁に囲まれた街なので同時に都市)。その恒春県が設置されてまもなく行ったのが紅頭嶼の調査というわけだ。

 ここまで調べが進めば、紅頭嶼の「編入」も沈楨腊の台湾整備の一環であるということが推測できる。
 あるいは領土意識に否応なく気付かされたからかもしれない。台湾出兵の前、清は日本に対し、化外の民「生蕃」がおこなったことだから知らないというナメた態度を一時とっていたので、その領土意識の曖昧さを突かれ、日本の台湾出兵を招いてしまった。李鴻章とともにその現場に居合わせてしまった沈楨腊であるから、近代的な領土概念が清にも近づいていることを肌でもって感じた可能性はある。
 まぁもっともそうであれば例の... 釣魚島でしたっけ?あれが清の版図とおもっているなら同じような手続きしてるはずですなー。はてさて。