メモ@inudaisho

君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

渡正元『巴里籠城日誌』とパリコミューン

 パリコミューンといえば、マルクス社会主義政権と認めたかなんとかで、アカい人たちが理想郷のようにあがめたてまつった末に「国を戦争状態に導いて革命を起こす」という恐しい観念をアカい人たちに植えつけた事件だが、ここでパリコミューンが成立する普仏戦争の経緯をまとめてみよう

 当時のフランスはヨーロッパの中心に鎮座する大国としてナポレオン三世のもと繁栄を享受しており、軍事力も相当なものとみなされ、当のプロイセンでさえこんなに勝つとは予想していなかったほどだ。この普仏戦争産業革命後の新しい戦争の形を示したものであった。参謀本部の立てた計画にしたがい徴兵制度で大量動員した兵士を鉄道でもって速やかに配置し、火砲で激しく攻撃するというスピード感のある新しい戦争に、フランスは余力をのこしながらもまったくついていけず、皇帝の包囲→パリの籠城と頭をつぶされつづけた。いまだ統一もしていないドイツにあまりにも早く敗北したことを認められない人達がわるあがきをしたのが、パリ籠城であり、パリコミューンであった。いうならば、大国意識をのこしたまま時代の変化をうけいれられず、愛国心に燃えた人達がまず皇帝を見捨てて共和制度をたてたのが国防政府で、籠城したすえに降伏した政府を見限って自治をしたのがパリコミューンということだろう。現代の日本でいうならネトウヨが一番近いかもしれない。政府を見限ったネトウヨによる自治。それがパリコミューンであり、労働者が含まれていようが仕組みに社会主義っぽいところがあろうがネトウヨネトウヨである。

 パリ籠城をともにした日本人は複数いるようであるが、その中でも渡六之介(のちの渡正元)は一風変わっていて、パリに集まってくる情報を片端から訳し記録していった。開城・降伏後、その記録を日本から来た観戦武官の大山巌らに提出したものが『巴里籠城日誌』である。もっとも最初からくわしく記録をしていたわけではなく、最初の方は漫然とした日記になっているが、フランス軍が国境で大敗してから詳細を極めるようになった。メモ魔である。しかし彼がメモ魔になるのも当然だろう。フランスはその数年前まで幕府の陸軍建設を支援しており、幕府陸軍はフランス式であった。六之介もこのあとフランスの士官学校に入るほどであり、普仏戦争まではヨーロッパのどの国の軍事制度にもとびぬけて優れたものというのはなく、日本が西洋軍事制度をとりいれるにあたってフランスはその選択肢の一つに当然のように入っていた。その学ぶ対象のフランスが大方の予想に反して大敗を続けるのだから渡六之介も真剣に研究せざるを得ない。最後に五項目にわたる分析をしているが、しかし結論としては「古人の所謂兵の勝敗固より人に在つて而して兵器に非ざる事を」というものだった。

 パリ開城後、ロンドンに渡って大山巌らに日誌を渡したあと六之介はそのまましばらくロンドンに滞在してパリの混乱をさけた。したがっていわゆる『巴里籠城日誌』にはパリコミューンの記述は一切ない。『巴里籠城日誌』にはパリの混乱を予想した一文もある。

巴里府内狂暴なる激徒多く、曩に籠城中屢府内を拌攪して内亂を醸さむとし、城塀の外敵兵の逼迫せしも顧みず、政府の公館を砲撃して、其官員を斃す。其狂暴旣に斯の如し、況や今日眼前に讎敵の皷を鳴して入城するに當りて、彼の蒙昧の狂者等、安んぞ傍観し得べけむや。(298p)

 このようにただの暴徒とみなしており、何の期待もしていないことが伺える。先に引用した「人に在つて」というのも、運用云々というよりは籠城で濃く接触していただけに、むしろこういう暴戻不羈な人達を指す部分が強いだろう。そもそも渡六之介は薩長土肥と行動を共にした雄藩の広島藩の人間だ。最初に皇帝が捕虜になっても戦いつづけたフランスは、まっさきに徳川慶喜が降伏し、江戸城もさっさと開城したものの、結局二年あまりつづいた戊辰戦争と重なるところがあっただろう。学ぶところがないと見切ったとしても責めることがあるだろうか。

 ところでこの『巴里籠城日誌』のことを知ったのは twitter で同時代社なるところが校訂現代語訳を出すというのが流れてきたからだが、同時代社の創業社長(故人)はもと全学連で、新日和見事件とやらをおこして共産党を離党した人らしい。こういう人のもとに集まる人たちだから似たような人が集まってるんだろう。共産党には幻滅しても共産主義の理想からは離れられず、パリコミューンの夢をみてこういう本を出したのかとおもったのだが、書いてる人たちは渡正元の子孫が中心ということで、そのへんはまともなようだ。しかし同時代社の宣伝をみるとパリコミューンと書いてあるがどういうことだろう。

 実はその内容の一部は既に『横浜市立大学論叢』に発表されていたのでその前文を見てついでにいろいろ調べてみた。

 渡正元は提出した普仏戦争関係の日誌の他にも普通の日記を書いており、それが残っているらしい。もともと渡正元の日記について詳しく研究していた田中隆二という人が広島市立大学(2004年退職)におり、その日記も所有していた。この人の論文のタイトルなどを眺めているとその研究歴はどうも御雇外国人あたりから出発し、幕末明治の日仏交流に手をのばして終わったらしい。渡正元の日記はフランスにいる留学生の事について調べる基礎資料となったようだ。2000年には『漫游日誌』として校訂本を広島市立大学から出しているということで、校訂現代語訳はパリコミューンやイギリス滞在についてもそこから記述をひっぱってきていた。しかしこの『漫游日誌』、よほど珍しい本らしく、京都で探してもみつからないどころか、広島市立大学OPACにものっていなかった。巴里籠城日誌を出すならそれも出してほしいものだが無理なんだろうか。ところで田中先生はフランス留学生について調べた延長上で子孫さがしもしていた。今回の校訂現代語訳なるものは渡正元の曾孫が中心となってやっているようだが、曾孫が連絡とりあうというのはないことではないがこんな会にまでなるのは想像しづらいので、そのきっかけくらいにはなったのではなかろうか。

 Amazon で巴里籠城日誌を検索すると単なる現代語訳と今回の校訂現代語訳のふたつがでてくるが、単なる現代語訳の方は下訳で、それをもとにして『巴里籠城日誌』大正版の誤植や渡正元自身の誤訳などを正したのが校訂現代語訳ということらしい。

 とまぁこんな風にネチネチ調べたのはこの本が国会図書館デジタルコレクションで公開されているからで、よし君見ずや出版でも出してやろうというつもりだったからだ。大山巌らが持ちかえって政府に提出したものが官板として出版され、その一種が

法普戰争誌畧 8巻

 として全冊公開されている。また、第一次世界大戦の勃発にともなってあらたに活字化されたのが『巴里籠城日誌』で、

国立国会図書館デジタルコレクション - 巴里籠城日誌 : 旧名・法普戦争誌略

 として公開されている。君見ずや出版は大正版を元にして、明治版の挿絵を明治版のとおりに配置し、ついでに2009年頃にフランスに行ったときの写真も若干追加して出してみた。まぁどうせ誰も買わないだろうけどな。