メモ@inudaisho

君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

平岡龍城について追加でわかったこと。


(画像の出典:アジ歴の日華大辞典寄贈の件添付の本文画像)
 平岡龍城についてしばらく国会図書館で探ってみたがなかなか手掛かりがみつからない。人脈的には東京の「支那語の先生」の中心に近いところにいたようだがよくわからん。読売新聞に標柱訓訳水滸伝の紹介がでていたが、そこでは

著譯者は支那小説の研究者として夙に専門家の間に嘖々の好評のある人なり

と紹介されていたが大正初期の専門家とはどういう人たちだったのか。水滸伝紅楼夢が当時は中国古典口語小説の二大高峰とされていたようで、平岡龍城はそれを攻略したわけだからそりゃもう只者ではないのは確かだが、しかし「支那語の先生」の枠を越えられなかったような風があるのは国訳漢文大成をみればわかるだろう。ほとんど独力でやったとされる訳業の紅楼夢露伴の名が横に置かれ、先に標柱訓訳を出した水滸伝に至っては露伴に全部持っていかれている。紅楼夢研究者で国訳紅楼夢を詳細にしらべた森中美樹によれば、平岡龍城の国訳紅楼夢は名訳という評判であるが実のところ文語調と口語調のバランスがとれてない悪文で一に平岡龍城の日本語に問題があったという。まぁ大正というのは現代につながる日本語口語調の文章が成立する時代なので明治人であるとおもわれる平岡龍城がそういう文章を書けない人だったというだけの話だが、口語の意味を見事にたくみに写しとっていても全体として文章のバランスがとれていないのは読み物として問題のあるところで、そこまでの人ということだったんだろう。
国訳漢文大成11巻 塩谷温の鶴田英男追悼文
 ここには国訳漢文大成のおそらく文学部第二輯(このリンク先でいうところの11巻-20巻)のために集まった塩谷温・宮原民平・平岡龍城の三人が分担を決めたが、平岡一人がそれを全うできず露伴に助けてもらったところが見える。とはいっても紅楼夢はそれまで語学教材として使われることはあっても翻訳対象としては前人未踏だったわけで、平岡も綿密には読んではおらずこの仕事で着手したところ大長編なのでおっつかなかったというところか。なにせ11-20巻の中の10巻のうち6巻が紅楼夢水滸伝なのだから他の二人が小品をすこしづつやっつけていけたのに比べて分量過大だったのはわかる。
 平岡は大正後期から日華大辞典にとりくんだわけだが、大正のころは大学を出た研究者みたいな存在がまだまだ少なかったのだが昭和になると大学で研究者が続々培養されるようになって、平岡龍城的存在は時代遅れになってしまったようだ。「中国文学月報」(昭和10-15年/1935-1940)「中国文学」(昭和15-18年/1940-1943/戦後再開された分は含めず)という新進気鋭の少壮学者たちによる同人誌的雑誌があったがそこでは魯迅などの同時代作家があつかわれるようになり、「紅楼夢の翻訳を出さねばならぬ」とか言ってた時代とは隔世の感がある。そのサークルの中では語学教師連は「支那語の先生」として半分揶揄気味に扱われていたようだ。しかし太平洋戦争がはじまってからこの雑誌も時代の変化を被って第83号ではその支那語の先生の長老的存在の回想の特集をくむほどになった。この第83号が戦前の中国語教育界隈のことを知るためには第一に読むべき資料となっているのは皮肉なことである。その名も特輯「日本と支那語支那語界回顧と展望、である。
 ちなみにこの号でも平岡龍城のことはすこし名前が挙げられているだけだがそこからわかることもある。

明治の後半はまた支那留学生の最隆盛期で、彼等が日本語を學ぶための書籍も相當に行はれ、敎師の數も少くはなかったのであるが、當時これと支那語研究とを協力させるだけの親密性がなく、日本語敎師も時には通譯を介して授業するといふ狀況で、言葉に對する關心は極めて薄弱であった。たゞその頃から石山福治、井上翠、服部操、平岡十太郎の諸氏があって、後年よく巨大な辭典を完成されたのは、内容の仔細は別として、とにかく喜ばしい事柄であった。後年の學徒に缺けてゐるものは一つにはこの粘りであらう。

 つまり辞書作成者として名は挙げられているものの、その最後尾、しかも号ではなく名前で挙げられ、さらには「内容の仔細は別として」と全然褒めていない。平岡龍城が平生は十太郎を表に出して活動していたのかもしれないが、夏目漱石の小説について語るときにわざわざ夏目金之助と書いてるようなもので、まぁつまりは低く扱っているんだろう。しかしこの雑誌に集まった人たちは戦後には中国文学界隈の大先生になっていく人たちが多く、彼等からみれば芥川龍之介でさえ「古典」扱いしているのだから奇怪な訓読を残した人達など談ずる対象でもないのかもしれない。
 しかし紅楼夢の訳業が後世まったく無視されたのかといえばそんなことはなく、岩波文庫の松枝茂夫も平凡社中国古典文学体系の伊藤漱平もその初訳に於てはこれを参考にしたことをちゃんと書きそえている。紅楼夢のことはよくわからんが辞書的につかったんだろうか。もっとも松枝茂夫などは露伴に挨拶に行ってたらしい。中国文学を研究する人の中では先駆的すぎたこと、文学の研究というよりは注釈を中心にしていることつまり江戸後期以来の語学教材的研究に留まっていること、支那語の先生的枠を飛びこえられず、特に後半生は辞書作成に人生を捧げてしまったために「支那語の先生」的存在の中に埋もれてしまったことなどが原因なんだろう。

 中国というのは今でも変化が速すぎてちょっとついていけない面もあり、そういうところがまぁおもしろいといえばおもしろいのだが、その点については当時もそうで、戦後になると今度は共産中国の成立となり、戦前とは全く風景がかわってしまう。平岡龍城についてもどうも戦争中に死んだっぽいのだがますます手掛かりがつかめなくなってしまう。うーむむ。日華大辞典の賛助者や関連情報をみているとやはり玄洋社黒龍会人脈とズブズブなのではないかという気がしてくるのでそっち方面も掘っていけばなにかわかるかもしれん。平岡浩太郎の係累だとすればズブズブどころか真っ黒なわけだがそのせいで戦後触れられなかったのかもしれない。まぁこれらは手掛かりを探してる最中の推測なのでまったくあてがはずれている可能性もある。