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熊野学研究センター失敗の歴史 2 梅原猛と熊野学研究センター(仮称)

これの続編です inudaisho.hatenablog.com

熊野記念館計画からみくまの総合資料館計画へ

 さて瀬古潔市長の遺産である熊野記念館であるが、昭和58年(1978)の市長交替後の財政事情で取り止めになり、市政50周年を飾れなかったということは書いた。翌年新宮の長期総合計画にいれていつかは建設することとし、当分はレクリエーションエリアとして開発された場所での活動として取り組まれたのである。ただしこれ、既に書いたようにレクリエーションエリア構想に外挿して拡張したようなものなので、とりあえずは構想に沿った形での展開に戻し、カネの目処が立ってから建設することにしたともいえる。

 城跡の用地が確保されているのに建物については放置されたまま月日は過ぎたがその一方で併設される予定だった佐藤春夫記念館については、家が寄贈されることになって用地の確保もすみ、移築されて平成元年(1989)にはオープンした。同年熊野記念館の資料収集委員会として活動していた人たちも「みくまの総合資料館」と名前を改めることになった。

梅原猛 と 熊野学研究センター(仮称)

 ところでちょくちょく新宮に来て講演会など開いていた梅原猛だが、昭和62年(1987)には国際日本文化研究センター(日文研)の所長となり、日本文化デザイン会議のようなイベントを主催するようになった。その三回目、昭和63年(1988)に「熊野」をテーマにした。このバブルの時代、「熊野」が一種のブームだったようなのである。あるいはバブル景気で浮かれる世間の風潮へのアンチテーゼみたいな扱いだったのかもしれない。和歌山県の方でも昭和61年(1986)に熊野文化リゾート基地の形成という構想を作ったが、この盛り上りを見て、やはり梅原猛などを招いて懇話会を開き、各所の意見を聴取して、平成3年(1991)に「熊野学ネットワーク」の構想をぶちあげ、そのなかで熊野学研究センター(仮称)が登場した。

 梅原猛は「縄文文化」と彼がおもっているものに固執し、アイヌ沖縄はその成分が濃いとして注目したが、そういう文脈で熊野にも注目していたようだ。だから熊野学についても、熊野だけで学がなりたつというような事を書いていたりするが、その是非はさておき、この「熊野学」とはつまり何なんだろうか。

 答えは簡単な話で、そのころ地域研究が流行っていただけだ。県が出した報告書などをみると各地の「学」の例として、横浜学、小田急学、播磨学などが並べてある。熊野がそのころ流行っていたので地域振興の一環として県が熊野学を立ちあげようとしたのだろう。ちなみに梅原猛がどれだけ入れこんでいたのかはわからない。後年日経の「私の履歴書」欄を書いたときには熊野のことは出てこなかった。まぁ、もともと哲学の人だから...

新宮への誘致とみくまの総合資料館計画の止揚

 熊野学研究センター(仮称)はどこに作るか決まっていなかったが、新宮からすると「みくまの総合資料館」計画の蓄積があるので誘致もしやすい。ただしどこに熊野を代表する建物を置くかは常に論争になる。だいたい新宮は沿岸なので照りつける太陽に青い海と、ほぼ南国の雰囲気がある。そのころの熊野ブームは神秘を強調していたのでイメージ的にはズレるのではなかろうか。

 それはともかく、平成8年(1996)には熊野学のセンターと文化ホールを合わせた文化複合施設を誘致することに成功。平成10年(1999)から新宮旧市内の南側にある広角に用地を取得、と話が大きく動きだした。当時の市長は岸順三。あまり評判はよくないが、とにかく話が動きだしたので、「みくまの総合資料館」のチームは熊野学研究センター(仮称)への合流を目指すことになった。

佐藤春陽市長時代

 平成11年(1999)に市長が交替。佐藤春陽は元県職員で県と話がしやすい……はずだったが、話がしやすいの意味が違っていた。たとえば県がスポーツ公園をつくるということで取得していた土地をわざわざ購入してそこへあらためて野球場を作るというようなことをしていたらしい。新宮の意見が通りやすいというよりは県の意見が通りやすいということのようだ。そもそも市長になったのも退職した直後なので、年金がもらえるようになるまでの腰掛けのようなものだったんだろう。熊野学研究センターのはいる複合施設のための広角の土地を整備したはいいものの、県側の動きがあまりないまま、その話を持ってきた西口勇知事が健康上の理由で交替し、平成12年(2000)から木村知事になって話が有耶無耶になっていく。一方でそのころから本格的に動きだしていたのが世界遺産登録を目指す運動だ。

熊野古道世界遺産登録

 熊野古道世界遺産登録運動は1997年(平成9年)ごろからはじまり、わりと順調に進んで2004年(平成16年)には正式に登録された。熊野古道は「紀伊山地の霊場と参詣道」というタイトルで登録された。霊場+参詣道という形で登録されたのは新宮市などが「熊野三山世界遺産登録準備委員会」などを結成したので両方の顔を立てたんだろう。しかし、世界遺産センターは本宮に平成17年(2005)建設された。その運動の中で熊野学研究センターに触れられることもなく、県へ要望を出しても通らず、やがて佐藤春陽市長は自前で作ると言いだした。

熊野川町との合併

 平成17年(2005)には新宮市熊野川町と合併する。どうもその旧庁舎に熊野学研究センターを入れるという案もあったらしいがそれもポシャった。平成の大合併那智勝浦町や本宮町との合併はできないままに終わった。特に本宮などは西海岸の田辺と合併してしまった。

国際熊野学会の設立

 そうこうしているうちに「熊野学」の領域でも変化があった。世界遺産登録のすこし前くらいから明治大学の林雅彦とかいうのがチョロチョロしだし、三重県の方の熊野で活動していた早稲田大学などとともに「国際熊野学会」を立ちあげてしまったのだ。本格的な熊野学のための場ができたのはよろこばしいが、箱なしでも話が進むような形ができてしまった。

そして今回の熊野学センターの計画へ

 新宮の問題としてオークワやイオンなどの大型店舗が出店したため、昔の商店街が寂れてしまったということがある。....これは自分の観察ではない。寂れるのは大型駐車場もなく自動車時代に対応もしていない不便な商店街や、巧みさが全く見当らない都市計画のためだろうとおもうのだが、それはさておき新宮人はそう思うようだ。そこでその商店街に近い小学校・文化会館の跡地に図書館やホール・熊野学センターからなる文化複合施設をつくって賑わいを取り戻すということになった。2008年(平成20年)からの長期総合計画はこれまでの思い付きのような計画よりは着実に進んでいるのだが、それでも台風被害で一回休みになり、さらに遺跡がでてストップし設計変更し、という具合で、結局今回のように熊野学センターは延期となったのだった。

 ちなみに

熊野学

 このサイトは新宮市教育委員会と文化振興科が管理していたが、2012年で更新がストップしている。その後は

熊野学の森

 が同等の内容を更新しつづけている。ここに出てくるなんとかスクールというのが、瀬古市長の残した設定の末裔ということになる。

地域研究入門―世界の地域を理解するために

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熊野詣 三山信仰と文化 (講談社学術文庫)

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