メモ@inudaisho

君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

新宮の徐福と中華人民共和国

(2019/03/29 戦前戦中のあたりのことについて若干わかったので追記した)

 今年は明治150年とかでいろいろイベントがあるが、50年前の昭和43年(1968)には明治100年を祝っていた。そのころお隣の中国は文化大革命(以下「文革」とも略す)のピークで、国中が大混乱に陥っていた。日本には明治百年に反発したり、文革に憧れたりした人たちがいたが、今から見れば明治百年と文革の対比が両国の当時の状態を表しているとも言え、明暗はっきりしていて非常におもしろい。まぁしかし中国はそういうことを思い切ってやったおかげで60年代の怒れる若者の世代のやったことを完全に切り捨てれる素地ができたが、日本の怒れる若者の世代は暴力で言い分を通す甘えた世代となって上の世代の成果をしゃぶり下の世代からは搾りとり、自分のことしか考えず何も残そうとしないという状態になっているので、暴れたりしてた人間をそのまま何もなかったように社会に迎えて時代を大過なくのりきったつもりになっていたのがよかったのかどうか。人間万事塞翁が馬である。

 今の中国では文革について10年動乱という言い方もあり、1966年-1976年がその期間ということになっているが、終結についてはかなりあいまいで、1977年に失脚していた鄧小平が復活してから文革終結宣言を行っている。そして鄧小平は1978年訪日。以後天安門事件までは中国の対日感情はかなりよかった。

 さてここで頭のゆるい新宮の登場だが、そのまえに新宮の徐福伝説について触れておこう。秦の始皇帝のころ、方士徐福は不老長寿の薬を求めて山東半島から童男童女をひきつれ東方海中にある蓬莱山目指して船出し帰ってこなかったという話が史記にのっている。もっとも同じ史記のもうすこし歴史的に書いた部分では徐福は始皇帝を騙し、カネだけもらって出発しなかったてなことが書いてあるのだが、伝説に思いをよせる人は都合の悪いことには目を向けないものだ。まぁしかし日本人が中国に渡ったとき、おそらく史記にのっているというところが話のネタとして丁度よかったのだろう。なぜか徐福が日本に来たということがネタ的に言われるようになり、徐福渡来伝説の下地をつくった。新宮のある熊野というところはおもしろいところで、熊野三山の神は中国から王子信なるものがやってきた、と言っていた時代があった。まぁ箔がつくならどこから飛んで来ようがなんでもいいんだろう。そういういいかげんなところは昔からのようだが、それはさておき、徐福伝説もちゃっかりとりいれて、徐福が熊野に来たのだという話も当然のようにこしらえたようだ。

 後年紀州藩支藩新宮藩の水野家がそのことを真にうけて新宮の徐福の墓を整備した。碑も立てようとしたがこれはそのときはうまくいかなかったらしい。こういった江戸時代の整備の基礎の上に、明治の終わりのころからこれを再度整備する動きがあり、門楼などをこしらえて廟としたようだ。戦前の観光案内をみていると、どうも徐福二千年祭なんかやってたようだから観光資源としての活用もされていたようだ。青森のキリストの墓のように、あることになってるなら利用しようという程度のものだったのかもしれない。碑は皇紀2600年(1940年)のときに記念に建てたようだ。

 江戸時代に中国から渡来した天台烏薬がいつからかはわからないがなぜか新宮では徐福が求めた霊薬だということになっているから無茶苦茶である。どうして中国の天台山の名前を冠している植物を求めて中国から人がやってくると思えるのかわからないのだが、そのあたり新宮人の頭は矛盾を感じない構造になっているようだ

(2019/03/29 追記 この天台烏薬の件、どうも牧野富太郎が言い出しっぺということになっているらしい。『三重薬業史』 1940 昭和3年(1928年)以後数回にわたって訪問とある。堀田武「テンダウヤク(天台烏薬)について」『愛泉女子短期大学紀要』10、1978(pdf) によると、牧野と親交のあった新宮の中学教諭が新宮の神倉山の天台烏薬を牧野に送ったとある。この報告の記述からみるとどうも牧野自身は徐福と天台烏薬を直接むすびつけたようにもみえず、紀州藩の政策に結びつけるという妥当な結論になっているようにみえる。末尾に記したが、徐福二千年祭は昭和四年(1929年)ということなので、それ以後の盛り上がりの中で意見を求められて適当に応じたものが新宮人らしく都合いいように曲解して受けとったものだろうか。

 また、石井伝一『満支に使ひして』1939にも、徐福に熱心な上海市社会教育局の龐宏省氏というのがでてくるが、十年来ということで時期的にも徐福二千年祭の影響であろう。日中戦争中には「日支親善」の一環としてこの新宮の徐福が扱われることがあったようで、そのころの新聞の復刻版などめくっても数件記事を拾える。この後の展開をみるとこの日中戦争中の交流がかなり大きく影を落としているように見えるが、そういう文脈で注目されることはないだろう。 追記ここまで)

 戦後になり、衛挺生が香港で、徐福が日本に入って神武天皇になったという本を出した。その背景を説明すると、中華民国の国民党は日本との戦争には最終的に勝ちの形をつくって追いだせたものの、中国共産党によって政権の座を追われ台湾とその対岸のすこしだけを領土として残す事態となりそれなりの地位にいた人たちは香港や台湾あるいは国外などへ逃げることになった。衛挺生もその一人である。

衛挺生 - 維基百科,自由的百科全書

 Wikipediaをみると会計を主にやっていた人で、大陸を追われて1948には香港に逃げ、1949には台湾大学に来て徐福の研究をはじめたとある。もともと日本への留学生の出身なので日本語の本は読めたのだろう。となると新宮にある徐福廟の話なんかも読んだのだろう。そして1950年に香港で徐福=神武天皇という本を出したのである。

 そういう本を出して誰が得をするのかよくわからないが、当時の中国の状況としては、日本に勝ったというものの、国際政治でアメリカを味方につけて主にアメリカの武力をつかって勝ったようなものだから中国からしたら勝った実感がない。その上中国本土は共産党に取られて追いだされてしまった。せめてその昔日本を占領したことにして気分を晴らそうというのか。それからもっと大きい要因は年齢だろう。1890年生まれなので60歳定年なら定年である。ほぼ退職した気分になって畑違いの古代史に手を出して、さっそくトンデモ本を出したとなると、これは今でもよくある事になる。熊野に上陸した徐福を熊野に上陸した神武に重ねるというアイデアだが、そのときは話題になったそうだ。

 ちなみに1940年代にも中国で徐福が日本に来たことに触れた人達がいるがまぁ反応としては「バカじゃねーの」というところである。おそらく1941年(昭和16)に汪兆銘政権の駐日大使が新宮の徐福廟を訪問したことへの反応だろう。歴史を現代の政治の場面で使うというのは中国ではよくある形式なので、徐福=神武説も単なるトンデモでもなく、そういう政治的意見表明のひとつだったのかもしれない。

 ところが日本で安藤広太郎の研究などで江南の稲が直接日本に渡ったということになったのが徐福=神武説のオジさんたちに真実味を与えたらしい。さらに70年代には台湾で彭双松が徐福=神武論の本を出している。ここで重要な点を言っておくと、中国方面で徐福=神武の論が盛り上がったとは言ってもそれはすべて台湾や香港でそういう本が出たというだけの話である。新宮にある徐福の墓にも度々中国人が来ていたが、それはみな日本で商売している華僑や台湾・香港の人だった。そして、この文章で主題にしようとしている共産党治下の中華人民共和国では最初に書いたような政治の嵐が吹き荒れていてそんなキワモノに手を出す人はいなかった。

 そして1978年(昭和53)文革終了直後の中国から鄧小平が日本にやってきたときのこと。鄧小平は「日本へ不老不死の薬を取りにきた」という冗談を言ったらしい。その意味するところは大躍進や文革などの政治的失敗で何十年も空費して時代に遅れを取ってしまったのでこれから追いつくために日本のこと勉強しに来ましたというくらいのところなんだろうが、徐福伝説のある新宮市ではそういうふうには受けとらなかったようだ。当時の新宮市長は熊野浮上を唱える瀬古潔市長で、その発言を受けて新宮にある「霊薬」の天台烏薬を鄧小平に献上したそうだ。ここに当時まさに主要産業の木材が流れてこなくなって落ち目の新宮と、文革など政治に熱中して時代から落伍してしまった中華人民共和国の徐福を通じた交流が始まるのである。

 その後1980年代には趙紫陽なんかもわざわざ天台烏薬を求めて来た他、大学による徐福研究が始まった。さらに徐福村なんてのまで発見され、徐福の子孫であると喧伝された。中国からすれば、日本との関係をよくできるものならなんでもよかったんだろう。新宮市はそれにいちいち反応し、天台烏薬の苗を渡したり、徐福村へ訪問するなどの交流を深めていくのである。こういったものが中国の国を挙げての運動であることは否めない。数年前までは孔子を批判せよ、水滸伝を批判せよといわれればそういう論文・連環画・文書などが運動として中国全土で大量に生産されて対象を吊るし上げにしていたのであるから、徐福が日本に渡ったなんてテーマに沿って文章を作るなんてのは本当に罪のないお遊びみたいなものだ。まぁしかしその『徐福研究』誌をみていると、中国側の案外冷静な文章にまじって日本側の電波たっぷりのキチガイ文章が翻訳されて混っていてなかなか壮観ではある。そもそもネタなんてほぼないようなものだからか、その雑誌では富士文書まで紹介されていた。

 ところで新宮駅に電車で到着して駅を出るとすぐ目につくところにあるのが徐福公園である。戦前の徐福廟は門楼や塀など作ったものが台風でコケてそのままになっていた。瀬古市長の前の谷市長のときに再建について議論されたが、地方自治体が宗教施設である「廟」を再建するのはよろしくないということになり、観光施設をつくろうということで話は止まっていたらしい。今現在豪華な中国式の華表とでもいうようなゴテゴテの門がたっているが、あれはふるさと創生資金の一部をもちいて整備に着手したものだ。前に記事にした高田グリーンランドの中にある雲取温泉の掘削着手にはふるさと創生資金一億のうち一千万をわたしたが、この徐福公園には五千万つかったそうだ。新宮市部落解放同盟関係者が出している一枚ものの「新聞」ではこの公園のことが高い高いと散々非難されている。それによると、中にある便所は日本一高い便所らしい。華表ももっと簡単にできると書きたててある。まぁどこまで信じていいのか微妙なものもあるが、バブルの時に作ったものが維持管理にカネのかかる箱物ではなくて公園の記念物なのだから、そういう点では新宮市は案外堅実なのかもしれない。しかし新宮市は同和事業で隣保館を七つ作ったり必要なのかどうかよくわからない新宮港第二期工事なんか始めたりしているのでカネがキツキツのなかでやりくりしたのがそれだけということなんだろう。

 ということでまとめると、今でも中国側と新宮との間での徐福を通じた交流は続いているようだが、ここまで根も葉もない話で盛りあがったのは中国側の事情があったということである。

徐福伝説を探る―日中合同シンポジウム

徐福伝説を探る―日中合同シンポジウム

神武天皇=徐福伝説の謎 (1977年)

神武天皇=徐福伝説の謎 (1977年)

 徐福二千年祭について

 以下の後藤朝太郎の本に昭和四年に行われたと書いてある

 国立国会図書館デジタルコレクション - 不老長生の秘訣 : 支那五千年の実証

 国立国会図書館デジタルコレクション - 支那長生秘術