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君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

副島種臣の支那漫遊と曽根俊虎

黒色中国氏の記事

 twitter をみてるとこういうのを見掛けた。

bci.hatenablog.com

 黒色中国氏はtwitterでは一部の専門家のプゲラの対象になっているが、単に学問的根底がないから書いてることが怪しいだけで、中国体験については見るところがあるし、おもしろい情報が出てくる事もあるので twitter の「情報」のリストにいれている。

 さて、この記事の副島種臣の件について、自分がもしどこかで職を得て中国研究で飯を食っている専門家なら、知らなかったことでもちょろっと調べてあたかも随分前から知っていてすこしは研究していたかのように書き出してもいいところだが、未来のない無職独身中年がそんなことをして得られる面目も利益もないのでしない。この時代のころの事象について若干調べたことがあっても一片一片であって、全体を見通すようなことはしていない。副島種臣についても名前は読めるものの、具体的な内容については完全に忘れていた。ということで記事の具体的なことについては別にして、副島種臣が明治初年に「支那漫遊」していたという事実はおもしろいので、それについてちょっと調べたことを書く。

支那漫遊の期間

 黒色中国氏が引用している中国サイトの情報の1876-78年はあっている。明治9年から11年である。NHK大河ドラマ西郷どん」でどのように描かれたのか知らないが、明治初年の日本の外交での重要な問題の一つが、朝鮮が日本の明治維新を認めないことで、つまり日本で何があったかうちは知らない、交渉窓口は対馬の宗氏で相手は徳川氏と言って譲らない。副島はいわゆる岩倉遣欧使節団のとき日本にいて外務卿(そのころの職制で大臣みたいなもの)にあたり、樺太問題から琉球台湾問題までいろいろ処理したのだが、朝鮮の問題もコミで清国に行ったことがある。今の歴史はなぜかこのころから中国可哀想ということになっているが、このころの清はまだまだ大国で、そもそもアヘン戦争が起こるまでは不公平な管理貿易を諸外国に強制していたくらいで、太平天国の乱とアロー戦争(第二アヘン戦争)でボロボロになっても、日本のような国はまだまだ振り回されるだけだった。台湾出兵もあたかも日本の野心の発露みたいな扱いだが、アメリカも似たような問題で台湾遠征しているので既に先例はあり、日本はマネをして琉球問題を確定しただけである。

 まぁそれはともかく、外交問題で大鉈をふるっていた副島だが、朝鮮の問題については西郷隆盛の側についていた。というよりどうも西郷が副島の仕事を取ったような形だったらしい。そのへんはともかく、征韓論は遣欧使節の帰国で政府内部のバランスがかわって破れ、西郷・副島は政府をやめることになった。副島は東京に残って休職の形で民権運動などをやったが金回りなどが悪くなってきたので、明治9年に上海へ旅だった。

漫遊の記録

 と、ここまで見てきたかのように書いたが、もちろんネタ本がありそれに自分の知識を混ぜているだけだ。これ。

丸山幹治『副島種臣伯』昭和11(1936) 国会図書館デジタルコレクション

 ここにもちろん副島の漫遊について概略が書いてある。次に、副島自身の記録で国会図書館デジタルコレクションで見れるものがこれになる。

副島道正編 副島種臣『蒼海全集 巻一』大正6(1917) 国会図書館デジタルコレクション

 黒色中国氏はこの本にたどりつきながら、読めないみたいなことを書いてるのがよくわからないが、この一巻の冒頭が使節として清国を訪問したときの文章で、その後の「將航于淸國。別友人」から「歸家」までがその「漫遊」のときに作ったものになる。

 『副島種臣伯』の方にはこういう記述がある。

足掛三年の旅行中、到るところ、支那の探偵もつき纏ひ、日本の探偵もつき纏つた。支那では副島が何をするかも知れぬと疑つた。日本では副島が何を企てるかと警戒した。上海の旅館で先生が四言の詩を作つて、かき損つて、丸めて二階から捨てた。それが日本に新聞に掲載された。かういつた風で油斷も隙もならなかつたのである。

 実際、この明治9年から11年のあいだに、西南戦争が起きて西郷が死ぬわけだから、西郷とともに政府をやめるまでは外交で大鉈を振っていた副島が、清国でブラブラしていると、こやつ何を企んでいると思われても仕方のないところがある。しかし副島がそうして外遊している間に西郷も大久保も木戸も死んでしまったのだから、動乱の時期に海外で監視されていた方が安全だったのだろう。帰ってからは宮中で御進講を長年勉めたというから、東京に留めて誰かに担がれないようにされたということかもしれない。

曽根俊虎と「志士」

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曽根俊虎

 旅行中、曾根俊虎なる人物と湖南で面会したことが『副島種臣伯』にある。この曽根はまた黒色中国氏のブログにもでてくるが、『淸國近世亂誌』という本を書いている。副島種臣は名前を貸しているだけのようだが、この本は清の勃興から太平天国の乱までをまとめたもので、序文に「最近の日本は欧米のことには詳しくなっているが、「満清」の書はあまり来てないので最近の情勢がわからない」と書いている。太平天国の乱とアロー戦争で清の権威がいかに失墜したのがわかるような文章ではある。曽根はその戦乱の跡をみて荒廃しているのを慨嘆し、公刊されている記録をあつめて抄訳しようと山東人に相談したところ、政府側に都合のいいことしか書いてない。「東洋の志士」に見せるのなら、もっと資料を集めて戦地を確定し、また英人の記録も参照した方がよい、といわれ、そのようにしたとも書いてある。ここにのちの滅満興漢的な史観は既に揃っているので太平天国の影響が非常に大きかったこともわかるし、また曽根はそれに意気投合した「志士」の走りだとも言える。

曽根俊虎 - Wikipedia

 ということでWikipediaにも「近代日本史におけるアジア主義の中の最重要人物」と言挙げされている。ここまで特大筆記されるのは「孫文宮崎滔天の間を取り持った人物」だからのようだ。(狭間直樹「初期アジア主義についての史的考察 第一章曽根俊虎と振亜社」2001)

 国会図書館デジタルコレクションに

曽根俊虎『清国漫遊記』明治16(1883)

 のがある。曽根の旅行記で、ちょっとみるかぎりではなかなかおもしろい。残念ながらこれは一部だけのようだ。

 曽根俊虎についてはいろいろ研究があるようだ。

佐藤茂教「興亜会創設者曽根俊虎の基礎的研究」1985 (pdf)

狭間直樹「初期アジア主義についての史的考察 第一章曽根俊虎と振亜社」2001 (pdf)

 狭間氏は完全にスパイあつかいしているので、そうだとすると副島種臣についてまわった「日本の探偵」の一人ということになるのかもしれない。まぁ副島の元部下になるんだけど。

 後の事績から逆算して勘繰ったりコジつけたりするのはよくあるが、そういう研究で飯を食ってるわけではないので、副島種臣の漫遊記録から妙な大物を釣りあげたということで終わりにする。

幕末明治中国見聞録集成 (第2巻)

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副島種臣 (人物叢書)

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