メモ@inudaisho

君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

京都新聞「勤王の村」記事の謎 その1 樺山聡記者

京都の北の山の中の山国

山国の由来

 さて家のあたりのことを指して山奥山奥と何回も書いているが、その山奥というのは京都市の北にある旧京北町の山国という地域のことだ。わざわざ「という地域」と断っているのは、普通山国といえば山深い土地を指す普通名詞で、固有名詞っぽくはないからだ。そもそもこの山国という名前も本来は固有名詞ではなく、木材供給地としての山国だっただけかもしれない。奈良に都があったころ、信楽のあたりや伊賀のあたりに山国杣が設定されていたとされるので、その延長上で山国とされたのならわりと新しい命名になる。中心にある山国神社の由緒では平安京設置のときの木材供給地に選ばれて神社を外部から持ってきたことになっている。ところが、長屋王邸から出土した奈良時代の木簡に「桑田郡山国里」とあり、またこのあたり古墳が結構あるので案外その昔から開けていて「山国」という名前だったのかもしれない。一応祭神には大己貴と大山咋 の二説あるらしいが、大己貴なら出雲系ということで、出雲の方に山国という土地がある。その名前の由来は「是くに者、不止やまず欲見(この土地をずっとながめていたい)」(出雲国風土記)ということでわけのわからないこじつけではあるが、そのころの日本語では「やま」=山が自明ではなかったようだ。ま、そのあたり詮索しても所詮は古代の闇の中であるから妄想で遊ぶのはここまでにしたい。

山国の価値

 山国が単なる京都周辺の木材供給地として終わらず、日本史上でわりと有名になった事柄としては三つほどあり、一つは南北朝のころ光厳院が最期の土地に選んだこと、もう一つは室町時代末期の数少ない皇室御料(禁裏領)として、三好長慶織田信長がその回復に努めたこと、そして最後は明治維新のとき武士でもないのに東征に参加した山国隊を出したことである。平安京設置以来ずっと皇室領だった..のかどうかは知らないが、少なくとも室町時代くらいからは皇室経済の上で重要な部分を担っていたようで、上記の三つのこともその事実の周辺での出来事である。

 そして、戦後になって山国をまた別の意味で有名にしたことがある。それは家毎の文書の保存具合のよさだ。山間の寒村なのに、屋敷毎に文書が残っており、中には若干だが中世文書も含まれる。こんなにあるところは珍しい。しかしなぜそれが重要になったのかというと、戦後の歴史学の動向が関係している。ある歴史上の事柄について、その事柄と同時代の一次資料になるべく基いて歴史事実を明らかにするという近代的な歴史学の手法が戦前には日本にやってきていた。そしてその歴史学で扱う範囲が段々広がって、戦後には町・農村などにも及んできた。同時に、マルクス主義者の活動のターゲットが「民衆」に置かれたことが複合して、戦後は民間に眠って廃棄されつつある文書を掘りおこす活動が活発になり、それまで漠然と推測していたものとは違う日本像が浮びあがってきたのだ。(民俗学宮本常一の活動はそれに先行し、この歴史学の流れの源流の一つとなる)

 その活動の初期に目をつけられたのが京都に近いこの山国で、保存されていた古文書の一部が翻刻されて学界の財産として共有され、それを叩き台にして中世近世の村落のありかたについてよくわからん論争が繰り広げられた。下世話にいうなら、歴史学者の飯のタネを供給してくれた重要な土地の一つ、それが山国だったということだ。

「勤王の村」記事

上 20年の熱意

 さて、前置きが長くなったが、本題に入ると、京都新聞で2019年1月30日から2月1日にかけて、「ウは京都のウ ファイル14 勤王の村」として上中下三回の連載があった。記者は樺山聡。第一回目は「上 20年の熱意」。「京都の旧家に古文書1万5千点 「記憶の宝庫」の謎に迫る」 いう見出しで、山国の古文書調査に入っている「山国荘調査団」のことを紹介する記事だ。上述のように文書は歴史学者の飯のタネであるから、それをセッセと採集に通うのは理解できる話で、さぞ苦労なことだろうとおもって記事を読むと、妙なことが書いてある。

山あいの「村」に蓄積された記録を追ってきた25年。それは民衆にとって天皇とはどんな存在だったのかという謎に迫る旅でもあった。

 ん? 村のことを調べようとしてるんじゃないの? そもそも「勤王の村」というタイトルのつけかたも変だ。山国は皇室領だったから勤王とかなんとかいって気張るよりはもうすこし近い存在だったはずだし、それくらいで勤王というなら京都周辺に同じようなところはあるはずだ。

中 揺らぐ既得権益

 その次は「中 揺らぐ既得権益」。見出しは「アユ漁維持へ有力百姓したたか 天皇・朝廷とのつながり 切り札に」。その次の要約もなかなかひどい。

(略) 長年にわたる「山国荘調査団」による調査で、現代ではちょっと考えられないような興味深い事実が明らかになってきた。それは、自分たちの権益を守るために天皇・朝廷とのつながりを利用するという、民衆のしたたかさだった。

 うーむ?この人たちは何を強調したいのか。

「わしらの鮎を返せ 」と言ったかどうかは定かではないが、


「わしらは天皇と昔からつながっとる由緒ある家じゃ」とばかりに願書で主張した。

 わかりやすくするのはいいが.. あんまり京都人っぽくない言いまわしだな。これで本当に京都新聞の記者なのか。

 この回は、日本の中世・近世にはつきものの偽文書の話題なのだが、その「有力百姓」の由緒の偽造の話の間に、直接は関係のない「光秀悪玉説」の伝説を挟み、偽造された歴史のイメージを強調したあとでまた唐突に戻って、

高貴なお方との結びつきを自分たちの利益を守るために利用しようとする、たくましき民衆

 とつづける。悪意のある繋げ方だな。この偽文書は近年かなりクローズアップされてきてる話題で、たとえば南山城から大阪の北の方や奈良にかけてひろく分布している椿井文書というのがあってこっちはもっとすごい。そもそもこういう由緒書は昔は一笑に付されていたようなものだ。それなのにここまで大げさに驚くのは無知なのかやはりわざとなのか。

 その上でこう受ける。

さらに面白いのは、大嘗祭に際して稲を収穫する斎田に選ばれることを財政上の理由から拒むこともあったということだ。

 うーん? さて、こういうことを強調する目的は何だろうか。その次に吉岡特任教授なる人物の発言がつづく。

天皇に関する由緒を強調する江戸期の山国・黒田の有力百姓にとっても、天皇・朝廷とは何らかの利益をもたらしてくれる存在であって、時には奉仕を拒否することに端的に現れているように、無私の精神で尽くすという意味での『勤王』ではなかった」

 うーんん?? この吉岡がおかしいのか記者がおかしいのか? わざと現実的でない「勤王」を提示した上でその条件に合わないと落とす書き方をしている。ここまで三流週刊誌の煽り方に近いよな...この煽り方の理由は次の回でわかる。

下 山国隊の実像

 さて第三回目の最終回、「下 山国隊の実像」である。ここになると、どうして第二回でおもいっきり下げてきたのかがよくわかる。見出しはこれ。「戦前、広がる昭和の精神主義 創られた皇軍イメージ」。あー。そこを攻めたかったのか。

 しかしそれだけではない。もう一段ある。この回は明治維新のときの山国隊について、その参加は損得づくだと指摘。「無私」じゃないと言いたいわけで、前回わざと現実的でない「勤王」を掲げて落としたのと同じ手口。当時の日本は西軍と幕府方の間で様子見をしていたからそういう面があるのは当然の事だがそこを強調して、実態として「勤王」じゃないと言いたいわけだ。そして「勤王」を強調するようになったのは昭和の時代とつなげ、偽造された勤王イメージを自分たちのものだと思いこんだとつづく。

 最後に取って付けたようになんかいろいろ書いてあるんだが.... 端的に言ってバカにしてるよね。特に中の繋げ方がひどい。上と下だけで別々の話にして、下のネタを、「山国隊」がどうして時代祭の「維新勤王隊」になったのか、という視点で深掘りすればよいものを、山奥の思い込みの激しい愚民がそう思いこんだ、みたいなストーリーにしてある。しかも最後にはこうまとめてある。

先祖から地域の記憶が詰まった古文書という財産を預かった人々が、歴史家たちと手を携えて自分たちの過去をまっすぐに見つめる取り組みは、年号が変わって新たな時代を迎えても続いていくだろう。

 さらに歴史家に善導される愚民みたいなまとめ方をしていて非常に気持ちわるい。バカばっかりだったのか? この山国は。

 まぁこういうまとめ方をするのもアリといえばアリで、たとえば個人ブログでこんなふうに纏めてあってもこういう人もいるか、で済むところだが、その地域に根差している京都新聞が書くような記事ではない。なんなんだ?これは。おじいちゃんおばあちゃんも読むわけだぞ。そもそもなんで新聞記者が全部書いてるんだ?

樺山聡 記者

 気持悪い記事をみせられたので、まずはこの樺山聡記者がどういう人なのか調べてみた。意外に情報があっておもしろい。twitter でこういうことを書いている人がいる。

 この情報によると、「京大法」ということになる。しかし意外なのがこの「神保町のオタ」という人だ。書物蔵という古書・図書館クラスタの人がいて、こっちの守備範囲と近い人なのだが、その人のブログによくでてくるので知っている。この人がわざわざ二回もこの情報を流している。

 しかし、この情報は偽である。あたかも我々が偽の由緒書とやらを信じていたという話のようなもので、オタどんも偽情報を掴まされたのであろうか。

 この樺山聡記者についてはある情報から学歴が特定できて、

 ということがわかる。ほぼ同年代だな。高校卒業から大学卒業まで6年かかっているが、ひょっとして院卒なのだろうか。院卒レベルでこんな地元民を煽るような記事を書くのか心配になったのでもうすこし調べてみた。阪大なら合格したときの名簿がみれるので、しらべると

  • 1994 阪大 人間科学

 ということがわかる。一年浪人して人間科学部というよくわかんない学部を5年かけて出たわけだ。なるほどなるほど。まぁ、こういう記事を書いてもしかたないよな。しかも茨城の人だし。今でも水戸の気分が忘れられないんだっぺよ、しゃんめえ。

 ちなみにググるとこういう記事もでてくる。

2011/8/16 植民地支配解放を祝う 左京で「光復節」 在日韓国人500人 (PDF)

 仕事だからこういう記事も書くということか。

 ちなみに樺山聡記者を京大法卒と書いてた「神保町のオタ」氏、アカウントIDが @jyunku となっている。ジュンク堂のことかな。いや、この人、アカウント名が汎称+汎称で、しかも足しても依然汎称になるようなもので、ちょっと妙なつけかただなとは思っていたが、IDまでもそれに近いつけかたで、うーん? まぁ人のことだからいいか。それにしても jyun 。。。 「쥰」ってこと? どうも jun (ヘボン式) zyun (訓令式) が正式だが jyun も一応許容されてはいるらしい。

 さて、この樺山聡記者、卒論どんなの書いてるだろうと興味津々で阪大に行ったのだが、そこまでは調べられなかった。人間科学部についてひどいように書いたが、実は「人間」を掲げた学部の中では日本最初の学部で由緒あるところだ。しかもその内部はさらに複数の学科に分かれていて追いきれない。一口で大学時代何をしていたのかわからないが、5回で出てる人だから、まぁこれ以上調べてもしかたないかとあきらめて、その次にこの記事で名前の上がっているネタ元の坂田聡・吉岡拓両氏の研究を読んでみた。この樺山聡記者が一知半解で記事の受けがいいようにつなげたらこうなったんだろうとおもっていたのだが、そうでもないことがわかってきた。

 というわけで「その2 」へ続く。

山国隊 (中公文庫)

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幕末鼓笛隊‐土着化する西洋音楽 (阪大リーブル037)

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