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京都新聞「勤王の村」記事の謎 その2 坂田聡と吉岡拓

ネタ元のふたり

 「勤王の村」記事が奇怪な論理で山国を攻撃していることは「その1」で書いたが、それは阪大卒の樺山聡記者の一知半解無知無能によるものであろうか? 実はそうではない。樺山聡記者は関東出身で京都の田舎に特に興味も愛着もないから無責任にああいう煽情的な記事を書けるだけで、案外記事のまとめかたとしてはそれなりだった。問題はネタ元の「山国荘調査団」の坂田聡と吉岡拓のふたりにある。

坂田聡

 まずは親玉の坂田聡について。現在中央大学の教授であるが、その経歴をたどってみると、1953東京生1977中央大学卒ということで、70年代左翼の巣窟中央大学で大学のとき何をして卒業が遅れたのか調べたらおもしろそうではある。修士を出たあとは高校の教員をしながら博士過程を修め、91年に函館大学商学部で講師となり98年に博士号取得とともに中央大学の職を得、その後は中央大学に居座り既に年金受給年齢に達しながらもいまだに科研費研究の代表をやっているようだ。

 この坂田はもともと例の「イエ」が専門で、1950年代共産党の活動が結果としてうみだした「民衆史研究会」にも参加しており、思想的傾向はある程度伺えるところだが、この世代としては普通だろうから云々してもしかたない。90年代前期に「近世前期の同族組織と村落構造」『史学雑誌102』1993 や「中世の家と女性」『岩波講座日本通史 第8巻』1994 で既にこの山国荘の資料を駆使し、苗字が使われるようになった時期はいつからかということについて考察を加えている。若手学者の登竜門といえる史学雑誌の「回顧と展望」を1992年には書いているので、どうもそのあたりの業績が認められて中央大学に研究拠点を構えることができたというところのようだ。その成功の元は問題意識をもって資料を読み解いたことということで、既に1991年ごろから資料収集で入っていた山国・黒田に、1995年から更に資料を集めるために調査を開始して以後今まで続いている。前回書いたように史料は学者のメシの種、史料を押さえておけばメシには困らないというわけだ。1950年代から同志社など京都に山国荘研究の拠点があり、中には中世近世の山国研究が昂じて明治維新の山国隊の本まで出した仲村研という人がいるが、この人が死んだのが1990年(58歳)である。一方で関東の研究者が80年代に山国へ入っていたが、その後80年代後期から山国荘の研究があまり活発でなかった隙を縫って資料の根源地を押さえたということになる。

 ではその後のご本人の成果はどうかというとかなり微妙である。その原因は簡単で、この坂田の興味は「イエ」の周辺にしかない。であるから、山国荘の資料をみてもその古文書の向こうに見えるのは「イエ」だけである。その興味の範囲で述べれることは既に90年代前期に見つけていたから、95年から新しく資料をあつめてもその「イエ」についてなにか新しい知見を追加できるものがそれほどでてこない。その興味の範囲の狭さについてはたとえば 坂田聡編『禁裏領山国荘』高志書院、2009 の先行研究紹介の中で、山国地域にとって極めて重要な林業経済の研究についての言及がなく、執筆者が21人もいるのにその中に林業について語る人間がいないことをみてもわかる。山国荘調査団の親玉はこの坂田であるから、この手落ちについては坂田の責任にある。他人の成果の上にのってあーだこーだと理屈をこねるのは非常にうまいが、自分で問題設定したりするのは苦手なんだろう。だからいつまでも山国荘の文書だけを睨んで「中世近世移行期の家」の像をこねくりまわしているのである。

 実際、この『禁裏領山国荘』はバラバラに論文がならんでいてあまり統一がない。中央大学が頭になってるこのチームは一人でうんうん唸って好きなことを言ってる人間が寄りあつまっているだけなのではないか。中には目新しいものもあり勉強になるが、彼らが「通説」と言い、大胆に書きかえたと主張する同志社大学人文研究所『林業村落の史的研究』1967 の掌の上で踊っているようにしかみえないものもある。縮小再生産してるだけなのに無理に違う事を言って喜んでるようなものだ。まぁ京都の山奥の資料を数日の旅行でかき集めて、関東平野のまんなかの東京の机の上で眺めているんだからそれもしかたのないことかもしれない。

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これ書くために図書館で集めた本

吉岡拓

 さて、サヨクが「イエ」といいだしたら次はバカの一つおぼえで「天皇制」といいだすとみて間違いない。坂田が山国荘にとりついたのは「イエ」の問題と「天皇制」の問題を論ずることのできる一口で二度おいしい場所だからだろうが、残念ながら「天皇制」の分野について坂田は成果を上げられなかった。「イエ」で成功して視野が狭まりすぎたせいで「天皇制」のことが見えなくなったんだろう。それまで研究の上で「丹波国山国荘」と言ってたのを「禁裏領山国荘」と言いなおすくらいしかできなかった。その分野を担う期待の新人がこの吉岡拓である。

 吉岡は1978年生2000慶應卒とそれなりなようだが、その書いているものをみると、簡単に言うと近代天皇キチガイすなわち天キチだ。たとえば吉岡拓『十九世紀民衆の歴史意識 由緒と天皇校倉書房、2011 というのがあるが、それをみるとダラダラと歴史事実を追いつつも、そこで天皇やそれに関係するものに無私でなかったり尊重してないものをみつけると、ほれこのとおり、この時代この場所でも天皇を尊重していないといきなりわめきだす。彼がやってるのは研究といっていいものなのか。彼が天皇の権力について本来は奴隷のようにひれふすべきものと考えていて、その観念に合わないと、天皇の権威はこのとおりこの時代にはなかったのだと言いたいようなのだ。端的に言ってこの人は頭おかしいのではないかとおもう。

 さてこの人がなぜ天キチになったのか。研究者になった経緯については、その本のあとがきに詳しく書いてある。香港で1984-87年にかけて日本人小学校に通い、アメリカに転居する中で「日本人」たることを否応なく意識させられることになったが、また同時にアメリカで星条旗に国家への忠誠を誓う宣誓をすることに違和感を持つ。昭和天皇崩御の際の報道や反応で日本人にとっての天皇を意識するようになったが、日本に帰国してみると天皇の存在が逆に隠されているように感じたのがきっかけだという。それで史学科へ進んだというのだが、それだけでこのような、言ってみれば憲兵のような天キチにどうしてなったのかは不思議である。海外を経験して日本が異常というなら、海外の君主制との比較を始めればいいのではなかろうか。

 そこで『禁裏領山国荘』の吉岡拓の山国隊論説について見てみよう。「近現代における山国隊像の変遷」というタイトルがついているが内容は資料を並べて例のようにダラダラ紹介しつつつっこみをいれたものである。坂田による要約のまとめはこうだ。

そして、歴史研究者と地元住民の問題関心のズレが、住民らの山国隊認識を風化させたとみなす。

 はて?面妖なまとめ方だが実際に書いてある吉岡レポのまとめにはこういう一文がある。

この歴史研究者と地元住民との関心の相違は、結果として地元住民の山国隊認識について若干の「風化」を起こさせることになったのではないだろうか。

 彼がこのように言う根拠は『京北町五十年誌』2005 の中で山国隊について「維新勤皇山国隊」として記述されていたからである。またこの、歴史研究者というのは、それまでの研究が中世近世に偏っていたからことを言う。一個一個はそうだがまとめ方が異常である。はっきり言って非論理だ。地域外の人間の研究者と地域内の地元住民をどうしてそこまで直結できるのかわからない。まるで『京北町五十年誌』の記述が現地住民を支配しているような書き方だがその行文に支配されてるのは吉岡ではないのか。その彼の異常性は末尾の締め方にもあらわれる。

こうした状況に我々歴史研究者はどのように対応していくべきなのであろうか。それは、学術研究と郷土研究をどのように融合させていくべきか、という課題にもつながるのである。少なくとも我々歴史研究者は、自らの関心の中だけに閉じこもることなどのないよう律していかなけらばならないであろう。

 アジ文である。このアジ文の中でいう「こうした状況」も『京北町五十年誌』の中で「維新勤皇山国隊」として記述されていたことを指す。しかしその前に郷土史家による発掘や山国隊をイベント化する地元の取り組みなどにふれつつも、それをすっとばして「維新勤皇山国隊」として扱われることを正すべき状況だと感じているのである。彼は「過去がどうあったか」を調べる研究者ではなく「現在どうあるべきか」を訴える活動家ではないか。そのために歴史を利用しているのではないか。

 ということでその3「民衆と天皇」へ続く。

禁裏領山国荘

禁裏領山国荘

山国隊 (中公文庫)

山国隊 (中公文庫)