いわゆる「明智光秀の首塚」
京都東山の三条通りから白川沿いに南へ下ったところに「明智光秀の首塚」なるものがある。京都市による案内板によるとこうだ。
明智光秀の塚
天正10年(1582年)、本能寺にいた主君の織田信長を急襲した明智光秀は、すぐ後の山崎(天王山)の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ、近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹藪で農民に襲われて自刃、最後を遂げたと言われる。
家来が、光秀の首を落とし、知恩院の近くまできたが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられている。京都市
(漢数字をアラビア数字に変えた)
当然だが、これは要領よくこしらえただけの作文で、信用できる内容ではない。どうしてこんなところにこんなものができたのか、それを書いていく。
本来の場所は蹴上
まず最初に正解を出しておくと、「首塚とされるもの」があったのは蹴上のあたりである。京都の中心地への東からの入口であるが、また同時に「粟田口刑場」のある場所でもあり、平安時代から江戸時代まで幾多の罪人が処刑された。明智光秀も粟田口で晒されたらしい(山科言経の日記『言経卿記』、太田牛一『大かうさまくんきのうち』など)。ただしここが本当にそれなのか、もしくは本当に刑場で晒されたのか、そのころの刑場は固定していたのか、まではわからない。というのも刑場は峠の上に近いところだが、今話題にしている後世「首塚とされるもの」があったのはもうすこし下だからである。(地図はあとで示す)
江戸時代 京都の案内記にみる首塚の所在
『新修京都叢書』(臨川)という便利な地誌集があるが、この記事では以後これをフル活用していく。首塚の所在についてだが、光秀死後百年くらいの17世紀後半の時点では 「谷川町の民家の後ろ」であり、18世紀になるとそれが「黒谷道東三町」(三条通りと黒谷道の交差から東三町の場所)と変化する。また『華頂要略』(青蓮院の寺誌、18世紀後半)では「西小物坐町人家の後ろ」となっている。谷川町は西小物坐町の西側にあるのでだいたい同じ場所のことなのであろう。いずれにせよ三条通り沿いに峠を上がっていく道の北側の民家の後方にあったということだ。「三条通りと黒谷道の交差から東三町の場所」を江戸時代の面影をまだまだ残している明治前期に作られた仮製二万分一図(仮製は正式な三角測量でないという意味)で示すとこうなる。
ちなみに今このあたりの古い地形は消滅している。晒し物にされたのは交通の要衝だからであるが、同じ理由でここに疏水が通り路面電車が通り道路の大改造もおこなわれたので人家は消滅したのだ。この地図で○をつけたあたりは今大きく削られて、レンガ積みの蹴上発電所がある。
(20191001 もうすこし詳しい地図を使った記事を書いたのでそれに従って写真も入替)
ここに首塚があった理由・弔う人たちの存在
しかし、ただ単に晒し首にされた跡地とだけいうのではなく、その後の地誌にも「明智光秀墓」(『雍州府志』)「明智日向守光秀塔」(『京羽二重織留』)「明智光秀塚」(『山州名跡志』)と書かれていたようになんらかの形としてわかる「もの」があったことがわかる。しかしこういったモノは光秀一人に対するものだったのだろうか。晒し首にしたという記録には他に何千人も殺して積みあげた、みたいなことが書いてある。このあたりがその場所だとしたら、昔のことであるからその後坊主が勝手に何か作って供養するようなこともあったかもしれない。そういったものが百年の後には光秀で代表されるようになったのかもしれない。これは「かもしれない」程度の消極的な推測である。
もっと積極的な理由として考えられるのが、明智光秀を弔う人たちの存在だ。『日次紀事』という17世紀後期の京都の年中行事をまとめたものに六月十三日は「明智日向守光秀忌」と書いてある。そして、「南禅寺・五山・大徳寺・妙心寺等には祀堂料が寄せられている。下粟田口には塔がある。東坂本の西教寺(明智光秀が再興)にも塔と位牌がある。」ということだ。明智門があった大徳寺・光秀の伯父がいた妙心寺・光秀に恩のある西教寺だけではなく、公式仏教とでもいえる禅宗のトップの南禅寺・五山までが光秀を弔っている。そしてここはその南禅寺の近くであり、ここにある「塔」の存在も知られているのでまったくの無関係だったとも思えない。たとえば単に南禅寺から近いところに仮墓を設定したという考え方もできる。そう思ってもう一度地図をみるとなかなか興味深い事実がみえる。
東照宮の存在
おもしろいことに、光秀首塚とされる場所のすぐ近くに東照宮があり、東照宮に参ると光秀の首塚を遥拝することになるのだ。
すぐ近くに南禅寺があり、その塔頭寺院のひとつ金地院は光秀の首塚とされる場所の近くにあり、その敷地内の中でも光秀の首塚とされた場所に近い場所に家康の遺言で建てられた三大東照宮の一つが立っている。のちに江戸幕府の外交・寺社政策に関わったとされる「黒衣宰相」の金地院崇伝が南禅寺に入ったのは慶長10年(1605)。光秀の重臣斎藤利三の娘(のちの春日局)がのちの三代将軍家光の乳母となったのが慶長9年(1604)。ここに東照宮がつくられたのが寛永5年(1628)。ちなみに現存する方丈よりも東照宮の方が先に建てられている。ということで、この東照宮の存在を本能寺の変家康黒幕説とつなげるといろいろと話をふくらませやすそうではある。まぁしかし、冷静に考えてみると、単に春日局の剛腕でそうなっただけで、むしろ同時に粟田口で晒された斎藤利三の方がそのような配置になったファクターとしては強いのかもしれない。(斎藤利三の墓は真如堂にあり金地院からみると北になる。)ただの妄想なのでこれはここまで。(ごめんなさい。レイライン的な話でした)
しかし、ひとつ言えるのは、光秀を弔う程度のこともタブーだったのは秀吉在世のころで、関ヶ原以降はそういうタブーもなくなったのだろう。光秀死後百年の京都では公然と「明智日向守光秀忌」が営まれていたくらいだから。明智光秀の伝説に強い影響を残した『明智軍記』もそういう空気の中から誕生したのであろう。ひょっとしたらこの首塚なるものも単にその空気の中で路傍の塚に妙な思い入れが込められただけかもしれない。
明田理右衛門
ということで、次は明田理右衛門なる笛吹きの話にうつり、冒頭の白川沿いの「明智光秀の首塚」がなぜ生まれたのかを書く。
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