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明智光秀の首塚と明田理右衛門 その2 理右衛門の出身地

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明田理右衛門の光秀子孫説

 蹴上にあった「光秀の首塚とされるもの」と今現在白川沿いにある「明智光秀首塚」をつなぐのが明田理右衛門である。白川沿いに住んでいた能の笛吹き明田理右衛門が光秀の子孫を称してなにか石造物を移動させたということになっている。明治中期に蹴上周辺の大改造で蹴上の「首塚とされるもの」が地上から消滅してしまい、白川沿いの「首塚」が残って現在にいたるわけだが、この明田、なぜ子孫と称したのか。そのへんを探ってみよう。

『翁草』の明田理右衛門

 明田理右衛門と明智光秀首塚の関わりについては神沢杜口(貞幹)の『翁草』の中の「明智光秀齋藤利三墓の事」に非常に詳しい話がのっているので当時も噂になったことがわかる。その事があったのが明和8年(1771)、神沢がその話も入った部分をまとめおわったのが明和9年(1772)なので非常に近い。長いので概要だけ示す。

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  • 「粟田口黒谷街道より東の方路傍北側人家の裏」に光秀の墓とされる五輪塔があって周りに古木が茂り、伐ろうとしても祟りを恐れて伐るものもいない。
  • 白川橋通三条下る辺の明田理右衛門へ明和八年の春頃見慣れぬ男がいきなり袴を着してやってきて、先祖のことをしつこく聞いてくる。明田は「先祖のことは一切知りません。生前老母が語っていたことからわかるのは先祖が丹波出身ということくらいで由緒などはなおさらのこと」と答えたがそれを町内へ持ちかえって伝えるという

  • 数日後、男がまたやってきて町へ招待するというので行ったところ、町年寄5人揃って出てきて言うには「あなたは明智殿の子孫か宗徒か家来の子孫かなので、墓のある屋敷を是非ゆずりたい」明田「いやいや由緒はともかく、理由なしでそんな急にもらえない」と言ってとりあえずその話を持ち帰って家の者と相談し、結局もらうことになった。古木がうっとおしかったので全部切ったが何も咎めがなかった。

  • 私(『翁草』の神沢)がおもうに、その町内に奇怪なことでもおこったか、それこそ夢のおつげでもあったのでこんなことになったのではなかろうか。その子細は町の秘密とされたのでわからない

 まぁ一種の怪異譚であるが、ここからわかる事は、

  • 明田理右衛門は丹波出身で光秀の子孫でもなんでもない。
  • 町内のよくわからない都合で墓の管理を一方的に押しつけられている。

 というところだろうか。実は『翁草』、一度天明8年(1788)の京都大火で焼失してしまい、書きなおしたらしいのだが、それであやふやになったところがあったとしても、「子孫ですらなかった」「町内の人の行動の理由がわからない」といったお話の核心はそれほど変わらないだろう。この項に続く斎藤利三の項では碑文の引用など入っているので案外この部分は焼け残っていたのかもしれない。

丹波の明田

 丹波地方も場所によっては明田というのは珍しい名字ではない。たとえば国会図書館デジタルコレクションで「明田」を検索すると、ほぼ今の南丹市京丹波町あたりになる船井郡の人物紹介の本がでてくる。

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 ここで項目をたてられている明田姓は三人いるがそれぞれ

名前 場所(現在) 家柄
明田嘉穀 新庄村(南丹市八木町) 祖先代々農を業とし地方に於ける門閥家にして庄屋年寄等の公職を勤む
田吉五郎 須知(京丹波町) 代々徳川幕府の旗下川勝家の国元代官を勤める
明田重次郎 須知(京丹波町) 門閥

 という具合で地方名家レベルでこれくらいいるので一族はもっといるということになる。

 昔よりも移動しやすくなって人が全国に散りやすい現代社会でも、たとえば「ネットの電話帳 2000年版」で検索すると

jpon.xyz

 船井郡八木町(南丹市八木町)が断トツに多い。こんなに偏在しているので昔はもっと偏在していたのだろう。なので、『翁草』で明田理右衛門が丹波出身と言っているのは「蓋然性」が高い。

 この南丹市八木の明田氏について現地に行って明田姓の人に聞いた家紋研究家がいる。

arkness.blog.fc2.com

 八木の明田の人たちの間では応仁の乱のあとここに住みついたということになっていて、明智なんかは新参者程度の意識であるらしい。

『華頂要略』の明田理右衛門

 しかしその後、なぜか明田は「光秀の子孫」ということになっていたらしい。青蓮院の寺誌『華頂要略』巻57 (19世紀初-前期)の「光秀首塚」にこうある。

「明智光秀首塚」『華頂要略』57 | 京の記憶アーカイブ


明智光秀首塚
在西小物坐町人家ノ後ニアリ光秀於山科郷落命之後首屍ヲ捕テ梟シ所ナリ云々
天正十年之御記云六月廿一日明智日向頸其外数千ノ頸トモヲ當所ノ東ニ埋テ塚ヲ築奉行村井清三・・次右衛門云々
○今十露盤師平兵衛酒造嘉兵衛両人之家ノ間ニアリ此所除地ニテ古券外ノ地面云々谷川ノ南岸ノ上ニアリ
私云近年梅宮町ニ住セル能ノ笛吹明田理右衛門ト云ル人光秀カ子孫ナル由申觸シ彼首塚ニ有シ石塔婆ヲ我私宅ニ移シテケリ明田某ハ死シテ 今尚梅宮町梅宮ノ舊地ノ西邉ニアリ渡邉山城是ヲ守ル

 つまり梅宮町、つまり三条通から白川沿いに下ったところの住人、明田理右衛門という人が光秀の子孫だと言いふらし、首塚にあった石塔婆を家へ移した、ということで、光秀の子孫であるともないとも書いてないが、かなり突き離した書き方ではある。今「明智光秀首塚」として祀られているものの元は明田理右衛門が移動させたことということもわかる。明田が死んだあと、渡辺山城がそれを守っているということになるが、そのあたりのことは「その3」で書くこととしよう。ここまでくると「光秀の子孫と称する」が「光秀の子孫」となるのはすぐだ。

『都名所図会拾遺』の明田氏

明智光秀塚 同所(粟田口)黒谷道の東三町許にあり 光秀がくびを此所にかけし所なり 近年明田あきた氏といふ人此処に住みしが今又白川橋しらかわばし三條の南へ古墳と共に遷す

 この本では塚ごと移動させたことになっている。あと読みは「あきた」らしい。全体に伝聞だけの資料だとこうなるという見本か。いずれにせよ明田氏が移動させたことになっているのは有名だったようだ。

『閑田次筆』の明田利右衛門

 この明田理右衛門、他にも話題をふりまく有名人だったらしい。『近世畸人伝』で市井の人を記録に残したことで有名な伴蒿蹊が、同一人物とみられる明田利右衛門についておもしろい逸話を『閑田次筆』に記録している。

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明田利右衛門の奇智
橘經亮の話に、粟田祭は、年毎に九月十五日なるが、天明六年は國恤の時にて、霜月に延引せり。此の祭式の内、知恩院裏門前の上白川の流に掛け獨木橋を、重き劔鉾さして渡ることあり。其の夕、霜深く起きて、さらでだに細き橋の、見るめも危きを、いかゞと人々思へるに、其の河涯に住める、明田利右衛門といへる猿樂の笛師、心を得て、木屑を敷かせしかば、障なく渡りたり。かりそめのことなれど、時に當りての働きを、人々感じたり。(以下略)

 天明6年(1786)の粟田祭は都合で冬に延期されたが、鉾を持って一木橋を渡る習わしがあり、その日は霜もついて危そうだったところ、近くの明田利右衛門が気をきかせて木屑を撒いたので難なく渡れた、人々は感心した、という内容だ。ちなみにこの一本橋今でも残っているが石の橋になっている。

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一本橋

 京都市による石の案内が脇にあるがそこでも粟田祭で鉾を持って渡ることは書いてある。

 ま、それはともかく、奇智とあるように、目先の効く人だったらしい。しかしだからといって明智光秀の子孫と名乗るようになったのはどうしてだろうか。それは先の項目で明田の死後も渡辺山城なる人物が守っていることからもわかるようになんらかの価値があったのである。それを「その3」で書く。

明智光秀 (織豊大名の研究8)

明智光秀 (織豊大名の研究8)

図説 明智光秀

図説 明智光秀

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