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明智光秀の首塚と明田理右衛門 その3 「18世紀後半光秀再評価の波とその背景」(了)

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光秀の評価について

 「その2」で丹波出身の明田理右衛門がなぜか明智光秀の子孫を名乗るようになった姿を外形的に捉えてみた。ではどうしてそんなことをしたのか、背景を探っていきたい。

光秀の地子銭免除

 さて、実は京の市中の住民にとって光秀はさほど嫌う対象ではなかった。「その1」で書いたように死後百年にして「明智日向守光秀忌」の日があったほどであるが、その他に特筆すべきこととして、光秀が本能寺の変のあと、人気取りのため地子銭(宅地税の一種)を永代免除し、その後の政権もこれだけは撤回できないまま江戸時代も続いていたのだった。つまりは京都の人にとっては光秀の事をいいように解釈する素地があった。のちに首から上の病について「光秀の首塚」にお参りしてしまうようになるのも、次の項目から書くような事以外にも、そもそも無視できない人物だったからだろう。

18世紀後半の光秀再評価の波

 芸能の世界での光秀像も18世紀後半から大きく変化した。原田真澄「太閤記人形浄瑠璃作品に表われた謀叛人―『絵本太功記』の光秀を中心に―」『演劇学論集 日本演劇学会紀要』55、2012は主に幕末に流行った『絵本太功紀』の光秀像を主に対象にしているが、その中で先行作品群の紹介もしている。

ci.nii.ac.jp

 そこで悪人としての光秀像に変化があった作品として近松半二の『仮名写安土問答』安永9年(1780) を挙げている。

この作品での小田春長(織田信長)は、足利将軍家を滅ぼそうとする策略家の謀叛人に描かれている。それに対して武智光秀(明智光秀)は、主君春長の謀叛をとどめ、主家の名前を穢さないために敢えて謀叛を起こし、自分が逆臣の汚名を着ることを選ぶという悲劇的な人物である。いわば、忠義の為の謀叛であり、この光秀は単なる謀叛人ではなく、むしろ忠臣であるといえよう。しかしながら、「不忠の忠義」のために謀叛人となった光秀は、『絵本太功記』の光秀とは異なり、春長の悪逆を告発せずに、ただ謀叛人として死ぬためだけに真柴久吉と闘うのである。

以上のような、信長を足利将軍家に対する謀叛人、秀吉を織田の天下に対する謀叛人とするような視点は人形浄瑠璃の中では特異である。

 この作品の近松半二はまた明和4年に(1767)には『三日太平記』で、無道な信長に追いつめられる光秀というストーリーをつくっている。ここでちょっと人形浄瑠璃の状況について触れておく。

人形浄瑠璃の翳りと反面人物

 近松門左衛門の脚本と竹本義太夫のあやつり人形が作り出した竹本座の人形浄瑠璃は一世を風靡し、そのあやつりの仕草が人間が演じる歌舞伎の所作に影響を残してしまうほどであった。とにかく脚本の力がすごく他の芸能を圧倒したのである。近松門左衛門の死後は、竹田出雲がプロデューサーとして会議制脚本家集団の仕組みをつくりあげ、脚本の質を保つことにこれ務めたおかげで、ひきつづき大坂芸能の王者の地位を保っていた。しかし、多人数での合作が続くとまずまとまりがなくなってくること、また人形であるから少々複雑なことでもできるので、趣向に凝るあまり趣向のための趣向、技巧のための技巧に走ってしまったこと、また歌舞伎の世界にも脚本家が育ってきたことなどから人形浄瑠璃の人気に翳りがでてきた。出雲のあと人形浄瑠璃の世界をひっぱって消滅を先延ばしした人物に近松半二がいるが、その半二の努力も甲斐なく人形浄瑠璃は芸能の王者の地位から退いてしまった。

 物語の趣向に凝りだすとその趣向の一つとして、反面人物を主人公にして、新しい評価を与え、新味を出して物語に深みを与えようとする事がある。「奥州安達ケ原」の安倍貞任、また「義経千本桜」での平家残党などがその例になるが、明智光秀もその部類であろう。そして、先程あげた原田論文に挙げられている「本能寺の変を題材とした人形浄瑠璃作品」10作品をみればわかるようにほとんどが18世紀後半に集中していて、人形浄瑠璃の焦りが18世紀後半に生みだした数すくない受けるネタが光秀物であった。また同時期に講談の世界でも『真書太閤記』がまとめられ、それが読本の『絵本太閤記』になっていくのもこの時期だ。諸芸能が秀吉ネタ(同時に光秀ネタ)をあつかっていた時期なのだ。そこから「劇的葛藤に満ちた魅力的な人物」としての光秀が登場する『絵本太功記』に至るということになる。これがここで言うところの「18世紀の光秀再評価の波」である。

淀城の稲葉氏

 もうひとつおもしろいのが京大坂の中間にある淀城の稲葉氏の存在だ。享保8年(1723)淀へ移封された稲葉氏は、明智光秀重臣斎藤利三の娘春日局の末裔である。また途中で毛利秀元の娘の血も入っている。親戚には徳川綱吉大老堀田正俊江戸城内で殺した稲葉正休もいる。また赤穂浪士の事件がおこったとき、たまたま老中だったが、即刻処分されないように処理したらしい。このような複雑な背景をもつ稲葉氏が京大坂の中間の要衝にいたのだから、歴史的内容にふれて度々停止をくらっていた浄瑠璃の方でもあまり誹謗にならないよう、また秀吉贔屓の大坂の顔も立てるように、その間で智恵をこらした結果、このような複雑な性格を持つ光秀が誕生した、という可能性もある。

 ちなみにこの稲葉氏がその2で引用した『翁草』の「明智光秀齋藤利三墓の事」に出てくる。むしろ斎藤利三の事がその記事の主題で、明田理右衛門の話は前座のおまけのようでもある。といっても話としては簡単で、春日局の墓のある妙心寺は保護が手厚く稲葉家から采地二百石もらっているのにその親の斎藤利三の墓のある真如院(今の真如堂)は何もない、と真如院が明和9年(1772)年、淀の稲葉氏へ訴え、文を求められたので人に頼んで書いてもらった、というもので、その文には、海北友松が暴れているスキに真如院の長盛が利三の首を盗んで持ち帰った云々と、真如院のことと、春日局のことばかり書かれている。その心は妙心寺塔頭のように采地がほしいということだろうが、それがどうなったのかはこれだけではよくわからない。

明智光秀首塚」の寄進物

 「明智光秀首塚」の周囲にある石造物は幕末から明治にかけて役者連中が寄進したもので、光秀物はこんなものを寄進できるほどの人気番組だったことがわかる。

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首塚」境内にある手水鉢 「竹本大隅太夫

 その1で明田が「石塔婆」を移動させたとあったが、それが今どこに行ったのかはよくわからない。ここにある細い五輪塔はネットでみると弘化2年(1845)と書いてるものがあるが、表の道標のことではなかろうか。年代が書いてあるところは見なかった。何も書いてなかったようにもみえる。

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観光地「明智光秀首塚

 ここが観光地化していたことは幕末期の観光ルートに入っていたことからもわかる。

www.jstage.jst.go.jp

 谷崎友紀「旅人の属性にみる名所見物の特徴 -武蔵国から京都への旅日記を事例として-」『人文地理』69巻2号、2017 の中で農民(江戸近郊民)は観光ルートが定型化しやすいと書かれているが、その一例としてあがっている『伊勢讃岐道中日記』嘉永2年(1849)では青蓮院から知恩院の間に寄るように書かれており、定型ルートの中に組みこまれていた様子がうかがえる。同時に18世紀末以来の太閤記物(光秀物)がこういった農民にも受容されていたこともわかる。本来の首塚の場所は蹴上で京都の中心からすこしだけ遠いが、観光ルート化もしづらい。上記論文でも南禅寺はより知識のある人が行く場所の例に挙げられている。

明田理右衛門が光秀の子孫を名乗った理由の推測

 これだけではただの状況証拠しかなく、実際のところはなんともいえないのだが、小説的に考えてみよう。明田理右衛門は粟田祭の鉾が冬の一本橋を渡りやすいように前もって木屑をまいてやるくらい目端が効き、サービス精神に溢れた人物である。また、能の笛吹きということで芸能の世界の住人であり、目端の効く人間が芸能界のトレンドに詳しくないわけがない。おそらく彼は光秀物の人気が上がってくる様子をみて、京都市中では珍しい名字であることと、明智係累かなにかと思われて蹴上の首塚を押しつけられたのを奇貨として、より京都の繁華街に近い自分の屋敷内に石造物を移し、今のように参拝できるような場所を開いたのだろう。ついでになにか物売ったり金取ったりしていたのかもしれない。だからこそ、明田が死に、一族がどこか(おそらく弘前藩江戸屋敷?)へ行ってしまってからも、渡辺山城なるよくわからない人物が管理を続けていたのではなかろうか。幕末の安政のころから今までは近くの餅寅が管理しているようである。

作られる歴史

 浄瑠璃の脚本家集団の一人に医師が本業の三好松洛がいるが、鞆を舞台にした脚本で何々坂何々坂といった地名を適当に作ってあてはめ、鞆出身の人に聞いたことない地名だと言われると、こう答えたらしい。

いや、今までにはそんな地名はなかったろうが、この作が当ればきっとそんな坂の名も出来るよ

 そう、ある人たちにとって歴史は作るものであり、あとからついてくるものだった。明田理右衛門もそのあたりのことを承知していたのかしないのか、光秀の子孫であるかないか曖昧にしつつ光秀の子孫っぽいことをやってるうちに勝手にその名がついてきた。それが数代あとになると、明智光秀の子孫であることを疑いもしなくなり、明治14年にはわざわざ明智と改姓したらしい。さらにその子孫が今、明智憲三郎として活躍中であり、やはり光秀の子孫と曖昧に主張しつつ、自分なりに調べて妄想を付加した光秀の伝記のようなものをつくってこれが真実と唱えて売り、年金生活をエンジョイしている。さすが明田理右衛門の子孫というところだろうか。

参考

光秀からの遺言: 本能寺の変436年後の発見

光秀からの遺言: 本能寺の変436年後の発見

陰謀の日本中世史 (角川新書)

陰謀の日本中世史 (角川新書)