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君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

大神系図の山国出身伝承

淺川道夫・前原康貴『丹波・山国隊 時代祭「維新勤王隊」の由来となった草莽隊』2016

 すこし前、図書館に山国隊の本が並んでいたのでちょっとめくってみたら山国の歴史を祖述しているところでいきなりダメすぎる記述があり、誰が書いてんだ?と後ろをみると時代劇が云々と書いてあるので、なんだ物好きが適当に書いた本かと中身も見ずに戻してそれきりだったのだが、最近になって著者は軍事史学会に属してる人間で、本筋は山国隊を軍事史的に扱ったものでその部分は有用らしいということがわかったので俎上に載せる。全部ダメな本なら無視しておけばよいが、それなりの権威をもち有用な部分があって以後参照されるような本ならダメなところは叩かねばなるまい。そういうわけで事前に書いておくがこれから書く事はこの本の本筋には関係がない。以下書名が長いので淺川本とする。

通史部分の独自見解

 この本の値打ちは後半の各論の部分にあるので前半の通史部分はどうでもいいといえばどうでもいいのだが、たとえば山国隊と岩倉具視の部分について

山国隊誕生の日付であるが、藤野の『東征日記』では一月十八日なのだが、水口民次郎著『丹波山国隊史』では荒尾邸訪問の翌十九日午前になっている。確かに、因州藩家老に斡旋を承諾されたその足で岩倉に会う、というのは段取りが良過ぎる気がするので、こちらが正しいように思われる。

 というようなそれなりの見識をみせている。単なる通史の祖述から一歩踏みこんでしまってるわけだ。まぁもっともこれは山国隊のことなのでこの本の本筋でもありそれなりの見解を出すのはわからんでもない。問題はもっと前、山国の成立のところだ。これ幕末諸隊の山国隊史としては本当に書く必要のないところなのでいらないことをしたものだ。

「本苗大神山国家系図

 この本の冒頭で山国という地名の成立についてこんなふうに書いてしまっている。

『本苗大神山国家系図』によれば、この頃の木工権頭である山角国麿は小野妹子の子孫で、平安京造営の御用材を調達するために、丹波国桑田郡へ出張した。

 この山角国麿略して山国という由来なんか書いてしまっている。以下略するが、この調子で明智光秀のあたりまで大神系図を援用している。この大神系図というのは、戦後山国に奈良の方から大神源太郎という人がやってきて、生駒の宝山寺から出てきた系図に山国のことが書いてあるとして持ちこんだものである。そしてそのころの山国や弓削あるいは小野郷・雲ケ畑のあたりの人をまきこんで墓を建てたりしたようだ。まぁしかしこれ山国は他にも豊富に資料があり、それと系図の記述内容が齟齬するので簡単に偽系図だということがわかるのだが、それにしては現地情報が豊富に含まれているのでいくらか真実が含まれているのではないかと思う人がいたりあるいはコロリと騙されてしまう人もいるようだ。そもそも大神源太郎氏自身もコロリと騙された口ではないかとおもわないでもない。

 そのようにコロリと騙されてしかもそれを一冊の小冊子にまとめてしまったのが岡本剛次『禁裏御杣御領山国の古代史を解く』1992 で、これは今京都学歴彩館にも開架で並べてあるので物好きは見にいくとよい。まぁ普通に仕事してたおっさんが引退してから郷土史やりだしてこういうのにコロリとまいるのはよくある事で本まで出してしまうことは立派な事だし、こういう仕事のおかげで大神源太郎氏のことがまたわかるという面もあるので値打ちがないとまでは言わないが、通史の元ネタにするには弱い。残念なことに淺川本の参考文献にこれが挙げてある。

竹田聴洲の大神系図論文

 もしこの大神系図について現時点で何か書くなら、まず参考にするべきなのはこれだ。

竹田聴洲「伝禁裡御杣丹波山国庄木工助大和大神家家譜 解説並に原文 -山人の系譜伝承-」『竹田聴洲著作集』9,1996
(初出は『佛教大學研究紀要』46、1964)

 ちなみに竹田氏は「これは独り一つの村の歴史の欠を補うというにとどまらず、広く前代常民生活の埋もれた足跡を暗示するところが大きいのではないかと考えられる」と書いているので、いわば「いくらかの真実が含まれている」派のようにみえるが、実際に内容をみるとそうではない。大神源太郎氏が収集した一群の山国出身伝承が書かれた系図とは異なり、しかも時代的には先行する九州出身伝承が書かれた享保正徳頃の文献が出てきたので、それと合わせて後世の課題としてまとめて残してくれてた非常にありがたいものなのだ。

 この竹田氏が追加してくれた九州出身伝承の威力は絶大で、たとえばこれだけで気の早い人だと大神氏の山国出身伝承を抹殺できる代物なのだが、しかしそれにしては山国出身伝承がやけに詳しく現地情報も豊富に含まれている。そこについて竹田氏のころには考える材料がそろっていなかったのと、大神源太郎氏が活発に活動していた時期なので面とむかって否定もしづらい、それに案外山国でも受けいれている人がいる、そこで山人伝承ということでとりあえずまとめたというところだろう。竹田氏の配慮はその九州出身伝承を伝える部分を最後にこっそり紹介していることでもわかる。読む人が読めばわかるように構成されているのだ。

奈良の富雄方面では山国出身伝承はまだ生きている

 ちなみに奈良の富雄の方ではこの大神氏系図の山国出身伝承はまだ生きている。たとえばこれ。

www1.kcn.ne.jp

 奈良の西大寺の南の方で一年くらい暮して奈良盆地内の古墳などみてまわったことがあったがそのころ行ったことがある。他にもあるのだが、この富雄のあたりにはかなり流布している。そもそもであるが、この大神系図系の山国出身伝承、『富雄町史』1954 (昭和29年) に一部掲載されているのである。ちなみにそこではこのように紹介されている。

ハ 伝承
 地名のいわれや、領主・長者のこと、或いは地理に関することなど、本町の伝説もかなり語られているが、その多くは「小野氏系図」に集成され、またこの系図が造製したものである。そこでここにこの系図を抄掲して本項を埋めることにする。もとよりこの系図についても、また所説についても信をおくには足りないし、作者またその作製年代もほぼ推定されるが、この系図所掲の伝説が醸成或いは通用していたことも注意されねばならない。

 というわけで、富雄周辺で信仰にとりいれられてしまった以上簡単には消えてなくならないだろう。ところで大正のころに奈良県風俗志編纂資料として調査されたものの富雄村の分にもこの系統の伝承が散見されるが、その中にあるおもしろいのを一つ紹介しておこう。

よ 舊家ニ関スルモノ
富雄村大字中 青井家 當家ノ祖 小野福麿ハ大神常陸従四位下木工權頭タリ天平十年寅二月逆臣冬勝ノ為ニ暗殺セラル 同十代養男源宗善ハ改姓ノ中興 山國木工權頭 従五位上 同三十八代爲經ハ前ノ住兵衛ト云フ 元和六年二月卒 同四十五代為明、青井佐兵衛ト云フ 青井家ノ祖ナリ 天保七年六月死後爲信、為貞、為規、為鎮ヲ經テ現ニ五十代為次ニ至ル 熊太郎ト称ス 村内ノ名家ナリ

 この青井家が竹田氏の論考の中にでてくる青井家であろう。あんまりつっこんでもしかたないのでこれくらいにしておく。

椿井政隆との関係

 ちなみに自分も中学生くらいのころに京北町の文化センター(今はない)の図書室でその岡本本をみてなんだこれは?と思った記憶があり、なんかの機会にすこしづつ調べたりしていたがよくわかっていなかった。最近わりとわかってきたのだが、たとえばこの富雄に霊山寺という寺がある。そしてこの寺は「興福寺官務牒疏」という興福寺関係の古文書のリストの中に挙げられているのだが、この「興福寺官務牒疏」は一部で最近有名な椿井政隆が作ったとされる偽文書であり、そこにのっている寺は椿井が偽由緒をつくったものが多いことになっている。椿井政隆についてはたとえば馬部隆弘のこの本など参照のこと。椿井文書などのキーワードで検索してもいい。

由緒・偽文書と地域社会―北河内を中心に

由緒・偽文書と地域社会―北河内を中心に

  • 作者:馬部隆弘
  • 発売日: 2019/02/28
  • メディア: 単行本

 実際に霊山寺をみると「鼻高山」という妙な名前の山名をもっており、しかも大神系図系の伝承の中で鼻高の由来が小野富人なる人物で説明されている。これも椿井文書の一種とみるとおもしろいのだが、そうすると椿井が山国へなにかで取材しに来たことがありその材料をつかって京都の山奥の山国からはなれた奈良西郊山間部の富雄で由緒をつくったということになる。自分が今調べていることに直接関係するわけではないが、これについてもまだ材料集めているところなので可能性として一応書いておく。

九州出身説について

 大神氏と山国あたりを繋ぐ、つまり情報を得る経路の可能性として、他に鷹峯の薬草園がある。京都から山国へ行くメインルートとしては鷹峯から杉坂をこえていくルートが一般的だったが、その鷹峯にあった薬草園の管理をしていたのは藤林家である。この家は実は九州の大神氏の系統で、室町時代大内義興について来てそのまま室町幕府に仕えたということになっている。今話題にしている大神家も奈良なら「みわ」と読んでもいいのにわざわざ九州系の「おおが」と読んでいるので九州出身というのは説得力がある。しかも共に医師家業なのでかなり狭い世界に属していたことになり、椿井文書説以外にもそういう経路での情報入手が考えられる。

 九州から流れてきたという説自体についてだが、朝鮮役での失態で大友家とりつぶしのあと、秀吉の九州征伐で活躍した藤堂高虎をたよって豊臣秀長大和郡山まで来たあと、秀長の死で高虎についていき、そのまま三重の津藩の家臣となった佐伯家という実例もあるので、同じような動線をたどって大和郡山に残留したというのは十分ありうる事で突飛もない話ではない。織豊期から江戸初期にかけての人口移動は漠然と思ってる以上に激しいということだ。

山国の由来

 さて最初の淺川本の話題にもどると、そもそも山国の地名の起源を求めるのにそんな怪しい系図の中の語呂合わせを持ってくる必要はない。既に古墳時代にはそこそこ奥の方まで古墳が確認されるほど開発されており、奈良時代には山国里という地名が書かれている木簡まで出ているのだから、由緒書や系図程度が想像するよりも古いところに起源を求めることができる。そういうわけで自分などは出雲に山国郷があることに注目しているのだ、とそこまで踏みこんでしまうといかにも胡散臭い郷土史家風でちょうどよい。

丹波・山国隊: 時代祭「維新勤王隊」の由来となった草莽隊

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山国隊 (中公文庫)

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