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平岡龍城 続報 (国会図書館デジタルコレクション全文検索の範囲拡大記念)

平岡龍城 続報 (国会図書館デジタルコレクション全文検索の範囲拡大記念)

 国会図書館デジタルコレクションでOCRを使った全文検索の範囲がグンと拡大したので、今までよりも検索だけでわかることが増えた。ということで謎の人物平岡龍城についてもすこし知識が増えたのでそのことを書いておく。

ブログに書く事について

 さてその前に一つ確認しておく。数年前にいろいろ平岡龍城のことを調べて書いておいた。それについて、wikipediaの方でこういう言及がなされた。

ja.wikipedia.org

 平岡龍城についてwikipediaに項目を立ててくれという依頼への山田晴通の返答だが、このブログなどを例にあげながら、そこに書いといた出典の文献を「身近にはありません」とつきはなした上で、

いずれにせよ、これらの個人ブログ等は、そのままでは記述の典拠にはできませんので、相当の文献的裏付けが求められる主題です。--山田晴通(会話) 2018年9月22日 (土) 20:26 (UTC)

 と「個人ブログは記事の典拠にできない」と書いている。まぁそういうことだろう。このブログは何の典拠にもならない便所の落書きである。 したがって好きに利用すればよい。

最近の研究

 ところで、平岡龍城についての最近の研究だがこういうのがある。

cir.nii.ac.jp

 これは平岡龍城の紅楼夢の訳文を「添義訳文」として再評価するもの。平岡龍城の翻訳についてはいろいろ議論のあるところで、自分もここで、 inudaisho.hatenablog.com

紅楼夢研究者で国訳紅楼夢を詳細にしらべた森中美樹によれば、平岡龍城の国訳紅楼夢は名訳という評判であるが実のところ文語調と口語調のバランスがとれてない悪文で一に平岡龍城の日本語に問題があったという。まぁ大正というのは現代につながる日本語口語調の文章が成立する時代なので明治人であるとおもわれる平岡龍城がそういう文章を書けない人だったというだけの話だが、口語の意味を見事にたくみに写しとっていても全体として文章のバランスがとれていないのは読み物として問題のあるところで、そこまでの人ということだったんだろう。

 とひどい事を書いているが、専門家が辞書みたいに読むものとしてはものすごくよいものでも、読み物としては問題があるのは今でも間違いないと思っている。まぁそこへ新しい視点を持ってきて評価するのはよい試みではあろう。ところでその彼が今までの平岡龍城についての推測に対抗して「自説」として提出したものがある。それが没年だが、かなり曖昧に書いている。

晩年まで中国語に熱意を持ち、先生でもあったらしく、一九五二年までには亡くなっているものの、七〇歳過ぎまで生きた事がわかる。『日華大辞典』編纂年からして、卒年を一九四〇年代と仮定すると、明治初年頃に生まれたのであろう。

 郡司氏は魚返善雄の回想をみつけたために、どうも平岡龍城の没年の推定をかなり下げて想定しているらしい。そこは注5にこう書いていることからわかる。

(5)奥野信太郎は『龍城旧蔵の紅楼夢』を戦後間もなく入手したが、龍城の孫娘は、龍城の姪が引き取った旧蔵書を姪が生活に困って手放したという(『中国随筆集』一九九八、慶應義塾大学出版会)。よって森中は龍城が終戦前に亡くなったとする(森中 二〇〇八:一五六頁)が、本稿の通り自説を呈した。

 終戦前に亡くなったとする森中説について、わざわざ「が、」と逆接でつないでいるのだから、戦後死亡説ということだろう。彼の書いた平岡龍城の身の上のことについては論文では脇道の話だし、すこし調べたらわかる程度の事なので、このブログみて参考にしただろうとか言うつもりはない。ただしわざわざ没年についての自説を展開しているのでそこはもうすこし調べてから書いた方がよかったと思う。

範囲拡大でわかったこと

没年月日

 さて、自分ももうすこし調べておこうとおもってネットにはっきり書いてなかった平岡龍城ネタがある。要はネットで検索したり、論文をみたりしてもわからない事の中に、紙をめくって調べてわかったことがあるということだ。さてブログは「記述の典拠にはできません」と嬲られるように書かれているのでもうこういうところにも書くつもりはない。

 国会図書館デジタルコレクション全文検索できる範囲拡大で昔の事が調べやすくなったのは確かだが、自分がみつけた事はそれでも簡単にはみつからないようだ。しかし「平岡龍城」で検索するだけでもまた新しいエピソードをみつけれるので、この方面でも進展はあるだろう。

 ところで、自分がわかってる事で検索すると当然ながら検索の範囲が広がるのでもうすこしわかることがある。その一つが没年月日だ。太平洋戦争開戦前に死んでいることがわかった。そういうことで森中説が当たりということになり、逆を張ってみた郡司説は明確に否定されることになる。まぁしかしこのブログは典拠にならないらしいので、調べて新説として発表したらいいとおもう。

平岡龍城の所属

 あと他にもある所属がわかってなかなか興味深い。ただ依然として平岡龍城が何をしていた人なのか、という重要な点についてはよくわからない。ただ、上に引用しておいたこのブログの記事で

うーむむ。日華大辞典の賛助者や関連情報をみているとやはり玄洋社黒龍会人脈とズブズブなのではないかという気がしてくるのでそっち方面も掘っていけばなにかわかるかもしれん。

 というような見込を書いておいたけど、それとは違うわりと重要なつながりをみつけた。ただこの方面はなんというか、「新しい陰謀論」を生みそうな分野なので要注意な分野でもある。実はそのつながりを持つ人は今でもいっぱいいるので、情報も目grepを駆使すればみつかると思うのでそういう人がやればいいと思う。

押しかける平岡龍城

 全文検索でわかったエピソードとして、学習院に新しく赴任した校長のところへおしかけて『標注訓訳水滸伝』を売りつけたというのがあるのだが、それも前後脈絡なくいきなり登場してその後でてこない。しかしだからこそ「平岡龍城」と書かれており検索でひっかかった。こういう謎の大物ムーブを繰りだすので余計によくわからないのだが、それも上で書いた「つながり」を利用すればある程度は解明できることだと思う。

雑談の平岡龍城

 あとは.. ある作家のあつまりのところへやってきて話の輪に入って話題を提供してたりする話があったので、まぁ魚返善雄の目からみると寂しいものかもしれないが、年寄は年寄でそれなりにたのしくやってたのかもしれん。