メモ@inudaisho

2017/06/24 はてなダイアリーから引越 / 君見ずや出版

富士通がバッテリーの上限を人質にして買い替えを要求している

 今メインで使っているノートパソコンは富士通の FMVT90T (TH90/T)だが、バッテリーはそこそこ持つ上に充電に要する時間が非常に短かいのでありがたく使っていたが、このあいだドライバのアップデートなどしたら、バッテリーが消耗しているというメッセージが毎回起動時に出るとともに、充電容量の上限がいきなり65%に制限された。今まで80%で使っていたのにそれよりも短かくなる。

 富士通の言い分によるとバッテリーが消耗したらそうなるということだが、windows付属のpowercfgでそこそこバッテリーの情報を収集しているので、そんなに充電容量が減っていないのはわかっている。設計容量が45360mWhのところ、現在の容量は41011mWhということで、まだ90%くらいの容量はあることになる。ただし80%充電で抑えているので、Windows のユーティリティが示すところでは5時間くらい使えるところ、4時間程度使っているということだが、まぁ今のところそんなに使うこともない。

azby.fmworld.net

 この、「【ノートパソコンを安全にお使いいただくために】バッテリ充電制御機能アップデートのお願い」というのを見ると、何をもって「消耗」というかの基準が明示してある。

  • バッテリーユーティリティが搭載されている場合

    • 「サイクル数」が300回を超えている
    • 「バッテリーの消耗状態」(注2)に「交換時期が近づいています」または「早めの交換をお勧めします」と表示されている
  • バッテリーユーティリティが搭載されていない場合

    • バッテリ駆動時間が、購入時より明らかに短かくなっている(バッテリ駆動時間が半分など)

 なるほどたしかにバッテリーユーティリティでバッテリーの情報を見るとサイクルは464回。富士通言うところの「消耗」の基準は満たしている。

 そしてその制限を解消する方法は新しいバッテリパックを買うことだという。うーん? それはつまり不良品であるから買いかえろということか? それならリコールで交換するべき話ではなかろうか。不良品ではないというのならこの65%制限をとっとと外してほしい。

富士通 ScanSnap iX500 (A4/両面)

富士通 ScanSnap iX500 (A4/両面)

富士の本宮・新宮から熊野の本宮・新宮を解釈する

 熊野を離れて伊勢にしばらくいたが図書館の休日(月曜)になったので移動することにし、寸又峡温泉梅ヶ島温泉という硫黄泉がどんなものか知るために伊勢湾の対岸まで移動した。ついでに大学のときの知り合いとメシでも食うために静岡に寄ったのだが、そのとき早く着きすぎたのでそれまで行ったことのない静岡市文化財資料館というところへ行ってみたら、静岡浅間神社の境内にあって、そもそもこの資料館自体が神社にある文化財のために存在するようなものだった。静岡浅間神社は賤機山の麓にあり、「静岡」の名前もこの賤機山に由来するものらしい。

f:id:inudaisho:20180611175515j:plain

 静岡浅間神社は戦国時代の末期今川氏から武田氏が奪ったが、さらに武田氏が滅びるときに徳川家康が焼いてしまったということで、駿河国をあげて再建したということで今のように豪華なものになったようだ。駿府(今の静岡)の地位は家康死後急速に低下したがそれでも旗本が交替で集まる土地ということでこの浅間神社にもいろんな宝物が残ることになったようだ。

 ところでこの静岡浅間神社の由来などをみていると、富士宮浅間神社(富士山本宮)を勧請して富士宮の方を本宮、静岡のを新宮としたということになっており、実際「富士新宮」という名前で中世の古文書などにも書いてある。静岡浅間神社という名前ではあるが、そもそも神戸神社・大歳御祖神社などが既にあったところへ浅間神社を勧請したという形のようだ。その年代は醍醐天皇の延喜元年(901)ということになっている。富士山信仰で在来の神を上書きしたという形なのかもしれない。そこで気になるのがその年代だ。醍醐天皇宇多天皇の子で、宇多天皇は寛平9年(897)に醍醐天皇に譲位して上皇となり、さらに昌泰2年(899)には出家して法皇となった。醍醐天皇宇多法皇もその約30年後に相次いで死ぬのだが、富士浅間神社に本宮新宮ができたのは宇多法皇がまだまだ元気なころということになる。

 ところで宇多法皇というと熊野三山の浮上には非常に縁の深い人で、この天皇が仏教に凝り、最初に熊野参りをしたのがのちの院政時代の貴族による熊野参りの盛期を導いたことになっている。そもそも熊野三山の歴史について、院政時代の熊野参詣盛期以前は非常にあやふやで、研究書などでもまちまちなことが書かれている。社名についても熊野三山が成立する前は「熊野坐神社」「熊野速玉神社」でしかなく、本宮新宮などの呼称がいつからかについてもはっきりしたことはわかっていない。本宮・新宮・那智を一体のものとして熊野三山として整備されたときに神格の整備も行われたという説がもっともらしい。花の窟などとの関係もはっきりしないが、熊野三山の祭祀の中には花の窟ががっちりと組みこまれている。熊野三山が整備されたときにそれ以前の祭祀が熊野三山の一部に組み込まれたのかもしれない。花の窟での祭祀が日本書紀の熊野有馬村の祭祀を残したものだという解釈があるが、むしろ仏教儀礼ぽいという当然すぎる指摘もあり、修験道の香りが強い熊野三山の整備のときに日本書紀にある祭礼なるものはこんなんだろということで仏教的儀礼から適当に選ばれたのかもしれない。そのあたりも歴史の闇の中だから格好の妄想の的だ。だいたいこの紀伊伊勢あたり、権威づけのために偽書とか平気で作る風土で熊野三山自身もその由来を中国から飛んできたことにしたり適当な話を作っている。伊勢外宮も伊雑宮も玉置神社も牛鼻神社もその後から来たものというだけだろう。

 富士新宮を新設した延喜元年(901)はまた微妙な年で、宇多が藤原氏牽制のためにとりたてていた菅原道真がその年初に失脚し、その年末には宇多法皇が東寺で伝法灌頂を受けて、真言宗阿闍梨になっている。宇多法皇天皇になる前は実は臣下であり、そこから天皇になったため、以前つかえていた陽成上皇との関係には悩まされたらしい。仏教に入れこんだのも藤原氏対策だけではなく、陽成上皇との関係を克服するためという面もあったのだろう。陽成は長命で醍醐・宇多の死よりも20年ほど後に死んだので、宇多は死ぬまで宗教に入れこむ理由があった。

 最初の熊野参詣は延喜7年(907/8)ということになっているがそのために神格の低かった熊野の神社が浮上することになったという。もっとも本宮新宮などという関係はそのころはなかったようだ。新宮市の方では新宮という名称はゴトビキ岩のある神倉神社に対するものであって本宮に対するものではないとか阿須賀神社に対するものという言説があるが、これは速玉大社に対する贔屓目だろう。むしろこれは富士山をまつった浅間神社の本宮新宮の関係に近いのではなかろうか。歴史が古く在来の神があった静岡の地に富士山の浅間神社をもってきて富士新宮としたように、在来の神があったところへ本宮の神をもってきて新宮とし、上書きしたのではないか。本宮の神は川の中州にあり、その実よくわからないとされるのは、神倉神社のゴトビキ岩信仰のように対称がはっきりしていないからだが、そういう抽象的なものの方が後からできたという筋はありえそうではある。10世紀は日本中で律令制が崩壊して地方の国府などの中には廃絶するところもでてきたということになっているが、むしろ古代からそれまで律令制下に適応して生きのこっていた豪族勢力がそのころようやく国家制度に組みこまれて在地性を失い、在来勢力が巣喰っていた国府が放棄されたというだけかもしれない。静岡で起こったような神格の上書きはそれに先行して起こったのかもしれない。延喜式はその記録なのかもしれない。

 全然関係ないが、富士山のあたりは熊野の新宮とおなじように徐福伝説をもっていたりする。

静岡浅間神社の稚児舞と廿日会祭

静岡浅間神社の稚児舞と廿日会祭

富士山文化――その信仰遺跡を歩く(祥伝社新書325)

富士山文化――その信仰遺跡を歩く(祥伝社新書325)

熊野を「こもりく」とか呼ぶこと

 熊野について「こもりく」とか隠国とか書いて死の国とかなんとか言う人たちがいる。まぁ四国を死国と書いて面白がるのと大差ないんだが、そういう意識はないようだ。そもそもそういうのが流行ったのは昔の話か。

 熊野が流行ってた当時でもそれに反発する声はあった。ここでひとつ紹介しよう。

へたに文字を使うことを知っていたり、なまじ文章が書けたり、私は小説家だと豪語する人たちの中に、奇妙な思い違いがある。
熊野を隠国(こもりく)だとか、根(ね)の国だとか書きたがる。
 (略)
 明るく暖かい大洋に向い、常緑の厚い歯がつやつやと陽に輝いている照葉樹林の山、遥かな山嶺でもなければ積雪をみることができない太陽の照り輝く熊野地方が、なんで"隠国" "根の国"であるものか
 熊野を"こもりく" だとか"根の国だとか表現して平気でいられる人は、熊野を頭の中でコネ廻して考えるだけで、熊野の山を、川を、海を、ことには熊野の人びとのくらしを自分の目で見、自分の耳で聞き、皮膚で感じる、それができないか、熊野そのものをヨウ見ずに文字の上での熊野ことばの上での熊野しかみとめる能力がない、生きながら死んだ感覚を持つにすぎない人である。

 さんでージャーナル 540号 昭和53年1月1日 「熊野は紀伊の一部ではない 熊野は伊勢の一部ではない 行政区劃越ゆるものを探る」
さんでージャーナル社(和歌山県新宮市)

 根の国とかいうのはまぁ日本書紀に書いてあったりするからしかたない面もあるが、そういうイメージを南国熊野にあてはめるのもまた辺境に対する蔑視であるにはちがいない。まぁ最果ての地に鬼が住むとか言ってた時代と意識的にはあんまり変わらないんだな。

 ちなみにこの文章の前段は市会議員の某が「熊野は海と山で成り立っていることが、熊野を離れてわかったよ」と言いだすところから書きだしている。二木島のあたりまで車を走らせて、山が海につっこんでいるように見えるところの先に集落がへばりついているのをみてそう実感したそうだ。自分は北の伊勢の方から熊野に入ってきたので、二木島のあたりの狭い道をくねくね走ったあと熊野市のあたりが一望できるところに出たとき急に長い砂浜が遠くまで続くのが見え、しかも強い風でその浜から砂埃が立っているのを見て、なんかすごいところに来たぞと思ったのは覚えている。まぁ土地の印象なんてのはそのときの偶然による程度のものかもしれない。

 新宮からはじまった(ことになっている)オークワの店舗はたいてい立体駐車場があり、その狭い通路をグネグネ登っていくのがなかなかおもしろいが、立体駐車場のいいところは日陰が多いということで、ただでも日差しの強い熊野を車中泊で観光していると、この日陰があるということが非常にありがたい、という実体験からもこの南国熊野という意見はなるほどまったくそうだと思ったものだ。

熊野詣 三山信仰と文化 (講談社学術文庫)

熊野詣 三山信仰と文化 (講談社学術文庫)

新宮の徐福と中華人民共和国

 今年は明治150年とかでいろいろイベントがあるが、50年前の昭和43年(1968)には明治100年を祝っていた。そのころお隣の中国は文化大革命(以下「文革」とも略す)のピークで、国中が大混乱に陥っていた。日本には明治百年に反発したり、文革に憧れたりした人たちがいたが、今から見れば明治百年と文革の対比が両国の当時の状態を表しているとも言え、明暗はっきりしていて非常におもしろい。まぁしかし中国はそういうことを思い切ってやったおかげで60年代の怒れる若者の世代のやったことを完全に切り捨てれる素地ができたが、日本の怒れる若者の世代は暴力で言い分を通す甘えた世代となって上の世代の成果をしゃぶり下の世代は搾りとり、自分のことしか考えず何も残そうとしないという状態になっているので、暴れたりしてた人間をそのまま何もなかったように社会に迎えて時代を大過なくのりきったつもりになっていたのがよかったのかどうか。人間万事塞翁が馬である。

 今の中国では文革について10年動乱という言い方もあり、1966年-1976年がその期間ということになっているが、終結についてはかなりあいまいで、1977年に失脚していた鄧小平が復活してから文革終結宣言を行っている。そして鄧小平は1978年訪日。以後天安門事件までは中国の対日感情はかなりよかった。

 さてここで頭のゆるい新宮の登場だが、そのまえに新宮の徐福伝説について触れておこう。秦の始皇帝のころ、方士徐福は不老長寿の薬を求めて山東半島から童男童女をひきつれ東方海中にある蓬莱山目指して船出し帰ってこなかったという話が史記にのっている。もっとも同じ史記のもうすこし歴史的に書いた部分では徐福は始皇帝を騙し、カネだけもらって出発しなかったてなことが書いてあるのだが、伝説に思いをよせる人は都合の悪いことには目を向けないものだ。まぁしかし日本人が中国に渡ったとき、おそらく史記にのっているというところが話のネタとして丁度よかったのだろう。なぜか徐福が日本に来たということがネタ的に言われるようになり、徐福渡来伝説の下地をつくった。新宮のある熊野というところはおもしろいところで、熊野三山の神は中国から王子信なるものがやってきた、と言っていた時代があった。まぁ箔がつくならどこから飛んで来ようがなんでもいいんだろう。そういういいかげんなところは昔からのようだが、それはさておき、徐福伝説もちゃっかりとりいれて、徐福が熊野に来たのだという話も当然のようにこしらえたようだ。

 後年紀州藩支藩新宮藩の水野家がそのことを真にうけて新宮の徐福の墓を整備した。碑も立てようとしたがこれはそのときはうまくいかなかったらしい。こういった江戸時代の整備の基礎の上に、明治の終わりのころからこれを再度整備する動きがあり、門楼などをこしらえて廟としたようだ。戦前の観光案内をみていると、どうも徐福二千年祭なんかやってたようだから観光資源としての活用もされていたようだ。青森のキリストの墓のように、あることになってるなら利用しようという程度のものだったのかもしれない。碑は皇紀2600年のときに記念に建てたようだ。

 江戸時代に中国から渡来した天台烏薬がいつからかはわからないがなぜか新宮では徐福が求めた霊薬だということになっているから無茶苦茶である。どうして中国の天台山の名前を冠している植物を求めて中国から人がやってくると思えるのかわからないのだが、そのあたり新宮人の頭は矛盾を感じない構造になっているようだ。

 戦後になり、衛挺生が香港で、徐福が日本に入って神武天皇になったという本を出した。その背景を説明すると、中華民国の国民党は日本との戦争には最終的に勝ちの形をつくって追いだせたものの、中国共産党によって政権の座を追われ台湾とその対岸のすこしだけを領土として残す事態となりそれなりの地位にいた人たちは香港や台湾あるいは国外などへ逃げることになった。衛挺生もその一人である。

衛挺生 - 維基百科,自由的百科全書

 Wikipediaをみると会計を主にやっていた人で、大陸を追われて1948には香港に逃げ、1949には台湾大学に来て徐福の研究をはじめたとある。もともと日本への留学生の出身なので日本語の本は読めたのだろう。となると新宮にある徐福廟の話なんかも読んだのだろう。そして1950年に香港で徐福=神武天皇という本を出したのである。

 そういう本を出して誰が得をするのかよくわからないが、当時の中国の状況としては、日本に勝ったというものの、国際政治でアメリカを味方につけて主にアメリカの武力をつかって勝ったようなものだから中国からしたら勝った実感がない。その上中国本土は共産党に取られて追いだされてしまった。せめてその昔日本を占領したことにして気分を晴らそうというのか。それからもっと大きい要因は年齢だろう。1890年生まれなので60歳定年なら定年である。ほぼ退職した気分になって畑違いの古代史に手を出して、さっそくトンデモ本を出したとなると、これは今でもよくある事になる。熊野に上陸した徐福を熊野に上陸した神武に重ねるというアイデアだが、そのときは話題になったそうだ。

 ちなみに1940年代にも中国で徐福が日本に来たことに触れた人達がいるがまぁ反応としては「バカじゃねーの」というところである。おそらく1941年(昭和16)に汪兆銘政権の駐日大使が新宮の徐福廟を訪問したことへの反応だろう。歴史を現代の政治の場面で使うというのは中国ではよくある形式なので、徐福=神武説も単なるトンデモでもなく、そういう政治的意見表明のひとつだったのかもしれない。

 ところが日本で安藤広太郎の研究などで江南の稲が直接日本に渡ったということになったのが徐福=神武説のオジさんたちに真実味を与えたらしい。さらに70年代には台湾で彭双松が徐福=神武論の本を出している。ここで重要な点を言っておくと、中国方面で徐福=神武の論が盛り上がったとは言ってもそれはすべて台湾や香港でそういう本が出たというだけの話である。新宮にある徐福の墓にも度々中国人が来ていたが、それはみな日本で商売している華僑や台湾・香港の人だった。そして、この文章で主題にしようとしている共産党治下の中華人民共和国では最初に書いたような政治の嵐が吹き荒れていてそんなキワモノに手を出す人はいなかった。

 そして1978年(昭和53)文革終了直後の中国から鄧小平が日本にやってきたときのこと。鄧小平は「日本へ不老不死の薬を取りにきた」という冗談を言ったらしい。その意味するところは大躍進や文革などの政治的失敗で何十年も空費して時代に遅れを取ってしまったのでこれから追いつくために日本のこと勉強しに来ましたというくらいのところなんだろうが、徐福伝説のある新宮市ではそういうふうには受けとらなかったようだ。当時の新宮市長は熊野浮上を唱える瀬古潔市長で、その発言を受けて新宮にある「霊薬」の天台烏薬を鄧小平に献上したそうだ。ここに当時まさに主要産業の木材が流れてこなくなって落ち目の新宮と、文革など政治に熱中して時代から落伍してしまった中華人民共和国の徐福を通じた交流が始まるのである。

 その後1980年代には趙紫陽なんかもわざわざ天台烏薬を求めて来た他、大学による徐福研究が始まった。さらに徐福村なんてのまで発見され、徐福の子孫であると喧伝された。中国からすれば、日本との関係をよくできるものならなんでもよかったんだろう。新宮市はそれにいちいち反応し、天台烏薬の苗を渡したり、徐福村へ訪問するなどの交流を深めていくのである。こういったものが中国の国を挙げての運動であることは否めない。数年前までは孔子を批判せよ、水滸伝を批判せよといわれればそういう論文・連環画・文書などが運動として中国全土で大量に生産されて対象を吊るし上げにしていたのであるから、徐福が日本に渡ったなんてテーマに沿って文章を作るなんてのは本当に罪のないお遊びみたいなものだ。まぁしかしその『徐福研究』誌をみていると、中国側の案外冷静な文章にまじって日本側の電波たっぷりのキチガイ文章が翻訳されて混っていてなかなか壮観ではある。そもそもネタなんてほぼないようなものだからか、その雑誌では富士文書まで紹介されていた。

 ところで新宮駅に電車で到着して駅を出るとすぐ目につくところにあるのが徐福公園である。戦前の徐福廟は門楼や塀など作ったものが台風でコケてそのままになっていた。瀬古市長の前の谷市長のときに再建について議論されたが、地方自治体が宗教施設である「廟」を再建するのはよろしくないということになり、観光施設をつくろうということで話は止まっていたらしい。今現在豪華な中国式の華表とでもいうようなゴテゴテの門がたっているが、あれはふるさと創生資金の一部をもちいて整備に着手したものだ。前に記事にした高田グリーンランドの中にある雲取温泉の掘削着手にはふるさと創生資金一億のうち一千万をわたしたが、この徐福公園には五千万つかったそうだ。新宮市部落解放同盟関係者が出している一枚ものの「新聞」ではこの公園のことが高い高いと散々非難されている。それによると、中にある便所は日本一高い便所らしい。華表ももっと簡単にできると書きたててある。まぁどこまで信じていいのか微妙なものもあるが、バブルの時に作ったものが維持管理にカネのかかる箱物ではなくて公園の記念物なのだから、そういう点では新宮市は案外堅実なのかもしれない。しかし新宮市は同和事業で隣保館を七つ作ったり必要なのかどうかよくわからない新宮港第二期工事なんか始めたりしているのでカネがキツキツのなかでやりくりしたのがそれだけということなんだろう。

 ということでまとめると、今でも中国側と新宮との間での徐福を通じた交流は続いているようだが、ここまで根も葉もない話で盛りあがったのは中国側の事情があったということである。

徐福伝説を探る―日中合同シンポジウム

徐福伝説を探る―日中合同シンポジウム

神武天皇=徐福伝説の謎 (1977年)

神武天皇=徐福伝説の謎 (1977年)

 徐福二千年祭について

 以下の後藤朝太郎の本に昭和四年に行われたと書いてある

 国立国会図書館デジタルコレクション - 不老長生の秘訣 : 支那五千年の実証

 国立国会図書館デジタルコレクション - 支那長生秘術

大背美流れの「背美の子連れは夢にも見るな」の解釈

 明治11年(1878)の年末、太地の鯨取りたちが鯨漁に失敗して100名以上の被害者を出した事件がある。これを「大背美流れ」と言う。欧米諸国の遠洋捕鯨のために不振だった太地の近海捕鯨に大打撃を与え以後壊滅状態になったとされる。

 さて太地町のサイトのなかに大背美流れについて書いたページがあるが、こんな風に書かれている。

しかし、発見した鯨は、未だ嘗て見たこともない大きな子連れの背美鯨で、そのような巨鯨は当時の技術ではしとめるのは難しく、昔から「背美の子連れは夢にも見るな。」といわれるほど気性が荒々しく危険であるといわれていた

太地町の歴史と文化を探る : 大背美流れ(おおせみながれ

 この「背美の子連れは夢にも見るな」の掟を破ったために大惨事を起こしたという記述は捕鯨を説明する一般書に広く見られる。ググったところでは内田康夫の小説『鯨の哭く海』にもでてくるらしい。まぁちょっと前に反捕鯨が盛んだったが、そのころいろいろ調べたつもりの人もそんなに深く調べたりせず適当な一般書に書いてあることを鵜呑みにして拡散したりしているということだろう。しかしこの解釈は間違っていることが既に明らかにされている。たとえばネットでは以下のように書いたサイトもある。

その時の事故のことを「背美の子持ちは夢にも見るな」という格言として残っていて、これを、背美鯨の母子の場合には捕鯨を行わないというこの「戒め」を無視して捕鯨を行ったため、事故が起こるべくして起こったといった迷信めいた一部の解釈がありますが、

太地角右衛門と熊野捕鯨 | 背美鯨捕鯨絵図

 とし、古式捕鯨では子連れの鯨は子供を先に捕ると親が離れようとしないので親も捕りやすいということでむしろ好まれていたとし、「背美の子連れは夢にも見るな」というのは「大背美流れ」事件のことを指したものだと書いている。

 このサイトをたちあげているのが太地亮氏で、実は『熊野誌』にたびたび太地の捕鯨について投稿していてなかなか参考になる。『熊野誌』については程度の低い郷土史家の投稿が多いと再三書いているが、もちろん玉石混交というだけの意味であって、昔は光る玉も多かったのである。最近は玉も石も数自体が減っていて縮小する地方を体現している。

 それはともかく、太地亮氏の論考でこの件について参考になるのは太地亮「太地角右衛門と熊野捕鯨」『熊野誌』33号、昭和62年12月(1987) である。上記サイトは断片的な紹介になっていてよくわからない面もあるが、これを見ればだいたいわかる。実はもう新宮を離れているが、新宮市立図書館に通っていた間に抜き書きしたものを参考にして紹介する。

 この論考では背美の親子の格言が出現したのは 太地五郎作『熊野太地捕鯨乃話』昭和12年(1937)らしい。太地五郎作は背美流れのときの関係者の四男で、親の和田金右衛門は太地角右衛門(太地覚吾)にこの鯨をあきらめるよう進言したが、角右衛門が強行したのでこうなったという話にしている。それがまた戦後『熊野太地浦 捕鯨の談』として流布されたということだ。国会図書館で検索してみても、基礎資料扱いをされているようで日本民俗文化資料集成などにも入れられている。

 しかしその当の和田金右衛門自身の日記によると実に淡々と経緯を記録しており、意見が対立したなどということは書いてないのだ。そして論考では日本海側の捕鯨について聞き取り調査した人の記録を引いてこの文章の前の方で書いたように子連れは一度で二度おいしい獲物つまり、寧ろよい獲物であったことを紹介している。たとえば今普通に国会図書館デジタルコレクションで検索してみてもこんなのがでてくる。

お背美子持を突置いて、背美の子持を突置いて、春は參ろぞ伊勢樣へ、きぬた踊は面白や、猶もきぬたは面白や

太地網方梶取掛よ、月に子持を二十五持、子持を月に、月に子持を二十五持

国立国会図書館デジタルコレクション - 紀州

 ここからわかるのは子持は儲かるということだ。昭和10年捕鯨のことをまとめた資料で昔のこんな俗謡を普通に紹介しているので子連れの背美はタブーだったというのは背美流れ以後とかではなくそもそもそんな話はなかったということなんだろう。西洋から導入した遠洋捕鯨が一般化して、古式の近海捕鯨のことが記憶から薄れたころに、太地五郎作による背美流れについての偽史が登場し、他に適当な資料もなかったためにそのまま世間に受けいれられてしまったというところなんだろう。そして太地亮による論考も、『熊野誌』という新宮発のローカル雑誌だったために捕鯨関係者の目に届かなかったというところだろうか。

 ではなぜ太地五郎作のような偽史が登場したかだが、おそらく古式捕鯨の凋落の原因がよくわからない人たちがいたからなんだろう。それは単に欧米の遠洋捕鯨がむちゃくちゃ捕ったせいで日本近海に来ていた鯨がこなくなっただけであり、構造的な問題である。まぁしかし今でも政治の動きを全て政局で理解しようとする人たちがいるように、その狭い視野の中で理解しようとする人達がいて、古式捕鯨の凋落は背美流れで壊滅したから、そしてそれは太地覚吾が下手うったからだということにしたかったんだろうか。太地角右衛門(覚吾)は背美流れのあと、さらに太地にあった昔からの灯台を近代的な灯台にしたのだが、それは政府が認めた正式な灯台ではなく私設灯台だったためいろいろと苦労したらしい。しかもそれで借財を背負ってしまい、金策のために新宮に来ているうちに客死してしまう。そういった太地家の凋落の理由もよくわかっていない人たちが関係者が多くみなが知っていた背美流れに全ての原因を求めたというところか。太地五郎作はその事件の責任者の一人の子であるだけに責任から逃げるためにそういう話をつくった、もしくはそういう話があったと思いこんでいたのかもしれない。記憶なんてのはごく最近のことでも簡単に都合よく再造されるものだ。

鯨の哭く海 (角川文庫)

鯨の哭く海 (角川文庫)