メモ@inudaisho

君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

調査を続けて遂に火元に到達した模様

 さて、あちこち図書館に行って調べたりしているのだが、京都の北の丹波地方に流布している江戸~明治期に作られた偽文書の中でどうも無駄に「野尻」家が持ち上げられている節があり、おかしいなとおもって興味本位で調べていたのがはじめである。ところが、すぐにそれが興味本位どころでないことがわかった。実際に誰かがうちの蔵に忍びこんで系図類を盗み出していたのだ。幾多の偽文書に埋もれてそのうち消滅するとおもっていたものが生きているのか? この幻想は粉砕しないとやばいことになると思って本腰を入れて調べだしたのである。

 それと前後していわゆる「山国荘調査団」とかいう連中が「おれたちはすごいことを研究している」という空気で飯を食っているのを知ってそれも腹立たしかった。学匪滅ぶべし。 こいつらが山国はお宝の山だぞと吹聴しているのが助長しているのだろうとそのころは思っていたのだが、数日前に違う切り口から意外な記述が出てきたのがきっかけで、学匪よりももっとやばい連中が、今調べている偽文書系伝承に彼らの方面からアプローチしていることがわかった。しかもすこしづつ発表しだしているようだ。これはやばい。連中の分野の事はともかく、そのおまけについている伝承がやばい。こっちの調査である程度偽物であることがわかっているものを、たぶんそこまで到達せずに鵜呑みにして流布されると本当に困る。

 どうしてやばいかというと、まず、おもしろく世間受けするものだからだ。そして真にうけるバカがたくさんいる分野だからだ。世間向けにアピールする山国荘調査団に加えてそれ。そういうわけで、今必死にその火元と連絡しようとしてるんだが返事がない。やばいのでなんとかしたい。

偽文書・由緒書の世界

偽文書・由緒書の世界

論文って素人でも投稿できるらしい(受けいれられるとは書いていない)

 ちょっとある人にメールで相談してみたら、何もない素人でも投稿できる日本史の雑誌を教えてもらった。なんだ。少なくとも日本史の専門出てないと投稿できないと思いこんでた。

 日本史研究・日本歴史・歴史学研究・史学雑誌 らしい。なんだ。史学雑誌もオープンなのか。調べてみたらたしかに「開かれた学会」とか書いてある。京都だからということで日本史研究をお勧めされたのだが、今まで坂田吉岡にいろいろ因縁つけてるからどうなんだろう。蹴り出されるだけかもな。とはいっても、こんなブログでいちいち小さい事に怒って一人で勝手なこと書いてても何の意味もないので、きちんと調べて他人の評価を受けるのもいいかもしれん。

 投稿規定をみていると著作権についていろいろ書いてある。

雑誌 著作権の扱い
史学雑誌 著作権は史学会
日本史研究 不明。転載は二年待て。許可必要
歴史学研究 著作権譲渡のお願い (著者による利用は妨げない)
日本歴史(吉川弘文館) 著作権の一部(複製権・公衆送信権)は日本歴史学会。転載は一年待て。許可必要

 なるほど。著作権を渡してしまうというのは、電子化したものを公開するときに面倒がないからということらしい。たしかに。どんどん公開してくれるんなら学会のものにした方がよいのはよい。

 しかし日本史研究と歴史学研究って共産党臭がするがどうなんだろう。好事家なら出しそうにもないうざい声明文とか出してる。まぁ日本史研究の方はまだ微温にみえるが会員のほとんどは関係なくても中枢部が汚染されてるかも。好事家だから得体の知れない活動家とは関わりたくないんだよな。趣味範囲広いので史学雑誌はよさそうだがこっちは競争が激しそうだ。うーむ。まぁそもそも出せるようなものができるかもわからないからそれから考えるか。

新版 論文の教室 レポートから卒論まで (NHKブックス)

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山国隊と地下官人

山国隊の結成動機

 こないだ吉岡拓の講演を聞いてきたことは書いたが、考証自体は正しいものの、彼は勤王で説明することに汲々として、なぜ山国の人が山国隊のようなものを結成することになったのかについては、常照寺の守戸が帯刀身分なので山国の人よりも上に立ったから、みたいな従来の説明しかしていない。そして新史料が出たらなにかわかると言っている。しかし既刊資料だけでも今まで重視されていない事を掘り出すことで新しく動機を探ることは可能だ。それをここで示しておこうとおもう。

水口家は地下官人家

 山国隊の中心人物の一人、水口市之進は地下官人である。地下官人とは朝廷に仕えた下級の廷臣で公家の一種になるが、また一方で江戸中期からの朝廷の拡大にともなって員数を増やしていった。そして身分上昇を目指す京都周辺の商家農家などの間で株として売買されるような面もあった。水口家はその地下官人の中で主に警備系の職である近衛府官人(天保5年までは「御随身」)をもらっていた。

 この事は今までの山国の研究では示されていないことだが、たとえば『丹波国山国荘史料』1966 に水口家の系図が最後まで載せられているように、材料は既にある。そして、地下官人の中に水口家がたくさんあることも知られており、どうも山国と関係あるらしい、あるいは助武名の水口家か、と考察したものもあるが、山国と朝廷が関係深い事の理由の一つとして使われるに留まり、あまり深く追求されることもなかった。そもそも地下官人の研究が進んでいないのであまり注目されていなかった。ちなみに地下官人家の中に水口家はたくさんあるが、そのほとんどは山国の水口市之進の家とは系統を異にしている。だから戦国期に存在し、その後消滅した「助武名の水口」はその水口家か、という推測があるわけだ。

『地下家伝』の整理

 『地下家伝』(天保年間に作られ幕末まで補訂された地下官人の系譜集)にたくさんある身人部の水口家の系譜を整理してみると、元禄三年に死んだ清定という人の子孫が多い(清信の系統は清定の二男と推定)。みな本家分家に分かれて地下官人として官位と職をもらっているのだが、『地下家伝』に一つ別系統の身人部水口家がある。それが義秀-義和-義寧と続く家だ。

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『地下家伝 巻14-20』日本古典文学全集刊行会 1938、pp849-850

 この義和がすなわち水口市之進で、そのことは『丹波国山国荘史料』1958 の水口家系図の中にもよく見れば書いてある。

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丹波国山国荘史料』1958、水口家系図より

 そして水口家系図の中で最後に別として追記してある系譜があるが、これが地下官人としての水口家の系譜になる。

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水口家系図の末尾に追加されている系譜

 誰が地下官人家としての役目を果したかがこの系譜に書かれている。『地下家伝』は家別に名前を並べているものであるが、これは役目を果していた人を順に並べているのであって親子兄弟養子かは別に書いてある。それと同じような役目の系列を系図の形にして、系図の最後に追加したものだ。

水口家は士族になっている

 この系譜をみればわかるが、地下官人家としての水口家は明治3年に士族になっている。これはなぜかといえば、朝廷に仕えていた地下官人家だからだ。明治にすぐ士族になれたのは、旧武士と朝廷に仕えていた地下官人の家、寺社の使用人の中で華族になっていないものだった。明治期に士族編入運動が盛んだったのは、その周辺の人(たとえば使用人の範囲は曖昧)で士族になれなかった人がいたからだが、また他に、たとえば郷士などは帯刀を許されてたのに平民にされたというので士族編入の運動をおこし、そこで普通に由緒を偽造することが行なわれたのである。

 ここで由緒であるが、江戸時代には公に由緒の提出を要求されることが普通にあり、場合によってそこで粉飾することがどうも普通に行なわれていたようだ。それは武士だけではなく、地下官人家もそうで、水口家の系図などがやたら飾られているのもそのためではないかと推測している。上で出した系譜の中の細部もどこまで信用していいのかわからない。結局それが山国の歴史に逆流しているようだがここはまだ調べている最中なのであまり詳しく書かない。

 ちなみに山国水口家の初代の地下官人は義秀であるが、そのまえに義秀の子が地下官人家の村雲家の養子に入って明治まで続いており、こっちも士族になっている。山国の水口家は水口市之進に子がなかったためだろう、養子が地下官人を継いでいる。

山国と地下官人

 地下官人の研究者である西村慎太郎『近世朝廷社会と地下官人』2008 の中に山国の藤野家(つまり山国隊隊長藤野斎の家) が出てくる。藤野家より野洲(滋賀県)の青木家に嫁入りした人がいたが、その孫青木図書が地下官人家に養子入りするということを扱っている。その中で青木図書が家の都合で野洲出身の水口清枝を頼る。水口清枝もここで書くところの京都の水口家の地下官人の一人であるが稼業は医者である。やがて青木図書は医業をひきつぐのだが、本来の水口清枝の子である清萃は跡をつがずに、山国の「藤野家」へ行ったという。このころは既に山国の水口家が地下官人だったのだが、他にも実際に地下官人が何をするのか見てきた者が山国には来ていたのである。

 また、京都の水口家の存在だが、小畠家に伝わる「古家撰伝集覚書」(仲村研翻字1965)によると、小畠伊織が貞享元年京へ行ったとき、地下官人である「随身」に水口氏が三人おり、山国は生国であると伝えたそうで、江戸時代の前期には既に山国出身者が地下官人の職についていることは知られていたことになる。

山国隊と地下官人

 さて山国隊については吉岡拓がご執心なのでこれからまた新しい事が掘りおこされていくとおもわれるが、その前段階において、水口市之進とその関係者が重要な役割を果たしていたことはまちがいない。たとえば山国隊の直前の慶應三年にその中心者四人が官位拝領運動をやったときも水口市之進が口利きをやっている。このとき水口市之進は地下官人の役目からは引退していたのだが、地下官人のコネをフルにつかって運動したわけだ。

 今まで山国隊は単純な「農民隊」というふうにとらえられていたが、そもそも引退した地下官人がその中心にいたとなるとまた話が違ってくる。「勤王」だけで説明したがる人の多い山国隊だが、農民隊とするからそうなるので、これはむしろ宮間純一の研究にある吉田本所の神威隊などに性質が近いのではないか。結局山国は朝廷との関係が近すぎるので、「勤王」のような空虚な言葉だけではない何らかの関係性があるのは当然のことであり、それがこれでひとつ明らかになっただけである。

 ここで重要なのは「随身」というキーワードだ。京都で地下官人をしていたたくさんの水口家も、山国で地下官人になった水口家も近衛府官人つまり御随身であった。先日吉岡拓の講演の中で使われた河原林小源太(安左衛門)の書状の中に「随身」という文句がでてくるが、つまり当初は地位向上の手段の一つとして地下官人になることを目指していたのだ。結局西軍と東軍に分かれてしまうのも、その目的を御所の警備という形で直接果たそうとするか鳥取藩の下に入ってでも武功を挙げようとするかの違いだろう。

 また、山国の士族編入運動についても、そもそも水口家だけ、しかも養子の系統が士族になったという事実をみればどうして士族編入運動にこだわったのかについて違う見方が出てくるはずだ。

 とはいえ、吉岡拓は道具として山国をつかってるだけだから道具がどうなろうと知ったことではないんだろうな。一将功成りて万骨枯るというやつだ。

 これが、たとえばいくつもある地域を横断的にとらえて「勤王」の実態をさぐるという研究ならそういう距離感でもわかるのだが、山国ばかりいじくりまわしてるくせにそういう粗雑な話でやろうとするのでなんか腹立つわけだ。

近世朝廷社会と地下官人

近世朝廷社会と地下官人

「杣」字の由来

国字「杣」字の由来

 杣「そま」は中国にはない漢字で日本で作られたものだという。ではいつごろか。奈文研の木簡庫で検索すると、例の長屋王邸跡の木簡の中に「丹波杣」と書かれたものが二点ある。

mokkanko.nabunken.go.jp

mokkanko.nabunken.go.jp

 まぁつまり8世紀初(奈良時代)の平城京では使われていたことになる。ところが平安時代にはそれとは異なる由来が語られていた。

算師 山田福吉の造字説

 倭名類聚抄の「杣」字の項目には『功程式』に甲賀杣・田上杣という用例があると紹介し、その『功程式』は弘仁14年に修理算師山田福吉が進上したものだとある。ところがたぶん初出だからということで「杣」字と山田福吉が結びつけられ、杣は山田福吉が造字したとしてその後字書の類で紹介されるようになった。たとえばこういう例がある。

 例が少ないとついつい結びつけたくなってしまうというところか。

(反応)

ということらしい。

修理職 算師 山田福吉

 ではこの山田福吉とは何者か。まぁ最初に書いておくとよくわからないんですが、まずこの「算師」について。奈良時代から日本には唐にならった大学の制度があり、そこで算学が教えられ、算学で卒業する人がいた。この人達がどうなったかというと、まぁ下級官吏 ( 国家公務員 ) になるのだが、算学専門ではなく普通に一般職についていたようだ。というのも今記録に残っている限りではその専門職であるところの「算師」の定員がそんなになかったからだ。その数少ない「算師」は何をしていたかというと、専門職としては国家会計の職があり、臨時の職としては荘園絵図の検算をしていた。特にこの検算は重要で、算師の署名がないと通らなかったらしい。まぁものすごく乱暴にいえば、そのころの算師はコンピュータの役目をしていたのだろう。

 その数すくない専門職としての算師が「修理職」に設置されたのが弘仁十三年(822)という記録が残っている。

(嵯峨天皇 弘仁)十三年七月辛卯 修理職置算師一員
類聚国史』巻百七 職官十二

(参考: 大隅亜希子「算師と八世紀の官人社会」栄原永遠男編『日本古代の王権と社会』塙書房、2010)

 ところで`『類聚国史』のその条の前には弘仁十年のこととして、修理職から上奏された労働条件改善の内容が詳しく書かれている。おおまかに訳すと、令ではこうあるのに木工寮はこんなに働かせていてひどすぎるので、このように決めてちゃんと休めるようにしてほしい、という感じである。ちなみにどれくらいひどいかというと例えば日数では年間330日から350日働かねばならなかったらしい。それを250-300日にしようとしている。木工寮がいきなりでてくるのだが、『類聚国史』では修理職はその年の前年に設置されたことになっているので、修理職は木工寮の前例を踏まないということを書いているんだろう。そうみるとこの算師が設置されたのも内部での計算をきっちりするということかもしれないし、弘仁十四年に作られたという『功程式』も、労働条件を規定したものだろうと推測できる。「杣」字はその中で出てくるのだから、このとき修理職が管理していたもので有名なのが甲賀杣・田上杣ということなんだろう。

まとめ

 ということで、杣字の由来についてはわからないが、杣字を作ったということになっていた山田福吉について調べてみた。まとめると

  • 「杣」字は奈良時代には使われていた。

  • 山田福吉は修理職の労働条件改善の具体的な規則をまとめた人である。

  • その後その規則の中に「杣」があるのが「杣」字の初出として扱われ、山田福吉が「杣」字を作ったことになった。

  • 「杣」字の由来は今のところわからない

(この記事は twitter の 拾萬字鏡@JUMANJIKYO さんのツイートをみて知り、興味をもって調べたものです)

国史大系 類聚国史 前篇 (新訂増補 新装版)

国史大系 類聚国史 前篇 (新訂増補 新装版)

VRディスプレイがほしい

ノートパソコンの画面は狭いし疲れる

 今はノートパソコンをつかっているが、ノートパソコンの画面は狭い。どんなに大きくても17インチ程度しかない。それに目に合わせると姿勢がどうしても悪くなって体が疲れる。40を越してから、パソコンをつかった仕事に熱中すると、一ヶ月くらいで目が痛くなってくるようになった。もうダメだ。パソコンでハードワークする年じゃない。

 (姿勢の問題は電子ペーパーでは解決できない)

VRディスプレイがほしい

 そこで最近よく想像するのが、VRディスプレイだ。ARでもMRでも何でもいいんだが、被るメガネにパソコンの画面を投影して、目の全視野をつかって情報を置けるようにできればいろいろとはかどりそう。右上の方に資料を積んでおき、左上に工具書や検索ウィンドウを置き、資料を何冊も広げながら調べたりまとめたりといった作業を目の前でやる。打鍵はキーボードでいい。ノートパソコンの外部ディスプレイとしてその仮想空間メガネを使えたらよさそう。それがいいのはとにかく姿勢に負担がかからないのがいい。

 で、結論を言うと、今主流のVRバイスである Oculus や vive にもそういうソフトをいれるとパソコンのウィンドウを表示できるらしい。だが精細さには欠けるので文字情報を扱うには向いていないと。とりあえず、見てみんとわからんな。ということで、9月あちこち移動してるときについでにそういうのも見た。

Epson Moverio

 まずはこれ。Epson の Moverio。スマートグラスという名前で、細メガネの中にディスプレイがしこんであるのでARみたいなこともできそう。

 で、体験できるところを探すとepsonのサイトにはヨドバシやビックカメラで体験できると書いてあったのだが、そのとき東京にいたので秋葉原のヨドバシに行くと体験できるようなものはなかった。ビックカメラにはあった。

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秋葉原ビックカメラの片隅にひっそりとあった epson Moverio の展示

 というわけで早速つけてみた。見え方としてはちょっと離してみるノートパソコンという風情。どこか小さく感じる。予想よりはよくみえたのだが、メガネの具合が難しい。それから視力の左右の釣り合いがとれていないのだが、それはそのままで、悪い右目の方はボケてみえた。スマホに接続させてみようとしたけど、それもできず。.ネットにつながってないのでいろいろアプリなど入っていたけどあまり体験できるコンテンツがない。とりあえず視野全部つかってPDFを敷きつめたいみたいなことには対応できない事がわかった。外見優先で細メガネにしたんだろうけど、細メガネに仕込んだディスプレイを安定して見させるのはかなり難しいのではなかろうか。

 まぁ自分のやりたいことには対応していないことがわかった。

VR Studio (京都の地下鉄醍醐駅直結 パセオダイゴローにあるVR施設)

 京都の地下鉄醍醐駅に直結しているパセオダイゴローという複合商業施設があるが、その広いフロアを占有して VR Studio というVR体験施設がある。どういう主体が運営しているのかはわからんが、VRコンテンツを一回500円で手軽に体験できる有り難い施設だ。

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VR Studio にあるシューティングゲーム

 こういうのが6種類くらい並べてある。ということで試しに体験してみた。機器は htc vive 。

 よくわからずどまんなかにあるシューティングゲームをやってみたのだがこれがなかなかすごかった。特にこのイス。シューティングゲームなので自分が飛んで行って敵機を打つのだが、この椅子にどんな仕掛けがしてあるのかわからんが、浮遊感がすごい。まぁアクセルブレーキもないお仕着せのコースで浮遊していくだけで、敵の攻撃を受けても死なないのでそこはゲーム性に乏しいのだが、ゲームが下手な人間でもとりあえず飛んだ感じは楽しめるようになっている。ちなみにSS S A B C の五段階のBということだった。午後行ったら同時に定年後のじいさんみたいなのが来て別のVRをやってたが、そっちはゲームよりも体験がメインらしい。さすがゲームだけあって、中にはしょっちゅう来てやりこんでいる人もいるらしい。

 というわけで、ついつい施設のことばかり書いてしまったが、肝心のVRはというと、これが思っていたよりも没入感があってよかった。自分の要求する「パソコンの画面をVRに出す」ということも簡単にできそうだった。ただこれはゲームのように動きのあるコンテンツはそんなに精細さが要求されないからなので、やはりこれで細かい字を表現するのはかなり無理がある。

ゲームには十分でも文字仕事にはまだまだこれからか

 VRの技術も発展途上で、ディスプレイの精細さもこれからもっと向上するとはおもうがそれ次第だろう。VRディスプレイで文字仕事するにはもう一息かな。Microsoft がこれから出す hololens2 とかどんなもんか見てみたい。