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成果の少ない科研費研究のごまかし方

2012-2015年度の坂田聡科研費研究

 2012-2015年度の中央大学教授坂田聡科研費研究は「16~19世紀大堰川上・中流域地域社会の構造と変容に関する研究」というものだ。

kaken.nii.ac.jp

 概要には

本研究においては、京都府大堰川上・中流地域、具体的には丹波山城国境の広河原(京都市左京区)から黒田・山国・周山(以上京都市右京区)、日吉・園部・八木(以上南丹市)、さらには亀岡市域にかけての広域的な地域をフィールドにとり、16世紀~19世紀という長いスパンで通時代的な考察を試みることによって、当該地域社会の内部における個別の村どうしの関係の実態及びその変容、当該地域社会の内部における個々の村々の共通点と差異及びその変容、個々の村のレベルを超えた当該地域社会全体の構造的つながりの実態及びその変容―という諸問題の解明を目指す。そして、時代ごとに分断されている地域社会論の統一的な把握を試みる。

 とあり、案外おもしろそうである。実際に実現できてるなら。 坂田聡は空疎な作文の分野では一流なので、これもその類であろう。実際には彼自身はこの科研費で何の成果もあげれていない。「研究成果報告書」をみればわかる。

https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-24320130/24320130seika.pdf

2011-2015 は高校の校長をやっていた

 成果を挙げれていないときめつけているが、その原因ははっきりしている。2011年から2015年にかけて高校の校長を兼務していたのだ。

ir.c.chuo-u.ac.jp

 ここにある通り、中央大学杉並高等学校長を 2011/04から2015/03にかけて兼務している。中央大学はどうか知らないが、最近の大学の教授は雑務に追われて研究の時間がとりづらいのが普通と聞く。なぜわざわざ高校の校長を兼務したのだろうか。そしてなぜ兼務した上で科研費研究の代表になってるのだろうか。科研費はチョロいということかな? 金を握る事即ち権力を握ることなので手放せないということかな? そのへんはちょっと調べてわかるものではないのでさておき、成果がたいして挙がらなかった場合どうごまかすのかを中央大学教授坂田聡の手口から学んでいこう。

ごまかし方

1. 他の科研費の成果で水増し

 成果の中に図書として坂田聡・吉岡拓『民衆と天皇』2014 がある。これは前にも紹介、というか一連のエントリの発端のようなものだが、吉岡拓はこのために別の科研費をとっている。

kaken.nii.ac.jp

 そもそもこの『民衆と天皇』は吉岡担当の近代部分を除けば『禁裏領山国荘』2009 の個々の研究を適当に要約したようなものなので、過去の科研費研究の成果の還元の一部なわけだ。前に指摘したようにそれぞれの範囲外のことについては非常に雑なので、吉岡自身が勉強もかねて適当に要約しても大して変わらないとおもわれるがどうしてそうしなかったのかわからん。(吉岡の事務能力は高いので吉岡に要約作らせた方がいいものできそう。史家としては何でも天皇に短絡的に繋げるのでアレだが)

2. 過去の資産を流用

 継続してやっていることなので、過去の調査の成果を今回の調査の成果にしてしまうというのは簡単にできる。たとえば過去の調査で作った文書目録を今回の成果と偽っている。1 で例にあげたのもこの資産流用だが、他にも過去の調査で得た文書を子分に翻刻させて中央大学の雑誌にのせている。この坂田聡の「山国荘調査団」の成果の還元のやりかたはひどく、初期の調査対象だった黒田村の古文書はマイクロフィルムを当時の京都府立総合資料館に寄贈し公開をまかせることを「成果の還元」と吹聴した。『丹波国黒田村史料』や自治体が出している地方誌のように翻刻して出版してくれたらありがたいのだがそういうことはちっともしない。たぶん自分が『丹波国山国荘史料』や『丹波国黒田村史料』を駆使して成果を出したので、軽々しく人に渡して成果を出させるわけにはいかないということだろうね。今回のように成果が出にくい時に保険としてちょっとづつ出していくわけだ。

 ちなみに吉岡のように他で科研費とってこの科研費研究に参加している東大史料編纂所の人は静岡の古書店に出た丹波の大谷村の文書の研究をしたのだが、2014年には翻刻したものを出してるしそれを他の科研費研究の成果として重複させたりしていない。やっぱりできる研究者は手が綺麗だね。わざわざ偽装する必要がないということだろう。

3. 正直に書いて次に期待をもたせる

 1、2の方法で成果を水増ししても、核心部はごまかしづらい。ということでそこは正直に書く。

個別の研究テーマに関する研究が当初の予定通りにほぼ進展したのに対し、それを総合して、大堰川上・中流における個々の村々の共通点と差異、及びその歴史的変容、当該地域社会全体の構造的なつながりの実態、及びその歴史的な変容を解明するという、本研究のセールスポイントに関しては、最終年度(平成27年度)に一定の見通しを提示したものの、残念ながら十分には解明しきれなかった。

 どう見ても大風呂敷だよね。見通し甘いんじゃないの?と、言われそうな文章だが、これに続けてこう書いてごまかす。

この残された課題に関しては、現時点においても研究を継続中であり、最終的には、現在、刊行に向けての準備を進めている、本研究の成果をとりまとめた論集(『地域社会の構造と変容』高志書院)において、明確な結論を出す予定である。

 他の科研費をみても、出版予定と書くところはある。準備を進めていると書いているからそのうち出るんだろうと思うのが普通だ。ところが2019年の今になっても出ていない。国会図書館で検索すると1995年前後にそういうタイトルの本が中央大学から出ている。またそのころ中世日本史の分野でそのタイトルで議論がされたことがわかるので、大雑把な研究目標にあう大雑把な題目をつけてごまかしただけということになる。中央大学の定年まであと数年なので、バレても怖くないというところかもしれない。

4. 実績報告では予定と過去の実績を混ぜる

 毎年の実績報告をみると毎年何をやっていたのかわかる。どうも年に二回だけ京都まで出張して調査するというスタイルらしいんだが、たとえば亀岡班は何をやっていたのかよくわからない。2012年度の研究概要では亀岡班をつくったとあるが、達成度のところでは、「本格的な調査を実施できる段階に至っていない」と書いてある。どっちやねん。亀岡についての言及は2014年度の実績報告で消える。2014年度からはどの地域という言及がなくなり分野で班が記述される。

 また河原林家文書と江口家文書が何度も出てくるが、これは同志社人文研がもっていたもので、河原林家文書は目録も作られており人文研に寄贈されているから全容は既に明らかなはずだ。後半では文書が膨大と繰り返し書くようになるんだが、そのわりに年二回しか調査に行っていない。もともとこの坂田聡の山国荘調査団は「狭く深く」がモットーだったがそれは東京みたいな僻遠の地から京都までたった年二回あわせて一週間程度で調査するには広く手を広げられないからだろう。しかしそれだと今の研究水準で通用するような成果があがらないということが今ごろになって見えてきたのであわてて手を広げたのはいいものの、見積がおいつかない。そこで実績報告では過去の実績とこれからの見積と現在の実績がいりまじって混乱したものになったのだろう。

5. 冊子体の報告書は出さない

 冊子体の報告書がでていない。実はこの前の科研費研究から冊子体の報告書は出ていない。

kaken.nii.ac.jp

 ここでも出していないのだが、「研究成果報告書」のpdfをみると、

なお、本研究において調査を行った古文書は膨大な量に及ぶが、山国神社文書、山国護国神社文書、旧鳥居村鳥居家文書、旧鳥居村辻家文書、旧塔村高室家文書、旧広河原村廣瀬家文書に関しては、仮文書目録を作成した。目下、正式な文書目録を作成すべく、鋭意作業中である。

 とあるので、文書が膨大で大変と言いつのるのも、やるやる詐欺でごまかすのもこのころからのようだ。科研費ってチョロいな~

6. 新聞などで成果を宣伝

 要は今まで書いてた『天皇と由緒』の件も山国神社の地図の記事の件も、坂田聡科研費研究の成果がこの期間非常に少なかったからアピールの必要があって無理に作った話題なのだ。新聞屋も深いところまでつっこまないし、京都は共産党の強いところだから、共産党に親和性のつよい先生が話題を持ちこんだら体裁よく宣伝してくれるというところなんだろう。

科研費と歴史の研究はそりがあわないところがあるが

 なんでも研究はそうだが、特に哲史文の分野は蓄積がものをいうところがあって、要領よくやるだけではおいつかない面もある。科研費みたいに年度を区切ってそれで成果を出すことを迫られるというのは結構つらいものだ。

 とはいっても、そういう一般論で坂田聡を弁護できるわけでもない。つらいからといって偽装ばかりしていると偽装しないと続かなくなる。そもそも、東京みたいな遠いところから年二回の調査で京都の山奥を調べるという要領のよさそうなことをやってる時点でおかしいし、そんな状態で高校の校長を兼務するというのもおかしい。ポイントだけ調べて要領よくたちまわっていたのが、歴史を長くやるうちに歴史の沼にひきづりこまれてボロが出てきたということだろう。ジェンダーとか家とかの寝言だけ言ってれば済む分野の社会学者に転向してればよかったのに間の悪いことだ。

科研費採択に向けた効果的なアプローチ

科研費採択に向けた効果的なアプローチ

山国神社にあった江戸初期の世界地図

山国神社で江戸初期の世界地図発見?

 今年2019年の二月、山国神社で世界地図が発見されたという記事がでた。

www.kyoto-np.co.jp

 この記事よくよく読むと、

 この地図は昭和はじめに東大史料編纂所が存在を確認したが、1990年に別の研究者が神社に照会したところ、見当たらないとの回答を得たため、これまで所在不明とされてきた。

 とのことなので、新たに出てきたわけではなく90年代には見当らなくなっていたらしい。それを昨年になって東大史料編纂所の研究グループの一員の人が確認したということらしい。では昨年2018年再発見されたものだろうか。

10年くらい前の山国神社文書調査

 実は10年くらい前の中央大学の山国神社の文書調査で既に存在が確認されていたものである。『平成17年度~平成19年度科学研究費補助金研究成果報告書 (課題番号17520449) 中世後期~近世における宮座と同族に関する研究 主に丹波国山国荘地域を例に』という冊子にその科研費をつかってやった調査の報告がある。この報告書の中身のほとんどはエクセルでつくった文書目録で、おまけで吉岡拓の浅薄なレポートがついている。その山国神社の目録の中にこう書いてある。

f:id:inudaisho:20190811114314p:plain
日本長崎ヨリ異国江渡海之湊口マテ船路積

 ここからわかるように、中央大学の連中はこれが東大史料編纂所が把握できなくなっていたものだということがわかっていない。なんか地図があるから記録しといたというだけである。

 みつからなかった件だが、どうも昭和初期には軸装してあったのがなぜか軸から外されていたのでわからなかったということらしい。

「新発見」の明の地図

 それから「新発見」という中国の地図の項目はこれ。

f:id:inudaisho:20190811112918p:plain
大明地理之図

 ということで、これもごく最近みつかったのではなく、10年前には所在が確認されていて中央大学作成の目録に載っていたのである。この目録が出たのは2008年。それから10年何をしていたのだろうか。

値打ちを認めたのは東大史料編纂所のチーム

 目録の中にあった地図に値打ちをみとめたのは東大史料編纂所を中心とした科研費「画像解析と歴史・地理情報の高度活用に基づく荘園絵図の総合的研究」のグループだ。

kaken.nii.ac.jp

 つまり彼ら絵図を専門に集めた研究者によって値打ちが認められたということである。京都新聞の記事もよくよくみるとこう書いてある。

 山国地域に残る古文書を20年以上調査している中央大の坂田聡教授(中世史)らの調査団が見つけ、東京大史料編纂(へんさん)所の共同研究グループが確認した。

 坂田聡らは見付けたわけではなく単に記録しただけで、その後10年くらい放置していただけだ。だからこの記事では坂田聡は無視してもよいくらいなのだが、なんでここで坂田聡が出てくるのか? おかしいよなー。

例の樺山聡記者の「勤王の村」記事も同時期

 そう、実は前にネタにした樺山聡記者の「勤王の村」記事も同時期なのである。

inudaisho.hatenablog.com

inudaisho.hatenablog.com

inudaisho.hatenablog.com

inudaisho.hatenablog.com

 集中してこのような特集を組み、あわせて新発見とされる記事をのせるのだから、よほど坂田聡に肩入れしたい連中が京都新聞にいるということだろう。本来ならその東大史料編纂所のチームのことを取りあげるべきなのに何もしてない坂田聡の記事を組む。おかしいよなー。

学生をつかって自分の業績を褒めたたえる

坂田聡の学生は坂田の業績を褒めたたえる

 坂田聡の学生は何か書くたびに坂田の名前を引用してその業績を褒めそやす。まぁ師匠の研究が規範になるのはしかたないのかな。ここでは 春田直紀編『中世地下文書の世界』勉誠出版 2017 におさめられた 熱田順「偽文書作成の意義と効力 -丹波国山国荘を事例に-」 をとりあげる。

「三箇条吉書」

 熱田順の小論は坂田の偽文書論の延長上に「三箇条吉書」を置いたものだ。三箇条吉書というのは領主が歳首改元などの折に出す三箇条の文書で、「おまつりやるよ/農耕にはげみ堤防を固めよ/年貢は払ってね」 みたいなことが書いてあるらしいんだが、今残る三箇条吉書の一部は偽作されたものという指摘はなかなかおもしろい。ところでこの小論の構成だが、(一)「山国の三箇条吉書」として、その存在を示し、(二)でその様式を検討して矛盾点を示し、(三)で他地域の三箇条吉書との比較でそのような矛盾はありえないことを示している。なるほど。まぁ構成としてはわかりやすいのだがわかりにくいのが行文だ。

極論は控えなければならないが、少なくともC・Dについては、中世文書の様式についての知識が乏しい者によって作成された可能性を視野に入れるべきではないだろうか。

 これは坂田聡の攻撃的かつくどい作文の悪い癖を学生も継承したようだ。何が極論なのか?控えているのか?その後ろの文章は必要なのか?実はこの前に示されている文で意は満たされている。

以上の二点はいずれも中世文書の様式に大きく関わるものであり、かかる根本的な誤記を含む三箇条吉書が、禁裏から複数回にわたって下されたとは考えがたい。

 普通はこれで十分で、さらにくどくど言う必要はなく、さらっと(三)につなげて自分の言う「中世文書の様式」とやらが他地域の文書からも裏付けできることを早く証明した方がよい。「おれは中世文書の様式に詳しいんだ」みたいなことを書いても「ほんまか?」と思うだけだ。

 まぁつまり極論は控えなければならないが、瑕疵をみつけるとそこを徹底的に叩き、ついでに自分の知識を誇示しようとするのが坂田スタイルであり、それを学生も継承しているようである。

先行研究の紹介部分

 最初に熱田小論の核心部を紹介したが、その前の先行研究の紹介部分に触れてみると、まず仲村研・網野善彦にふれて、偽文書への関心はたかまっているものの、「前述した由緒形成との関連という点に至っては、網野の提起以降、あまり深められていない」と書く。そしていきなりこんなふうに書きだす。

このような状況にあって注目されるのが、近年の坂田聡による研究である。坂田は従来の近世由緒論が近世後期の関東周辺地域の分析に偏っていることを指摘した上で、丹波国山国荘に残存する、百姓身分の作成によると思しき複数の偽文書および由緒書を分析し、それらが、近世の山論(山野の用益をめぐる村同士の争い)の場面や、荘内の上層百姓等が自らの特権的地位を正当化する際に利用されていたことを明らかにした。

 「極論は控えなければならないが」はここに挿入するべき文言だよな。まるで坂田一人でやったような仕事のように書いてある。ちなみにこの先行研究紹介部分、 実は坂田の作文の要約である。『禁裏領山国荘』2009、坂田聡『家と村社会の成立』2011 にのせてる坂田の「由緒書と偽文書」の冒頭部を要約したらこうなる。ただし熱田は坂田のようにくどくどと先行研究を紹介し、さらにその紹介と自分の考えの境界がわからないようにして作文の内容を水増ししていくスタイルは継承しなかったようだ。

 前に紹介したように、山国の由緒書の検討に着手したのは1996年の西尾正仁の修士論文であり、この論文は坂田の作文でもしきりに引用されている。熱田の紹介するような、山争論や特権的地位の正当化に由緒書が使われた事を最初に詳しく検討したのは西尾である。坂田の作文は西尾正仁の修士論文の補論でしかない。また黒田地域が主体的に由緒書の改造をしたというアイデアは、さらに奥の大布施地域が山国の由緒を応用して自地域に都合のいい由緒を作成していることを竹田聴洲が既に紹介しているので(『近世村落と村社会の成立』第一章第三節)、特に目新しいわけではない。坂田は中央大学の教授で科研費代表という地位を利用して西尾を科研費研究に形だけ参加させ、『禁裏領山国荘』2009では西尾の研究の核心部を坂田が奪って「由緒書と偽文書」を書き、西尾にはその前座として由緒書の変遷を書かせるだけにした。つまりこの『中世地下文書の世界』2017で坂田の成果だと誇らしげに書いているものは本来西尾正仁が得るべき場所なのだ。西尾は文書に触れずにその修論を書いたので、実地にある文書群を見ることができればもっと研究を深化できただろうが、それを坂田が山国荘の調査をやっているという地位を利用して横取りしただけである。しかもそれから十数年もやってるなら横取りしたものだといってもそれなりに深化しているはずだが、そうでもないところがミソだな。

意識構造とやら

 さて言いたいことは書いたのであとは熱田の小論の「おわりに」を見てみよう。

本稿では、山国の地下文書に含まれる複数の三箇条吉書に注目し、その多くが後世に偽作された可能性の極めて高いこと、そして、そこから明らかにされる同地域の人々の意識構造について論じてきた。

 意識構造? すごいね。どんな構造? その前の段落のまとめ部分をみるとこんなことが書いてある。

このように、山国地域では自らの特権性を主張するために由緒書が繰り返し作成されてきたが、その多くに綸旨や三箇条吉書といった禁裏との関連を示す文書が引用されている。この点にこそ、中世後期という激動の時代を経て形成された、禁裏との結び付きにアイデンティティを見出す同地域の人々の意識構造を看取することができる。

 「構造」って必要? 「意識構造」って書いてるのを全部「意識」に置換しても通じるよな。ちなみにこのあたり、言いたいことは「禁裏との結び付き」だけである。なんかもうちょっとないのかね。この小論の最後の部分は「たいしたこと言ってないのにたいした事言ってるように見せかけるテクニック」で充満している。たとえば上で引用したような内容を「おわりに」の項で「提示部」「箇条書きで論旨まとめ」「作者の思い」とひきのばして何度も何度も書きやがるので読んでる方の脳味噌が腐りそうになる。このあたりはさすが坂田直伝というところだろう。

博士号取得前

 ちなみに熱田順は2018年11月前後に博士論文の審査があったらしい。

 中央大学の中世日本史なんかに進んでしまって先生のいいなりにもの書いたばっかりにネットで揶揄されるようになって可哀想ではあるが博士過程のくせに先行研究も押さえられないなら自業自得だな。まぁもっとも、先生にたてつくような生意気な人間がこういう研究室で生きていけるのか知らないのでなんとも言えない。

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文禄・慶長の役での毒殺

加藤光泰の毒殺

 山崎の合戦で明智光秀の本隊を側撃して局面を打開するきっかけを作った加藤光泰が、その後の論功で光秀が作った周山城一万七千石をもらったらしい。このころの事柄というのはあんまり記録が残っていないのが普通ではっきりしない事が多いのだが、加藤家は江戸幕府の大名として残ったので周山をもらったことはその年譜に残されている。ということで幕府が作った家譜集をみてきたのだが、気になることがあった。どうも朝鮮で毒殺されているらしい。

寛永諸家系図伝 (17世紀中期)

すでに歸陣のとき、光泰西生浦(せすがい)にいたりて鴆毒にかゝり卒す。年五十七。

寛政重修諸家譜(19世紀初頭)

既にして歸陣のとき、石田三成謀りて宮部兵部少輔長房が陣營にをいて、和睦の宴を催し鴆毒をすゝむ。八月二十九日西生浦(せすかい)にをいて卒す。年五十七。

違いと共通点

 寛永の方では鴆毒で死んだと書いてあるだけだが、寛政の方では三成の罠にかかって毒殺されたと書いてあり、寛永と寛政の150年くらいの間で加藤家の始祖伝説がよりドラマチックになっていることがわかる。まぁ三成云々は無視してみると、毒で死んだと書いてあることは共通している。

 このことについて、加藤光泰本人の手紙が残っており、最近体調が悪いみたいなことが書いてあるらしい。それを根拠にして病死と言う人もいるんだが、病死なら病死と書いた方がよさそうな事柄についてわざわざ毒で死んだみたいに書いているのだから、周囲からみて不自然な死に方をしたんだろう。

九鬼家臣も毒殺されている

 いきなり話は変わるが、すこし前三田(さんだ)の図書館に行ったとき、九鬼氏の家臣の家譜みたいなのが大量に綴じてあるファイルがあり、ザーっと眺めてきた。前にも書いたのだが飾り気がなくておもしろい。たとえば「両親ともに朝鮮人」とか「唐人の子」とか平気で書いてある。そのとき気になったのが、加藤光泰とおなじように「鴆毒」で死んでる奴が結構いたのだ。加藤光泰程度の大物になると、謀殺か?という話も湧いてくるかもしれないが、水軍の九鬼氏の家臣も毒で死んでるとなると、結構普遍的な現象だったのかもしれない。

ふぐ毒?

 ちょっとググってみると、朝鮮ゲリラが毒殺をしかけたみたいな「中国の抗日ドラマでよくみる話」は出てこず、その代わりに、日本中から下関に兵が集まってふぐにあたる人間が続出したため秀吉がふぐ食を禁止した、みたいな話がでてくる。そうかそうか、それで話を締めようか、とおもって探しても裏付けになるネタがでてこない。そもそも話が下関に限られていて、伊藤博文・下関の春帆楼がセットで出てきて河豚解禁第一号みたいなこともいっしょに書いてある。そのわりに山口県のあたりでは禁忌という感じでもなくふぐ料理が一般的なところからみると、春帆楼周辺でつくられた伝説のような気もする。それにフグ毒ならすぐ死ぬので、手紙で体調が悪いとか書けないだろう。ということで、オチも結論もなく終わる。

追補 西生浦

 そういうと、Wikipedia加藤光泰 の項には、

日本外史では「西生浦」と誤記されており、それに従ってこの表記を用いる書籍がある。

 という謎の注記がある。それを書きこんだのは利用者:Quark Logo - Wikipedia という人だが、どういうわけか西平浦で死んだことにしたいらしい。その人がしきりに書きこんでいる項目をみるとどうも朝鮮関係が多い。西生浦というのは、そのWikipediaにも項目がたっているが、

ja.wikipedia.org

 加藤清正が作った日本式の城がある。西平浦というのは李舜臣関係で出てくる小地名のようだ。視野の狭い朝鮮民族主義者で西生浦を抹殺したいのかな?

 あと、加藤光泰の項目の履歴をみると、どうしても毒殺説を抹殺したい人が何度も何度も消そうとしているので、ここでは毒殺を強調することにした。なぜなら既に紹介したように他にも「鴆殺」されてる人が複数存在するから。孤例ではないものには必ず何らかの背景があるので、無理に理由をつけてわかったつもりにならない方がよい(負け惜しみ)

無名人の業績は盗まれる ~西尾正仁の由緒書研究と『禁裏領山国荘』~

(20190804 竹田聴洲著作集を借りてきたらいいネタみつけたので追記した)

兵庫県立教育大学修士 西尾正仁

 さて、最近調べていることの近傍を押さえている先行研究として重要な西尾正仁「近世村落成立期における家伝承の研究ー丹波国桑田郡山国郷の事例ー」(修士論文)1996 を読みに兵庫県立教育大学まで行ってきた。西尾氏は1956年生まれの高校の教員だが中途で兵庫県立教育大学の院に入り、その修士論文として1996年これを書いたということだ。西尾氏は坂田聡編『禁裏領山国荘』2009でも似たような内容の文章を寄せているのだが、要約版で、奥歯にモノがはさまったような具合でよくわかったようなわからないような具合になっている。他にも西尾氏のこれに関する論文はあるのだが、その最新版も教育大学の河村昭一の退官記念論文集(2013)に載っていて、これまた京都周辺では所蔵が少ない。ということで無職の強み、足の軽さを利用して両方押さえに行ったのだ。

f:id:inudaisho:20190726120219j:plain
兵庫県立教育大学の図書館

 ただし、修論の方は複製不可ということなので図書館で読んで要約を作ってきた。

西尾論文の重要さ

 この論文だが、正直言って、作られた由緒が現実の歴史に介入することのある近世の山国の歴史をみる上で非常に重要な論文だった。しかも核心部分は非常に明晰で、最近どうでもいい文章ばかり読んでたので新鮮に感じた。ちょっと感動したのでその核心部分を紹介しよう。

正治二年私領田畑并官位次第」の不審点

 「正治二年私領田畑并官位次第」というものが『丹波国山国荘史料』1958に紹介されている。この官位次第は三十六名八十八家の官位が正治2年(1200年)に定められたというもので、江戸時代後期の山国では名主家リストの根本史料のように扱われていたものだが、明らかに作為的に作られたものなので、それがいつ作られたのかというのが一つの焦点になっていた。

 ところで同名資料は山国にもあるのだが、活字化されたものは山国の隣の黒田の家に残されていたものである。この黒田地域は歴史的に山国荘の一部だったとされているのだが、奥の方なので別に扱われがちな地域でもあり、本郷・枝郷みたいな扱われ方をすることもあった。明治の町村制施行のときにはそれぞれ山国村・黒田村と別になっている。ところがこの活字化された官位次第の後にある文章にはいわゆる本郷の山国を「下山国八ヶ村」黒田のことを「本郷山国三ヶ村黒田」のように表現してあり、当時の文脈としてはおかしい。

 ここまでは普通の人でも目につくところだが、西尾氏の素晴しいところは、その文章に出現する事柄をきちんと一々検討し、山国の政治史にからめてこの文書成立についての仮説をうちたてたところだ。特に素晴しいのは官位次第とその後に続く由緒書の内容に齟齬があることから、別物とみたところである。そしてその由緒書部分には山国の論理で作られた部分があることから、「官位次第」のあと「原由緒書」が山国でつくられて黒田で手が加えられたと三段階に分けた。そして山国での由緒書形成を家の形成とからめて三期に分けて説明を試みる。

「伊佐波山宛行状」

 さて、まずはクドクドと説明することは避けて、どこに感銘を受けたのかド速球で紹介しよう。まるごと引用する。手で書写したのをここにタイプするので、どっかに書写間違いがあるかもしれないが、情報が詰めこまれているのによくわかるその明晰さを味わってほしい。

 十七世紀半ば、惣庄山の分割を契機に、名主家は、本来用木貢納の反対給付として与えられていた惣山の用益権を遠く平安宮造営に結びつけた「五三寸三尋木」の由緒を語ることで、維持し続けようとして、二度にわたって「改記」を作成した。その作業の中で、近世村落の胎動が始まった時期から蓄積され続けた様々な伝承や偽文書類が集大成されて原由緒書として結実したのである。

 そして、それは枝郷たる黒田村において、自村の立場で書き換えられ、天正十四年に前田玄以に提出する形式に工作された。そのことは、第一章第二節で指摘したように沙汰人四人の連署が黒田宮の春日神社に残る嘉慶元年(一三八七)十二月二十三日付「伊佐波山宛行状」の沙汰人連署を真似ていることから明らかである。

 いや、いきなりここを出しても背景を説明してないのでよくわからないかもしれない。軽く紹介すると、戦国時代には荘園の単位である名が名前だけのものとなり名主の地位が不安定になって地位の安定を目指す動きが山国に限らずあった(例えば紀伊加太で名主の「永定」がおこなわれた)。その反映として「官位次第」つまり名主リストが作られたとみる。これを「家伝承萌芽期」として西尾1996では幅を取って15世紀半ばから16世紀半ばくらい(つまりいわゆる戦国時代)であろうとする。(西尾2013では16世紀半ばとみる)。

 次に「家伝承成長期」として各種由緒が作られたとみる。たとえば「官位次第」の三十六名八十八家であったり、「七十二姓の郷中名主と比果・窪田の郷士両家」であったり、いろんな天皇の綸旨を受けた、と主張したりすることだ。そしてそれらが総合されたのが「家伝承結実期」で、これを17世紀半ば(江戸時代初期)までとする。17世紀半ばまでに山国荘が持っていた奥山が各村に分割されたのだが、その際名主層が保持していた利用権を維持するための理由として「五三寸三尋木」が語られたということで引用のところに来る。

 これが本当にすごいのは、黒田村が挿入したテキストの出所をみつけたというところだ。それが「伊佐波山宛行状」の沙汰人連署だ。山国関係の大量の資料から修論作成のための短時間の間にこれを抉り出してきた手腕は本当にすごい。それだけ読みこんだということでここは賞賛に値する。たとえばこの「伊佐波山宛行状」が他の文書と同様に偽作されたものかもしれないということはここではどうでもいいことなのだ。なぜなら論旨が要求しているのはテキストとして黒田村が保持もしくは作成したものが流用されたということを示せればよいだけの事なので、たとえばこれが偽作されたものならそれはそれで別の補論ができるだけである。

実り多きすばらしい論文とその瑕疵

 この論文のすごいところは上記で説明したテクニカルな点だけではなく、由緒という偽文書の変遷からいろんなことが説明できる事を示した点だ。なぜならここで扱われている山国の由緒書は、どこかの家が権威付のために一人で捏造したものではなく、地域のある層の政治的な目標を達成するために共同で作成されたものだから、政治文書でもあるのだ。何が強調されているのか、何が忘れ去られていったのか、それを追うだけでもたくさんのことが説明できるようになる。実際には修正を要するところも出てくるかもしれないが、偽書でしかない由緒書から歴史的情報を抽出するとはこういうことだと見せつけたのである。

 ただし一つ瑕疵がある。それは西尾氏が同年代の坂田聡の「家」論と安易に結びつけて家の形成の説明に利用しようとしたところだ。これで説明できるのは「名主」の枠の形成ではないのか。「近世宮座と家格伝承ー京都府北桑田郡京北町山国の場合 」『御影史学』29、2004では同様の論を形成しながら、宮座にひきつけて説明を試みているのだが、こちらでは「家格」としているのですんなり宮座の議論に接続できて見通しがよい。だいたい「家」という謎タームは何でも入る箱なので説明できたような気になるが、それで説明すると謎を増やすだけである。そしてこの瑕疵は最悪な形で報いがくる。「家」専門家・坂田聡の介入と押領を招くのである。

パクりの坂田

 さてここで坂田聡編『禁裏領山国荘』2009 をひらいてみよう。

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『禁裏領山国荘』目次の一部

 第二部の劈頭を西尾正仁「名主家由緒書の成立過程」が飾っているが、そのすぐ後に坂田聡「由緒書と偽文書」が続いている。坂田聡は似たような主題で何を論じたのか。西尾論文をほぼ全面的に引用しつつ、「伊佐波山宛行状」などが黒田村の利益のために作られた偽文書であることを論じたのである。

 自分は最初この本を読んだとき、この坂田というやつは何でこんなに必死になって黒田の偽文書を論じているのか、程度に思っていた。偽文書なんてどこにでもあるものだからだ。しかし西尾正仁の1996年の修論を読んではっきりわかった。この坂田というやつは、実り多きはずの西尾論文の枝を切り落として前座に押しこめ、その一方で自分の論説では全面的に引用しながら、補論で済むような小さな問題を大きくスケールアップして、西尾の論拠を抹殺し(たつもりになり)つつ、自分が考えたようなふうな作文を書き、西尾の晴れの舞台を奪ったのだ。本当にクズだなこいつ。 とにかく西尾論文の値打ちがまったくわかっていない。たとえば後続の山崎圭の論文で扱っている網株の話題にも広げることができる。もちろん宮座の話題にも接続可能だ。身分の固定の話題にも接続できる。山国隊まで話を伸ばすことも可能だ。西尾論文はたくさんの枝からいろんな実を取れる大樹のはずだった。それを、この坂田というやつは、編集という立場を利用して、それ偽文書とケチをつけるだけのクソ論文を書き、一方で西尾論文をただの由緒の変遷を追うだけのものに矮小化したのだ。自分は前、坂田聡に対して「空中戦の坂田」と揶揄った文章を書いたが、今回この入手困難な西尾論文を読んで心底怒りを覚えた。パクりの坂田と言うべきだな.... しかし論題をパクられてもさらに話が大きくなったなら、相手がすごかったな、で話が終わる。これは論題の矮小化であって、学問的には誰も得をしない。

偽文書の指摘も竹田聴洲のアイデアの転用

 坂田の論旨では天文年間の名主リストも黒田が作ったものという指摘で、先学はこんなものを信じて論を立てていると書いているのだが、坂田が言及していない先行研究がある。山国関係の研究では名高い竹田聴洲だ。「古家連党旧集記」という由緒書が残されているが、竹田聴洲はこれを山国荘の一番奥の大布施地域が山国の由緒を利用して作った偽文書だと判断した。坂田の指摘はそれを黒田村もやったということにしたにすぎない。坂田が実際書いてることはなるほどと思うところがあるが、それに言及するなら竹田聴洲の成果についても言及せねばならない。しかしそういう敬意を払うことは全くなく、逆に竹田仲村は天文の名主リストなんか信じてたアホと踏みつけにしている。はっきりいってこの坂田という人、名利欲旺盛なうえに業が深そうだ。

全部借り物の坂田

 以前『由緒と天皇』にいろいろ難癖をつけたことがあったが、あれは焦点がズレていた。結局この坂田が西尾氏の論題をパクりながら、西尾氏程度の見通しもないので偽文書を指摘するだけのチグハグなものになり、そのチグハグさで『由緒と天皇』まで突っ走ったため、結果的にまるで山国が偽文書・偽史製造所のような扱いになったのである。しかも西尾氏は修論を書くための二年くらいでこの地平に至ったのだが、坂田はパクっておきながら偽文書をどう扱うかについてまとまった史観も出すことができず、最近話題の偽文書があるぞと騒ぐことしかできなかった。全部借り物だもんな。「有力百姓」のタームさえ西尾論文に見ることができる。坂田は狭い分野の通史ならいろんなことを捨象できるのでなんとか書くことはできそうだが、地域の通史を書く能力は本当に低そうだ。さてその坂田は今何をやっているのかというとこんなことをやっている。

kaken.nii.ac.jp

 文書の再検討みたいなことをやっているそうだ。まぁ地道な作業をするのはわるくないんだが、「昔の百姓は字が読めないバカ」みたいな底の浅い論旨になりそうな気配があるぞwww

日本中世史料学の課題―系図・偽文書・文書

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由緒・偽文書と地域社会―北河内を中心に

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