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呂不韋南越人説

呂不韋南越人説

秦の丞相 呂不韋の出身地

 呂不韋といえば、始皇帝の父親子楚が人質として趙に送られていたのに目をつけて秦王になるようはからい始皇帝を育てた商人出身の秦の丞相で「奇貨居くべし」の故事を残した人だが、いちおう『史記』には「呂不韋者,陽翟大賈人也」とあり今の河南省の禹州あたりにあった韓の商業都市陽翟の大商人ということになっている。ところが『戦国策』では「濮陽人呂不韋」とあるので今の山東省と河北省の境目くらいになるがこちらは春秋戦国の小諸侯の衛の首都で、こちらも古くから栄えた土地であった。漢の高祖劉邦が地方のならず者だった頃に目をつけて娘を嫁にやった富豪呂公が呂不韋の一族という説もあるのだが、これは濮陽と呂公の巣父、劉邦の沛県が地理的に近いというのが一つの根拠になっている。とにかく戦国末期の繁華な地域を商圏とした商人だったらしいということは共通認識だといってよいだろう。

 ということで自分は南越人説を考えてみようとおもう。南越は広東・広西・ベトナム北部だが、始皇帝が征服するまでは百越といってまだ統一国家段階にない多数の民族がいるところだった。上に書いた「呂公が呂不韋の一族説」(郭沫若や楠山修作など)よりは資料的な裏付けがある。

不韋県の由来

 今の雲南省ミャンマーに近い保山市のあたりに不韋県というのがあった。この不韋県の由来について考察している人がいて、資料的にはそこに紹介されている事に尽きる。解釈は別とする。

t-s.hatenablog.com

華陽國志曰「孝武置不韋縣、徙南越相呂嘉子孫宗族居之、因名不韋、以章其先人之惡。」

孫盛蜀世譜曰「初、秦徙呂不韋子弟宗族於蜀漢。漢武帝時、開西南夷、置郡縣、徙呂氏以充之、因曰不韋縣。」

 書いてある通りだとすると、不韋県が置かれたのはそのあたりが漢の武帝の侵略をうけて漢に降伏したのと同時なので、秦のころにここへ呂不韋の一族を流すことはできない。関係がある事だとするとそこで矛盾がでてくるので、単に関連事項が併記してあるだけだろう。とすればそこに書いてあるとおり、呂不韋は南越の宰相の呂嘉の一族の先人だということになる。以下その筋で考察する。

南越の経緯

 南越のことを書く前にここで年表にして整理すると

西暦 事項
BC237 呂不韋失脚
BC235 呂不韋自殺
BC236-221 秦の統一戦争
BC219 百越征伐開始
BC214 百越征服、南海郡設置
BC210 始皇帝の死
BC203 南越建国
BC202 項羽と劉邦の垓下の戦
BC195-180 呂氏の専横
BC112-111 漢の武帝の南越・西南夷征伐

 百越征伐の占領軍が秦の滅亡後、楚漢戦争の最中に自立したのが南越である。漢との関係は呂氏の専横時代は険悪だったが、それ以外はだいたい良好だったようだ。

呂嘉の一族

 呂嘉の一族について考える前に呂不韋がその一族だったとして、政権中枢の呂氏が植民地に勢力を扶植したという筋も考えられるのでその方向についてだが、上の年表でわかるようにそれはない。呂不韋一族が処罰されたのは秦の天下統一の前だった。呂不韋のあと秦の丞相になった李斯が天下統一を実現させている。呂不韋の一族は秦の中枢には残れなかったし遠征軍で重きをなすこともなかったとみた方がよい。次に漢の呂皇后の一族が属国を食い物にした可能性だがこれもない。その時期は逆に漢と南越との関係が最悪になり、南越が最大版図を誇った時代だった。

 呂嘉であるが史記の南越伝によると

其相呂嘉年長矣,相三王,宗族官仕為長吏者七十餘人,男盡尚王女,女盡嫁王子兄弟宗室,及蒼梧秦王有連。

 とあるので南越国重臣南越国内にかなり大きな人脈をもった一族ということになる。ベトナム史書大越史記全書』では出身地は九真郡、ベトナムタインホア省トースアン県のあたりとされている。史記の南越伝でも越人の信があったとされているので秦の占領軍出身ではなく、現地人出身だとみた方がよいだろう。

武帝の処置

 史記には南越の滅亡の際、王には漢に帰順する意思があったのに呂嘉が逆らって反乱したせいで戦争が一年つづいたと記述され、司馬遷はそのことを評して「呂嘉小忠,令佗無後」(目先の忠義にこだわって南越王初代趙佗の子孫を絶やしてしまった)と書いている。また本紀などでは「漢の使者と王、王太后」を殺したので滅ぼしたということになっている。

 ところが『史記』『漢書』などにはそのあとどうしたかが書いてない。特に司馬遷の同時代なので確実な材料が入るはずだが... なぜだろう。呂嘉を殺したという一報が入ったのでそれを祝してそのとき武帝が滞在していた汲の新中郷を獲嘉県(河南省新郷市)に変えたとは書いてあるので、皇帝が重大な関心をよせていたビッグイベントであったようだ。呂嘉を非難する上奏文(つまり皇帝の意向に同調した文章)も列伝の方に残っている。なのに、である。

 南越がみせしめとなって雲南方面も続々と降伏したわけだが、そのうち滇が益州郡となったことがわかる。その『漢書』の地理志に郡県の一覧があるが、そこには益州郡のなかに「不韋」があるので,その時不韋県が成立したのは確実であるが、どういうわけでそういう名前にしたかもわからない。

財宝の地 南越

 さてここで、ひとまず記述のたりない方面から離れて別の方向からこの問題にとりくんでみよう。まず南越の産物。呂氏の専横のあと関係回復のために派遣された陸賈は南越の返事をもって文帝へ報告した。そこには南越王の献上物が挙げられている。

白璧一雙,翠鳥千,犀角十,紫貝五百,桂蠹一器,生翠四十雙,孔雀二雙。

 まぁよくわからんがキレイな石や鳥、あるいは角など、宝玉の類が送られている。当地の産物で最もよいものを贈ったはずだからこういう珍品が名物なわけだ。では漢書の地理志にはどのように紹介されているか。

處近海,多犀、象、毒冒、珠璣、銀、銅、果、布之湊,中國往商賈者多取富焉。

 (当時の広州は)海に近く、犀や象の角、タイマイなどの宝物が集まると書いてある。そのあとの「中國往商賈者」は「中国人で商売に行く人」なのか「中国へ商売に行く人」なのかよくわからんが、細かくいわずともわかるだろう。こういうものの産地なので当時の中心である華北に持っていくだけで大きな商売ができるということだ。

陸賈 の商売

 それを端的に示すのが南越王への使者になった陸賈のエピソードだ。陸賈は劉邦から南越王へハンコを渡すようにいわれ、つまり帰順せよということだが、南越王を説得したうえ意気投合して帰りには値千金の真珠の類の宝物をお土産にもらって帰る。劉邦の死後呂氏専横期間に陸賈も睨まれたのでとっととやめてしまい、その宝物をとりだして金に変え、子供達の間をわたり歩き居所を定めない生活をしながら反呂氏の策をねりあげ、みごとクーデターを成功させるのである。

呂不韋の商売とは?

 さてここまで書いたら自分が推測していることが何かわかるだろう。呂不韋は何を商っていたのか?「往來販賤賣貴,家累千金」とある「安いものを売って高く売る」程度で千金も貯まるものとは何か?そして各地の王侯貴族に簡単に近づけてとりいることができるような物とは?

 ということで、呂嘉の先人が呂不韋だという華陽国志の記述が生きてくるのである。南越のあたりに地盤をはる呂氏一族が南海の珍奇な産物を中国中央の王侯貴族へ売りつける現地駐在員が呂不韋だとみれば話がかなりわかりやすくなってくる。そういうものを売る商売なので当然各地の王侯貴族、あるいは大商人・資産家・金持ち、さらにはその奥様お嬢様方が顧客で、それらの間を忙しく動きまわるのが当然のこととなる。呂不韋が売ってるもの自体が「奇貨」なので自然と「奇貨」を見出して金にする考えを身につけており、それを人間に対して応用するのも当然となる。

先駆者 范蠡

 さらに百越ではないが、越王勾践を支えてのちに商売で成功した越人に范蠡がいる。他ならぬその『史記』列伝の最後の太史公自序の前には「貨殖列伝」があって各種の金儲けをした人たちが紹介されているという歴史書(史記が歴史書なのかどうかは微妙だが)としては不思議な部分があるが、その冒頭を飾るのが越人范蠡なのだ。范蠡が何を商ってのちにその偽名陶朱公が富豪の代名詞となるほどの富を得たのだろうか?

百越遠征

 秦の百越遠征は六国統一のあとなのでその延長上で語られるが、よく気候が違いすぎるのでそんなにうまくはいってないというような説明がされることが多い。しかしそれは秦の暴政を言うための言説で駐屯軍が自立して国つくるくらいだから失敗ではなかったのだろう。桂林の近くに霊渠という運河があり、それで広東方面と湖南方面の水系を接続したというので見にいったことがあるが、なんで秦のころにそんなところに必死こいて運河を掘ってまで南北を接続したのかわりと不思議だったが、戦国末期にすでに南海貿易が盛んになっていたので宝物の土地みたいにみられていたとすればわからんでもない。

出土する貝の装飾品

 今の中国へいって博物館などで出土資料を漫然とみていると、日本での常識となんか違う事がある。その一つが貝の装飾品で、日本では、漢代の中国ではこんな豪華で巧緻なものが出てくるのに、同時代の日本は遅れていて貝殻が装飾品になってるとかいう言説が横行している。漢代までは厚葬の時代なので漢代の遺物は大量に発掘されているのだが、秦や漢の中国の出土物として日本人が思っているのは上澄みで、下の方では日本と大してかわらない貝殻を装飾品にしているということがわかる。物質生活として比較すると中国の方が豊かだったのはまちがいないだろうが、南の海で取れるキレイな貝殻も立派な装飾品として日本と同じように中国でも流通していたのである。

結論

 ということで、南越人...というよりは百越出身の呂不韋は十分ありうると思うのだがどうだろうか。珍宝で秦王室に近づいた男・呂不韋みたいな話になっていろいろ面白くなる。漢の呂公・呂氏一族との関係はまた別の問題になるが、漢の武帝呂不韋ならびに呂氏の係累として南越の呂嘉をみており、名指しで潰しにかかったので呂嘉は反乱を起こしてみごと失敗し、一族は雲南で新しく帰附した雲南の王の一番遠い領地へ流され、土地に「不韋」の名前をつけられた、という見方もできなくはない。

 そうだとするとなぜ司馬遷がそんなおもしろい事を書かなかったのかという重大な問題がある。武帝の身近く仕える身ではあるが、結構好き勝手書いてるのにそれを書かなかったのはなぜか... ということで矛盾が明らかとなるので、このお話はここまでとする。どうせ結論なんか出ない。

ユダヤ問題の理解に重要な東欧史

ユダヤ問題の理解に重要な東欧史

 パレスチナ問題はもとよりロシア・ウクライナ戦争でも重要なポジションをしめているユダヤ人だが、その現代の事に深入りしてもろくな事はないので、どっちがどうこうとかいうのはさておき、その背景となってる事をさぐるうちに、結構重要な歴史が日本の高校世界史レベルの知識から欠けていることに気付いたので書いとく。またこれは最近流布されているユダヤ陰謀論の背景にもなってるので、アウトラインでも知っておくとより一層陰謀論を楽しめるようになること請け合い。

世界史の記述が薄い地域

 人間の認識の限界、また共有できる知識の限界の問題で、歴史というのはお話として理解されるものだが、メインストーリーを立てると抜けおちてしまう地域というのがある。それが西洋史においてはビザンツ・東欧だが、それには理由がある。西洋史のメインストーリーはドイツ史で構成されていて、それにイギリス・フランスがついている感じになっている。そこでドイツの近くなのに都合が悪い、またはすこし縁が遠くなってしまうのがビザンツ・東欧で、そのあたりはかなり雑な記述になってしまう。

三十年戦争西洋史

 もう一つ理由があって、高校の世界史だと記憶力を鍛錬するために存在するかのような複雑な箇所がいくつかあるが、その一つにドイツの三十年戦争がある。この結末のウエストファリア条約が以後のヨーロッパを決定づけたみたいな理解がされている。まぁ図式的な理解でいうとそこで神聖ローマ帝国が終わったということになり、近現代の列強が飛びだしてくるということになるが、ドイツのま横にいるのにこの戦争に参加してないことになってる国がある。それがポーランドだ。ポーランドはその後分割される可哀想な国として出てくるだけで非常に影が薄い。自分もその語ロシア史だけの本を読んで、ロシアはその昔ポーランドに滅ぼされそうになったのか、という理解しかなかった。なにせ日本の明治維新のときにはポーランドは分割されて一世紀もたっていたし、明治維新すぐの普仏戦争でのドイツの勝利で、地方分権から中央集権へ移行する近代のモデルがドイツとなったのだから、それもしかたあるまい。しかし実はポーランド三十年戦争の期間に三十年戦争の一方の勝利者であるスウェーデンと戦争しているのである。ドイツを中心として考えると消えてしまうが、確実にそこにあり関与もしていたのがそのときのポーランドだった。

プロシア(プロイセン)の出自とプロテスタントユダヤ

 またドイツ統一の立役者はプロシア(プロイセン)だが、その出自を考えるとまたポーランドは無視できなくなる。もっとわかりやすく言うとプロテスタント史として高校世界史をながめるとかなりわかりやすくなってくる。プロシアは最初のルター派国家なのだが、出自は北方十字軍(敵は異教徒のリトアニア)のドイツ騎士団で、ドイツ本国から離れバルト海沿岸にポーランドリトアニア王国に食いこむようにして存在しており、ルター派を受容したときはポーランドの宗主権下にあった。そのポーランドリトアニアリトアニアがバルト語族の異教徒で、ポーランドカトリックという感じの緩い国だった。そして一番重要なのは、ポーランドがそうした緩い国なので、西欧・中欧でのユダヤ人排斥の逃げ場となり、ユダヤ人が集まる国となっていたのだった。このあたりの事はG7の中で唯一の異教徒である日本の立場を考えるとわかりやすいかもしれない。まぁしかしそういう場所だからカトリックからみると異端だったプロテスタントの国家が存在できたと考えることもできる。だから日本にキリスト教の異常カルトが集まってくるのか。トホホ

リトアニアポーランド

異教徒の国 リトアニア

 リトアニアバルト三国として一括して語られることが多いが、バルト三国の中では別格ともいえる。リトアニアはモンゴルがキエフ・ルーシをぶっつぶした後急速に拡大して黒海沿岸まで支配地域をひろげることになるが、「ヨーロッパ」として考えると異色なのがキリスト教徒ではなく、異教徒であったということで、バイキングのデンマークスウェーデン、スラブ系のポーランドなど周辺の異教徒たちが西暦1000年前後にキリスト教に改宗してしまった中では最後の異教徒集団であった。*1 リトアニア黒海沿岸まで支配をのばしたあと*2ポーランドとの通婚で合同王国になり、カトリック国のポーランドキリスト教に改宗する。それによってドイツ騎士団の牙を抜いたということになるが、支配層がキリスト教化しただけなので完全にはまだそのころには完全に下まで浸透していない。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8c/Map_of_the_Grand_Duchy_of_Lithuania_%28pink%29_and_the_Crown_of_the_Kingdom_of_Poland_%28red%29_in_1386_-_1434.png/1041px-Map_of_the_Grand_Duchy_of_Lithuania_%28pink%29_and_the_Crown_of_the_Kingdom_of_Poland_%28red%29_in_1386_-_1434.png

wikipediaより リトアニアポーランド 1386-1434

User:Poznaniak - Wikimedia Commons 画像の作者

ファイル:Map of the Grand Duchy of Lithuania (pink) and the Crown of the Kingdom of Poland (red) in 1386 - 1434.png - Wikipedia

ポーランドとの合同から選挙王政の共和国へ

 ポーランドとの通婚だが、ポーランドのカジミェシュ3世が1370年に跡継ぎのないまま死に、ハンガリー王のラヨシュ1世が入るがこれも1382年に跡継ぎのないまま死んで、ポーランドは末娘のヤドヴィガが継承。というところへリトアニアのヨガイラと結婚して同君連合になる(1385クレヴォ合同)。つまりこのころの王というのはよそから持ってきてスゲ代えたりできるものだったらしい。それはシェラフタという貴族のような騎士階層に支持される形だったから。とはいえ構造的には西欧で貴族が王を支えているのとかわらないのだが、このシェラフタは西欧の貴族と比べると人口比率にして多く、自身が就労したりもするので、日本の武士と比較されやすい。 はいここ注目ですね。リトアニアポーランド王国は異教徒の部分もあり、また日本の武士のようなものに支えられていた。つまり日本は西洋の文脈ではこいつらと比較されやすいというわけ!

 一方で東のロシアがジワジワと勢力をのばしていたので1569年にはルブリン合同として政体をひとつにした。そして1572年にはジグムント2世がこれも跡継ぎを残さず死んだので以後は王をシュラフタの選挙で外国から迎える王を選び、議会で承認するという体制つまり共和国体制をとった。これによってリトアニアポーランド化が進行してしまう。ということで以下ポーランドとして記述していくのですが、周辺が絶対王政へ向けて中央集権を進めていく中でそれよりもかなり近代的な体制をとったポーランドがどうなったかというと、シェラフタの中の階層差を解消できず腐敗が進行、つまり権力を完全に掌握できないので権力集中が分散し、外国からの介入を防げずグダグダとなり、フランス革命アメリカの建国があった18世紀後半にプロシア(プロイセン)・ロシア・オーストリアに分割されて消滅するというハメになる。

現代史の因縁からポーランド・リトアニア共和国をみる

ユダヤ人の集住地

 さて今のウクライナの領域にはユダヤ人が集住しており、ユダヤ教の中で普通「超正統派」と呼ばれているハレディムの人たちの聖地まである。これはどういうことかというと、このリトアニアポーランド王国は先に書いたとおりもともと異教徒のリトアニアが勢力をのばして正教圏の旧キエフルーシ、カトリック圏のポーランドをのみこみ文化的にはポーランドに優越されたような国なのでキリスト教の力が他のヨーロッパ地域に比べてよわい。そのためにヨーロッパでユダヤ人の迫害気運がたかまると逃げ場として最適だったからだろう。15世紀末に追放されたことがあるらしいが8年で戻ってきたらしい。またキリスト教徒が迫害するといってもキリスト教徒のできないことをユダヤ教徒がやって稼ぐみたいな一種の相補依存関係にあるので、たとえばポーランドがルブリン合同でリトアニアが押さえていたウクライナの平原部をくみこむと、シェラフタが一種の植民地のようにウクライナへ進出し、そのとき手先としてユダヤ人が活躍したのでウクライナ・コサックの反感を得て、フメリニツキーの乱にともなうユダヤ人の虐殺が起こったとされる。ちなみにポーランドが西欧のユダヤ人を正式に誘致するアレンダ制をしいたのはルブリン合同と同じ1569年なので、そういうところからも陰謀論が湧いてきそうではある。それはともかくそのようにしてドイツから来たユダヤ人はこうして人口を増やしたのでのちにユダヤ人の中で「アシュケナージ」ドイツ語の方言であるイディッシュ語を話す人たちとして分類されるようになる。

 それはともかく、現代のユダヤ教にとってもこの地域は重要で、ユダヤ教カバラをとりこんで神秘主義化した時代はこのポーランドユダヤ人が栄えていた時代と重なっているために、そこからやばいカルトが派生している。サバタイ・ツヴィ(シャブタイ・ツヴィ)やヤコブ・フランクで、彼らは結局イスラム教やキリスト教に改宗して消えていったが、今の超正統派のハレディムもカバラをとりこんで以後発展したもので、超正統派も正統派もそういったカルトが起こした変化の影響は受けているらしい。

 しかしこのヤコブ・フランクのカルトは異常だったので「フランキスト」は異常者を罵しる言葉として残っており、世俗化したユダヤ人もゴリゴリにユダヤ教の教えを守ってる人たちからすると異常者なのでフランキストとレッテルを貼ることもありそうで、陰謀論もそういう罵倒成分から湧いてくる妄想がありそうだ。ちなみにヤコブフランクの一派が落ちついた先はフランクフルトの近くなのでロスチャイルド家と関連づけられることもあるし、サバタイ派がイスラム化したとされる集団が集住してるのがテッサロニキで、テッサロニキはアタテュルクの出身地なのでそれを関連づけた陰謀論もある。

 ちなみに黒海沿岸のハザール帝国のユダヤ人と関連づけられるのもこの人たちだが、その心は中東系っぽいのがユダヤ人なのにいきなり白人みたいなユダヤ人が増えてるので偽ユダヤだろというもの。そもそもキエフルーシの成立にもハザール帝国は関連しているのでルーシの末裔を名乗る人達はそのあたりの事に興味津々だが、リトアニア大公国にいたユダヤ人とハザール帝国の遺民が全く関係ないとまでは断言できないものの人口としては少数だっただろうしラインラントにいたユダヤ人が招かれた経緯や増えるのもはっきりしているのでそこまで邪推する必要もない。ポーランドで栄えた時期と神秘主義化した時期が重なってるので邪推されやすいだけだろう。現代の問題はあくまでも現代の問題である。過去に理由をつけておかしい事をする人達がわるいのである。ちなみにその超正統派の人がナチスホロコーストで一番被害を被っていてイスラエル建国時にはイスラエル国民として数百人しかいなかったのだが今や数万人まで増えているので人間も条件が整えば無茶苦茶増えるということである。

同じスラブ系の国ロシア

 さてポーランド・リトアニア共和国の範囲はほぼ今のリトアニアポーランドベラルーシウクライナなのだが、リトアニア以外の三国と同じスラブ系の国としてロシアがある。キエフルーシが消滅したあとその後継国家はキエフにはたたず逃亡国家がいくつかできてそのうちモスクワ大公国がモンゴル支配の代官として重きをなすようになったとされるのだが、リトアニアの支配も二重支配とかいってたようになんかあやしい記述が多いのでよくわからん。ロシアの視点からみるとリトアニアはモンゴルの同盟者であり、常にリトアニア支配下にないスラブ系国家を支配下に組みこもうとする連中なわけだ。実際リトアニア大公国はヴィリニュスを第二のキエフにするつもりだったらしい。ただし結果的にモスクワ大公国は消えず強勢に向かいリトアニアは全ルーシの支配者になれなかった。しかしルブリン合同の後1598年にロシアのリューリク朝は断絶し、混乱の時代に突入し複数の「偽ドミトリー」などが出現する時代になるのだが、その一人はポーランドの後ろ盾を得ていたりする。ロシア史の記述でもこのときが滅亡の危機で、それを救うためにロマノフ朝が登場したという筋書になっている。まぁつまりロシア帝国の歴史はポーランドをロシアの生存を脅かす敵として記述しており実際に18世紀後半になってポーランドを分割して飲みこんでしまうのである。

 もう一つ重要なことがあって、ロシアはユダヤ人を排除してきた。15世紀から16世紀にかけてスハリヤユダヤ教団というのがありそれがユダヤ人によるものかどうかはわからないが、そのせいで異教徒に厳しくなった。その後、ポーランド分割で支配下に大量のユダヤ人を抱えこむことになってしまうが、ユダヤ人に慣れてるプロシアオーストリアと違ってロシアはユダヤ人対策に始めて直面することになり、結果的にポグロムにつながった。それによって西方へのユダヤ人の逃避がおこり、今度はそれがホロコーストの遠因にもなった。また、イスラエル建国の父ベングリオンロシア帝国ポーランドユダヤ人だしロシア革命のときもユダヤ人の活躍がみられたので、あのあたりになんか問題があるのだろう。

プロシアの興起とポーランド

 既に書いたようにプロシア(プロイセン)が国としては最初にプロテスタント(ルター派)の国となったのだが、それが可能だったのはリトアニアポーランド王国に囲まれてドイツ本国と離れていたからだろう。プロシア(プロイセン)を踏み台にしてスカンジナビア半島の方へも布教が行われたのが後の三十年戦争で効いてくるのだが、ここではもうすこし違うことを指摘すると高校世界史レベルでもプロシア(プロイセン)のユンカーというのを習うが、さてそれはポーランドのシェラフタとどれだけ違うのか?という問題だ。つまりプロシア(プロイセン)はドイツと違って大土地所有が進んで、という解説が進むが、ではその後背地であったポーランドのそれとどれだけ違うのか?かなり似ているのではないか?という話だ。そう考えると、プロシア(プロイセン)の興起はプロテスタントと結びつけられることが多く、実際その後にまた後継問題で同じプロテスタントブランデンブルク選帝侯領と「同君連合」が成立してドイツへ進出するのが後のドイツ帝国への足掛かりになるのだが、その後ポーランドを分割するとシェラフタはそのままユンカーとなってプロシア(プロイセン)に仕えたのでプロシア(プロイセン)というのはポーランド化したドイツ、あるいはドイツ化したポーランドみたいな話になって話が面白くなってくる。また、そのあたりが高校世界史レベルまでドイツ史を骨抜きするとポーランドの影がなくなってしまう原因だろう。

アメリカとポーランド

 さてリトアニアポーランド共和国の選挙王制をみてなにか思うところはないだろうか。これはシェラフタによる制限選挙だが、アメリカの選挙はなぜか選挙人を選挙して大統領を選ぶという仕組みになっている。アメリカの大統領は期限付きの王のように振舞うので、前はイギリスの古い議会制度を反映してるんだと思っていた。むしろリトアニアポーランド共和国の方が似てるんじゃなかろうか。ポーランド分割とアメリカの建国は同時期だが、アメリカ独立戦争にはポーランド人も参加している。日本からみればポーランドは学ぶところのない敗者に見えたかもしれないが、現実に日本が沈みだしている今、ポーランド史はもっと注目するべき事柄ではなかろうか。

イエズス会の活躍

 異教徒国リトアニアの日本との類似でいうと、ここもイエズス会が活躍している。ポーランドカトリックで、リトアニアの方は正教会が布教していたが、ルブリン合同のあとどうなるのか。1596年に正教圏の東部には合同教会を置き、権威はカトリック典礼は正教という仕組みになった。そしてその一方でイエズス会が学校を設置して教育のかたわらカトリックの布教をやりだした。これによって正教会の側もイエズス会の学校をマネして学校をつくって正教会側の知識人を養成することになり、さらにそれがロシアのピョートル大帝の改革を支えた知識人の一部になったらしい。

フス派とポーランド

 チェコはロシア以外の東欧のスラブ系の国としては唯一高校世界史での扱いが大きいが、それは政治的にはドイツの一部だったからで、これもドイツ史が西洋史の中心になっているという話を越えない。ところでフス戦争というのがあり、謎の箱車に火器を装備した武装でフス派が暴れるというのがいきなりでてくるが、あれも同時期にリトアニアポーランドが合同してスラブ系を組みこんだ大国がその東側に誕生していたという背景があると見方もかわってくる。

*1:ちなみに西暦1000年頃にそういう動きがあったのは「千年王国」の1000と関係があるとされる。もっとどうでもいい小耳情報としては1000-666は334となる。こういう数字あわせはバカ.....いや催眠や暗示に弱い人を釣るのによく使われるので覚えておくと陰謀論を楽しむのに便利。もっというと催眠や暗示は人間の弱点を突いてくるもので抵抗しにくいため、知識で距離を置いて楽しむしかないのだが、実はその人間の知識という機能が催眠や暗示の根源であり、人間は心を磨くしか逃げ道はないのだ。

*2:それはどうもゴールデンオルドとの二重統治みたいな状態だったっぽく本によって書いてあることがふらふらするがどうもモスクワ大公国とおなじで代官やってたのではないか

有機EL環境

有機EL環境

 さてパソコン・スマホタブレットを全て有機ELにして数ヶ月たって目も慣れてきたのでその結果を言うと、かなりよい。液晶の方をみるとなんか目がシバシバするようになってきた。これはテレビみたいに遠くから見るものだと普通に見れるので、近くで液晶をみるのがなんかよくないのかもしれない。で、目に一番近いところでみる環境がスマホ( oppo reno 9a )の有機ELになるが、これが目にしっくりくる。去年買ってあれこれ言いながらも使っていたEIZOの32インチ液晶モニターもときどきデカい画面で確認するために繋げるだけで、あまりつかわなくなってきた(もったいない!)。

 ではこの液晶モニター有機ELだったら目がシバシバしないのか?というとそれはわからない。今の大型の有機ELテレビはカラーフィルター方式で表面の構造はむしろ普通の液晶モニターに近い。実際に去年最初に有機ELテレビをモニター代わりに買ってみてなんか目が痛いので速攻返品したという経緯がある。サムスンが大型化でカラーフィルター方式のLGに遅れをとって、まだせいぜいパソコンの画面程度の大きさどまりなのでそうなったが、oppoスマホ有機EL中国企業なので中国企業が大型化に成功するかもしれない。

 ただ最近の趨勢をみると、中国企業が韓国企業をのりこえようとしたらアメリカが市場から締めだして潰しに来るのでそういう日もこないかもしれないが、米中貿易戦争も昨今の戦争でかなりフェーズがかわってきてるのでどうなるかはよくわからん。自分もファーウェイがやばいとか騒がれた時はかなりうのみにしてたが、サムスンが Exynos に電話番号だけでアクセスできる裏口しこんでたのをバグとして Google に暴露されてたのを知ってから、自分らもやってたから中国もやってるだろうとみたのか、あるいは韓国やイスラエルがそのように告げ口してたのだろうと思うようになってきた。

 まぁそれはともかく、中国企業有機ELのカラーフィルター方式ではない大型化に成功したとしても、どうせ高いので現実的には65インチなどのむちゃくちゃ大きな液晶テレビを買ってパソコンをつなげてテレビと同じような距離でみるようにするくらいしかないだろう。つまり知り合いが65インチテレビをモニター代わりにつかってるのをみて大型モニターを検討しだしたときに戻るのだが。

NXTPAPER は未来紙

NXTPAPER は何なのか

 すこし前にTCLがNXTPAPER技術を使ったスマホの発表があったが、その paper-like 「紙のような」という売り文句を誤解してeInk社の電子ペーパーだと思って記事を書いてるのをみかけた。NXTPAPERは実物をみてないのでなんともいえないところはあるが、ネットでの情報をみると、すくなくとも我々が「電子ペーパー」と聞いて思いつく eInk 社のような方式ではないようにみえる。前に記事を書いて反射式液晶ではないか?みたいな事を書いたが、そうとも限らないようだ(twitterで指摘した人がいる)。では何か?

NXTPAPER は未来紙

 中国での報道をみると、NXTPAPER は未来紙と紹介されている。ではその内実を公開資料であれこれ書く前に一応その筋で有名な Good e-Reader の比較動画を紹介する。


www.youtube.com

 みてわかるように液晶である。ではどこが「未来紙」なのか? Reddit なんかの口の悪いところで情報をみると、NXTPAPER について" multi-layered LCD" と揶揄している人もいる。これは別に秘密でもなんでもなく、TCL自身がそのように紹介している。ではTCLの着眼点はどこかというと、どうも液晶の表面処理に改善の余地を見出しているようだ。

 液晶などの発光体の画面を長時間みていると目が痛くなるというのは全員ではないがかなりの人がそう思っているようで、だからこそ電子ペーパーのようなものの市場が残っているし、根拠薄弱とかいわれながらもブルーライトカットの機能や眼鏡は普及している。自分も冷陰極管バックライトの時代には目がそんなに痛くならなかったが、LEDバックライトの時代になってから長時間見るのは痛く感じてしまうようになった。(しかしそれは単純に年のせいかもしれない)

 最近発表された TCL NXTPAPER 11 は NXTPAPER 2.0 といってNXTPAPERの第二世代になったとアピールしているので、その一つ前のタブレット TCL NXTPAPER 10s のサイトをみてみる。

www.tcl.com

 これによると、NXTPAPER のpaper-like の売りは三つある。

  • low blue light
  • Anti-glare viewing
  • No yellowing

 つまり1 ブルーライト、2 まぶしさ、3 黄色味、をそれぞれ抑えるのが要点というわけだ。

 そして第二世代になると今度はさらに明るさをアピールしているので、第一世代の要点は押さえて何が目の痛さをもたらすのか把握できたのでさらに改良したということになる。

表面処理改良の波

 表面処理に凝りだしているのは TCL だけではない。

consumer-img.huawei.com

 ファーウェイ(华为)も今年新たに MatePad の PaperMatte Edition というのを出してきた。パネルをつくってるのがどこかはよくわからんが、やっぱり表面処理に改善の余地があるとみなしているのはわかる。

 あと液晶を駆逐する勢いの有機ELでも画面表面の改良の動きがある。

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 このマイクロレンズは図をみるかぎりではカラーフィルターの上に配置して光をより有効に使えるようにするものらしい。有機ELなのにカラーフィルターなのはもちろん今の大画面有機ELは白色有機ELの発光体の上にカラーフィルターを置いて大画面化を実現させたLGの方式のものなので、そのフィルターを置くことによる弊害があった。という事がこのマイクロレンズ方式で改善されるとアピールしている点でわかる。つまりそれで改善されるとアピールされてる点が今の方式でのよくない所ということだが、

  • カラーフィルターとの干渉

  • 視野角によって三色の乖離があり、色がつく

 ということで、どうも大画面の有機ELは角度によって変な色がみえるのは問題点として既知の事だったらしい。前に有機ELテレビ買って返品したことあったけどまぁそれはそういう仕様だったということのようだ。

 しかし当然ながらこれ液晶にも応用できることなので表面処理の競争がはじまるかもしれない。とにかく今の液晶なり有機ELなりはなんか目に来るものがあるのではやいとこなんとかしてもらいたい。

大学院はやめた

大学院はやめた

退学願提出

 さて今まで幻聴が出ながらも論文を公にするためにしがみついていた大学院だが、幻聴はだんだんマシになってきたものの、依然として夜中の変な時間に目がさめつづけて深く長く眠る事が不可能だった。大学院の方も演習二つだけ出ることにしていたが、幻聴のせいか予習も十分にできず、最低限の下調べしかできない。これでは進捗もはかばかしくないなと思っていたところ、今年の五月中頃に寝てるときに肩が痛くなり、それがちょうど字を書くときに使う筋につながってるところらしく、字を書くのも痛くて難儀する状態。その状態で一ヶ月くらいはがんばってやっていたが、一向によくならず痛いままだったので、徐々にやる気を削られていって7月くらいにはもう演習に出る気もなくなってしまった。

 そういうわけで先生にはもうやる気がなくなって退学しようと思うと言っていたのだが、まぁ九月までと先のばしにされたのだが、九月になってもやる気が回復しないので先週退学願を出した次第。

 幻聴で論文書けとか言われるけど、そもそも幻聴で日夜責められてよく眠れないままにされつづけたのが論文書く事に意義を見いださなくなった原因なので、そう言われても「だから何」みたいな感じになる。幻聴は統合失調症に限らずもうすこし広範にみられる現象だが、聞こえる側からすると、なんかテレパシーでつながってる連中がいてその限定サークルのテレパシーの輪に巻きこまれたように感じる。そういう集団がいてテレパシーで人を責め殺して財産うばって生活してるような世界、どうなってもいいように感じてしまった。つまりこの世界に貢献する気がなくなった。要はそういう妄想が形成されてしまったということだ。

最近の体調

 さて体調の方だが、こちらはなんとかよくなってきている。幻聴で食っちゃ寝してたせいで体のバランスが崩れていたのだが、それだけでなく、幻聴のようなものがあるように脳自体にノイズみたいなのがかなりのっていて体の使い方が昔とは違っていてそのせいで腰がいたくなったり便秘になったりしていた。肩が痛くなったころにどうでもよくなってまずウンコを出すために断食をしてみたところ、一週間くらいは無理なくできた。その時点で異常だが、一週間くらいやったあたりで、爽快感みたいなのがでてきた。それが山登りしてヘトヘトになったときの感覚に似ていたので、登山で体調がよくなるのは激しい運動で一時的な飢餓状態にもっていくからだろうと思った。そんなら体を削りながら断食を続けるよりは山登りした方がよいのでは?

 その事に気付いてもなかなか山登りできなかったあたり幻聴で脳がやられてるが、大学のときの元寮生で同年代の人がガンで余命宣告されて宣告された頃になってるのにまだ死んでないというので見にいったところ、どうも最初は腹の具合がこちらと似たような感じで悪かったらしい。それがガンに発展してそれが腹腔内に散ってしまったがためにステージ4と診断されたらしい。そのことで、糞詰まり→ポリープ→大腸癌という経路があることに気付いてしまった。しかも大腸の腸壁は更新が早いのでポリープ未満のものができても腸壁の更新で治る事があるという。ならまずは腹の具合が悪くて糞詰まりみたいになってるのを解決するとよいのでは? そしてそういう体の流れの乱れみたいなのを治すには運動がよいのだろうが、それほど無理なく、しかも強制的にある程度の運動をさせられるとなると山登りが一番では?と気付いた。(山は登ったら降りるまで休みながらでも歩かないといけないから運動から逃げれない)

愛宕山登山

 ということで、幻聴前にやってた愛宕山登山を再開。最初はあんまりしんどいので神社までいけないくらい。歩くのもなにか体に逆の動きでブレーキかかっているのを無理に押していくような感じで、休み休み登るだけで五時間かかったりしていたが、毎週登ってみたところ、すこしづつ改善。体調はよくなってるがなんかブレーキがかかるのが問題というところで体の使い方に注意を向けるようになり、それで先週なんとか愛宕山の清滝の鳥居から上の神社まで二時間程度で登れた。

浅漬けソバ

 あとは食事だが、スーパーで売ってる安いぶっかけソバにスーパーで売ってる袋入りの浅漬けをぶっかけて食うという技をあみだして、それを中心に食うようになった。要は朝鮮の冷麺を食べたくなったが、どうも京都で食えるのはいまいちに感じるのに高い。そもそも冷麺とは何なのか? というところから研究した結果、麺は本来はソバを中心とした雑穀、スープは水キムチ、ということでソバと浅漬けを汁ごと食べるので代替できるではないかということにたどりついたというわけだ。それでか便通の方も徐々に改善。

腹と腰の感覚

 まぁそういう次第で、運動と食事両方からアプローチして腹と腰あたりの感覚の回復を目指してある程度の成果を得た。そうやってすこしづつ体の全体性を回復させる方向へ行くしかないだろう。後の事は後で考える。