メモ@inudaisho

君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

光沢系低反射フィルムの PDA工房「黒影」がすごい

光沢系低反射フィルムの PDA工房「黒影」がすごい

 youtube で知ったPDA工房「黒影」、試してみたらすごかったので久しぶりに記事を書く。

アンチグレアは嫌いだが光沢仕上げは反射する

 保護フィルムというのがあるがどんなものでもあれを貼ると結局なにかものをはさんだ感じがぬぐえず、アンチグレア系は早々にあきらめ、貼るなら光沢一択で百均の安くて薄い光沢フィルムを適当に切ってすませていた。貼らないのが一番いいがまぁ安物貼っといて汚れたらとりかえていけばそれでいいだろうという算段。なので過去に散々電子ペーパー記事を書きまた所持していたがその場合でも表面の艶消し加工を台無しにするようなテカテカフィルムを貼っていた。

 さて Mac方面でナノテクスチャという表面加工に凝ったものがでてきたせいで、画面保護フィルム業界でも艶消しというかアンチグレアというかその方向の新商品がでてきたらしく、Youtube電子ペーパー関係の動画を漫然と見てたらおすすめで出てくるようになった。ミヤビックスの 「Overlay Plus Premium」 とかPDA工房の「純黒クリア」だがどうもこれも動画や評価をみるとアンチグレア系なのだ。そんならダメだな~と思いながらみてたらさらにPDA工房の「黒影」というのがあると知った。これは光沢なのに低反射を実現しているという。


www.youtube.com

 この動画を作成した人も「くっきりしてないと気がすまない」系の人なので画面に対する要求の傾向が自分と似ている。ならその評価は見るところがありそうだ。

PDA工房「黒影」を注文

 PDA工房の「黒影」のページは以下の通り。

www.pdakobo.com

 「黒影」だが同社の保護フィルムの中ではそんなに高い方ではない。それもそのはずで、「黒影」の原理は光沢フィルムの上にもう一層薄い膜を貼り、光沢フィルムの表面で反射して薄膜を通りぬける光の位相を半分ずらすというものでわりとシンプルである。なぜずれるのかというのが味噌だがその薄膜の物理的性質でずれるのである。位相が半分ずれると打ち消しあうのだが、両方の面での反射量は同じではない(それに両方の面での反射のズレもある)ので打ち消して弱まり、低反射が実現されるというもの。光学的物理的に低反射を実現しているところがよい。要は素材の選択で性質が決まるのでその効果は保証されている。実際に試したら弱点もあったがそれはあとで書く。自分はまず手堅く「純黒クリア」と「黒影」のサンプル(5cm × 4cm 220円)をとりよせてスマホにはりつけしばらく試したあとでスマホ( Oppo reno 9a ) とタブレット ( garaxy tab S5e) 用を注文したというわけだ。

「黒影」「純黒クリア」のサンプルをスマホに貼ったところ

 サンプルをスマホに貼ったところがこの写真だがみればわかるように「低反射」という面では「純黒クリア」の方が強い。しかし近いところで見るスマホでは「純黒クリア」のアンチグレア面が目について若干くっきりさが損なわれるのでそこが気になる小うるさい自分のような人間にはよくないなというわけ。遠くから見るパソコンとかテレビとかならその艶消し感がいいかもしれない。

「黒影」のすごさ

 ちょっと今日の昼間、タブレットに貼った黒影を外に持ちだして写した写真でもみてもらおう。

白日下の「黒影」をはったタブレット

 写真にはフィルムを貼ってすぐなので気泡がのこっているが、これはそのうち消える。それより気泡が示しているのはフィルムがないときの反射具合なのでそれがかえってよい標識になる。これみたらわかるが白日下ではもっと空の光がうつって見えないはずのところがこれだけ見えてるのである。これでも十分威力を発揮しているが、これがさらに威力を発揮するのが室内でうっすら顔などがうつってるようなシチュエーションで、そういううっすらうつっているのが気にならないレベルまで落ちる。

室内で撮った写真

 白い壁紙が貼ってある室内で照明機器の下で写したのがこれ。みての通り、自分のハゲ頭も撮影に使ったスマホスマホを構えている指も見えない。そのかわり天井の照明機器はみえてるがそれはしかたない。それが見えないレベルまで艶消しのアンチグレアをかけるとその代償としてちょっとクッキリさが失われてしまう。画面のクッキリさのためにアンチグレアを避けていた人にとっては非常にありがたいというわけ。

弱点がないわけでもない

 さて褒めすぎてもあれなので弱点がないわけでもないことを示しておくと、完全に反射を消すわけではないので画面の黒い背景にうっすらなにか映るのは避けられないが、気にならないレベルまで抑えられている。あと、横からの光にはすこし弱い。レンズフレアのように若干発光するような具合になる。結局光の反射の具合を正面あるいはそれからすこしズレた角度のときの反射光が減るようにするカラクリなので光が強くなるような角度もあるということだ。これはスマホのように視野角が狭い画面だとほとんど弱点にならない。タブレットで黒地に白字みたいな画面にして光源にたいしていろんな角度をためしてみるとレンズフレアみたいな感じに光ることがあるが、今までの光沢画面と弱点が違うというだけで、ただの光沢画面よりは使える角度が広いし、そもそもその光るといってもたいして光るわけではない。ただ素の光沢画面だと光らないようなところで明るくなるのでそれが気になる人がいるかもしれない。

結論

 ということでアンチグレア嫌いで光沢画面を選んでいるような人にはおすすめ。自分もとりあえずタブレットに貼ったがさらにパソコンにも貼るかもしれない。ほかにも電子ペーパー端末にも貼りたいが十分稼動する端末がないので試すことができない。あと持ってるものを有機ELにまとめたので普通の液晶で試していない。液晶だとどうなるか試した方がよさそうだ。

しばらく使用してみての追記(20250104)

 いやとにかくすごい。くっきりはっきり見える。もうこれなしでないと画面みれないのではというくらい。艶消しだとモヤモヤするのでクリアな表面を選んでいた人はそのクリアな表面の弱点を弱めてくれてるし黒がはっきりして非常によい。まだPDA工房が正月休みなので追い買いできない。ぐぬぬ

幻聴対策としてのFMたれながし

幻聴の悪化

 去年2023年の12月くらいから幻聴とそれに伴う身体症状が悪化して自分でも何があったのかよく覚えていないのだが、12月1月は24時間幻聴や謎の身体症状で責めたてて寝かせないような責め方だった。2-3月はすこしマシになったのだが今度は謎の人体改造みたいな方向へチェンジ。4月になってから立命館の図書館へ金をはらって使えるようにしたところ、今度は背中を直接いじられるような感覚があり、体感的には背骨が二重になったような感じで背中から腰がおかしくなり、とにかくまともに動けないような感じになっていた。

パソコンもなぜか使えないのでひたすらロイヤルマッチ

 10月に一度パソコンがつかえなくなってからまた12月に起動できない状態になり、それからずっとサイトの日記も更新せず、パソコンも一度起動待ち画面でかたまって一晩中ブンブンうなったりしていたのでもう触りづらい状態だった。というわけでやる気もなくずーっとロイヤルマッチをやってた気がする。ロイヤルマッチだけは進捗がすすんで2024/08/10現在でステージ7329。一年でここまで来た。どうでもいいことだが。

 パソコンときどきさわってはまた起動画面で「かためられ」たりしていた。これは幻聴と連動しているのでもう感覚的には自分のいうところの幻聴組が監視していて気にさわるような事があるとパソコンの低レベルなところをいじって動かなくしているような感じしかないのだが、現象としては突然windows11がかたまって落ちるということを繰りかえしていただけだった。最近intelの13世代14世代の問題とどっかのセキュリティ会社のソフトの問題で世界中の大企業のパソコンが大規模にかたまったという事件があったが、自分からすると「幻聴組」に同じ事されてるようにしかみえないのだが、それは単に自分の身に起きたことを勝手に敷衍しているだけなので気にしないように。

身体症状の変化

 身体症状という面でいうと、その背骨の件のころと同時に全身がブヨブヨになった上、なぜか胸がふくらんで微乳のようになるという謎の現象があり女性ホルモンがでてるのかと医者にいって血液検査してもらったこともあった。結果は女性ホルモンとか全然ない。ではこの全身症状は何?みたいな感じになったが、まぁ自分の観念的には「幻聴組の謎の技術で謎の現象を起こされている」という感じであった。ちなみにときどき魔法とか幻聴で聞こえることがあるのだが、そういう妄想に落としこもうとしてるだけでそもそも「魔法」だとしてもその内実が何なのかはよくわからない。

料理に凝りだす

 ということでこんなに腰をこわされては肉体労働も無理なのでとりあえず山崎パンの工場とかでもいくしかないのかとか調べていたが、その一方で親が肉ばっかり食わせようとしてくるので感覚的には幻聴組が身体改造をたくらんでいてそれを親が補助させられてるようにしかみえない。ということで四月はしばらく京都の部屋に降りていたのだが、そのときリサイクルショップで千趣会が出してた『本になった料理学校』のシリーズが一冊80円で売ってたのを衝動買いしてしまい、幻聴責めで壊された読書能力を復活させるためにそのレシピ本をじっくり読んだりしたところで料理に興味がでてきた。その昔自炊していたころはひたすら中途半端な鍋的な野菜汁ばっかりという手抜き料理に落ち着いていたのだが、ちょっとそれよりはマシなものを作ろうということになって、インドカレー的なものとかつくっていた。あるときペルシャ料理のナスのペーストみたいなのをレシピをななめよみして適当につくってみたところ無茶苦茶うまいものができて驚いた。塩をまぶして「20分放置する」と書いてあるのをそんなに?と思いながらそのままやってみたのだが。小学校の給食のナスの田楽の印象がわるくてナスはあんまり好きではなかったのだが、この手間でこんなにナスがうまくなるのか!とびっくりしたわけ。他にも古本屋で買った『ぼくのおやつ』にあったホットケーキをふくらませる手順をやってみると本当にそうなってこれもびっくりした。で、その「料理をうまくするちょっとしたコツ」に興味がでてきてさらに図書館の本をよみだすことになり、今にいたる。

FMの効用

 さて本題の幻聴だが、幻聴がうるさいといってもよくよくその幻聴が聞こえている場所、つまり自分への入力として幻聴に意識を集中させてみると、外部から聞こえる実音声とはその意識を集中させる場所がすこし違う気がすることに気付いた。いやこれは前にも気付いたことがあったがそのころはむちゃくちゃうるさかったのでそれをどうともできなかった。最近の幻聴の音量レベルだとそれが別々の場所だということがわかり、たとえば外の音に耳をすませると幻聴に気がいかなくなる。これはたぶん人ごみの中でも話ができる人間のフィルタリング能力と関係しているかもしれない。そこでラジオをずっと聞くと幻聴対策にいいのではないか?と気付いたわけだ。

 実は冬の間にも中国語の音声をたれながすという方向で寝ている間の幻聴から逃れようとしていたのだが、寝ている間にアプリが落ちるので目覚めのころの幻聴を防げない。ということで結局あきらめていた。しかしバリコンで調整するタイプの古いラジカセでラジオをたれながすことで防げるのでは? 右耳のうなり抑制用の低周波をたれながすための外部スピーカとしてのラジカセを、その本来の用途でFMをたれながしてみたらこれが結構いける。それでラジオを一日中たれながすことにした。それ以来幻聴の心理的な負担がかなり低くなった。なんだこんな簡単なことかと思ったがそれに気付くのがすこし遅かったかもしれない。そもそも中高のころは短波ラジオやFMを聞いていたのである。

最近のFMの傾向

 さてかなりどうでもいいことだが最近のFMの傾向だがもうネットの時代になって時代遅れになったのかといえばそうではなく、むしろ時代がラジオに都合よくなってきたほうにもみえる。AMはほとんど聞いてなくてFMばかりなのだが、それでもSNSを活用して直接リスナーの声を拾えるようになっている。そもそもFMは声だけなのでこれtwitter(X)でのtweetをたれながしてるのと構造としてはかわらない。声だけなので多人数の声がまじると誰が誰かわからなくなる。ということでFMで聞こえてくる世界は一人だけあるいは高々数人でしかない。これがテレビだとテレビの画面だけで世界が完結してしまい視聴者はそれを拝見するだけになるがFMだと一人あるいは数人で無音時間をつくらないために必死で話しまくるのでリスナーの声はそれを補うのにちょうどよく、そもそも昔からリスナーのはがきなどの反応をとりこんでいる。ということでラジオの方もリスナーの声を直接拾えるSNSをかなり重視して、放送の中で普通にハッシュタグとかXとかなんとか言うようになっているのだ。まぁすでにtwitter(X)にもラジオに近いような仕組みがあり、たぶん放送法のからみで既存放送局はそこへ入りこめないのだが、入りこめるなら既存の番組をそこへそのままハメこめることができる。それだけでもテキストだけのSNSと声だけのラジオが無茶苦茶相性がよいことがわかるとおもう。

幻聴対策にラジオ

 ということで、幻聴対策としてラジオは効く。まぁあの、山歩きとかしてるとラジオをたれながしながら歩いてる人にでくわす事があるがあれも実は幻聴対策みたいな面があるのかもしれん。

呂不韋南越人説

呂不韋南越人説

秦の丞相 呂不韋の出身地

 呂不韋といえば、始皇帝の父親子楚が人質として趙に送られていたのに目をつけて秦王になるようはからい始皇帝を育てた商人出身の秦の丞相で「奇貨居くべし」の故事を残した人だが、いちおう『史記』には「呂不韋者,陽翟大賈人也」とあり今の河南省の禹州あたりにあった韓の商業都市陽翟の大商人ということになっている。ところが『戦国策』では「濮陽人呂不韋」とあるので今の山東省と河北省の境目くらいになるがこちらは春秋戦国の小諸侯の衛の首都で、こちらも古くから栄えた土地であった。漢の高祖劉邦が地方のならず者だった頃に目をつけて娘を嫁にやった富豪呂公が呂不韋の一族という説もあるのだが、これは濮陽と呂公の巣父、劉邦の沛県が地理的に近いというのが一つの根拠になっている。とにかく戦国末期の繁華な地域を商圏とした商人だったらしいということは共通認識だといってよいだろう。

 ということで自分は南越人説を考えてみようとおもう。南越は広東・広西・ベトナム北部だが、始皇帝が征服するまでは百越といってまだ統一国家段階にない多数の民族がいるところだった。上に書いた「呂公が呂不韋の一族説」(郭沫若や楠山修作など)よりは資料的な裏付けがある。

不韋県の由来

 今の雲南省ミャンマーに近い保山市のあたりに不韋県というのがあった。この不韋県の由来について考察している人がいて、資料的にはそこに紹介されている事に尽きる。解釈は別とする。

t-s.hatenablog.com

華陽國志曰「孝武置不韋縣、徙南越相呂嘉子孫宗族居之、因名不韋、以章其先人之惡。」

孫盛蜀世譜曰「初、秦徙呂不韋子弟宗族於蜀漢。漢武帝時、開西南夷、置郡縣、徙呂氏以充之、因曰不韋縣。」

 書いてある通りだとすると、不韋県が置かれたのはそのあたりが漢の武帝の侵略をうけて漢に降伏したのと同時なので、秦のころにここへ呂不韋の一族を流すことはできない。関係がある事だとするとそこで矛盾がでてくるので、単に関連事項が併記してあるだけだろう。とすればそこに書いてあるとおり、呂不韋は南越の宰相の呂嘉の一族の先人だということになる。以下その筋で考察する。

南越の経緯

 南越のことを書く前にここで年表にして整理すると

西暦 事項
BC237 呂不韋失脚
BC235 呂不韋自殺
BC236-221 秦の統一戦争
BC219 百越征伐開始
BC214 百越征服、南海郡設置
BC210 始皇帝の死
BC203 南越建国
BC202 項羽と劉邦の垓下の戦
BC195-180 呂氏の専横
BC112-111 漢の武帝の南越・西南夷征伐

 百越征伐の占領軍が秦の滅亡後、楚漢戦争の最中に自立したのが南越である。漢との関係は呂氏の専横時代は険悪だったが、それ以外はだいたい良好だったようだ。

呂嘉の一族

 呂嘉の一族について考える前に呂不韋がその一族だったとして、政権中枢の呂氏が植民地に勢力を扶植したという筋も考えられるのでその方向についてだが、上の年表でわかるようにそれはない。呂不韋一族が処罰されたのは秦の天下統一の前だった。呂不韋のあと秦の丞相になった李斯が天下統一を実現させている。呂不韋の一族は秦の中枢には残れなかったし遠征軍で重きをなすこともなかったとみた方がよい。次に漢の呂皇后の一族が属国を食い物にした可能性だがこれもない。その時期は逆に漢と南越との関係が最悪になり、南越が最大版図を誇った時代だった。

 呂嘉であるが史記の南越伝によると

其相呂嘉年長矣,相三王,宗族官仕為長吏者七十餘人,男盡尚王女,女盡嫁王子兄弟宗室,及蒼梧秦王有連。

 とあるので南越国重臣南越国内にかなり大きな人脈をもった一族ということになる。ベトナム史書大越史記全書』では出身地は九真郡、ベトナムタインホア省トースアン県のあたりとされている。史記の南越伝でも越人の信があったとされているので秦の占領軍出身ではなく、現地人出身だとみた方がよいだろう。

武帝の処置

 史記には南越の滅亡の際、王には漢に帰順する意思があったのに呂嘉が逆らって反乱したせいで戦争が一年つづいたと記述され、司馬遷はそのことを評して「呂嘉小忠,令佗無後」(目先の忠義にこだわって南越王初代趙佗の子孫を絶やしてしまった)と書いている。また本紀などでは「漢の使者と王、王太后」を殺したので滅ぼしたということになっている。

 ところが『史記』『漢書』などにはそのあとどうしたかが書いてない。特に司馬遷の同時代なので確実な材料が入るはずだが... なぜだろう。呂嘉を殺したという一報が入ったのでそれを祝してそのとき武帝が滞在していた汲の新中郷を獲嘉県(河南省新郷市)に変えたとは書いてあるので、皇帝が重大な関心をよせていたビッグイベントであったようだ。呂嘉を非難する上奏文(つまり皇帝の意向に同調した文章)も列伝の方に残っている。なのに、である。

 南越がみせしめとなって雲南方面も続々と降伏したわけだが、そのうち滇が益州郡となったことがわかる。その『漢書』の地理志に郡県の一覧があるが、そこには益州郡のなかに「不韋」があるので,その時不韋県が成立したのは確実であるが、どういうわけでそういう名前にしたかもわからない。

財宝の地 南越

 さてここで、ひとまず記述のたりない方面から離れて別の方向からこの問題にとりくんでみよう。まず南越の産物。呂氏の専横のあと関係回復のために派遣された陸賈は南越の返事をもって文帝へ報告した。そこには南越王の献上物が挙げられている。

白璧一雙,翠鳥千,犀角十,紫貝五百,桂蠹一器,生翠四十雙,孔雀二雙。

 まぁよくわからんがキレイな石や鳥、あるいは角など、宝玉の類が送られている。当地の産物で最もよいものを贈ったはずだからこういう珍品が名物なわけだ。では漢書の地理志にはどのように紹介されているか。

處近海,多犀、象、毒冒、珠璣、銀、銅、果、布之湊,中國往商賈者多取富焉。

 (当時の広州は)海に近く、犀や象の角、タイマイなどの宝物が集まると書いてある。そのあとの「中國往商賈者」は「中国人で商売に行く人」なのか「中国へ商売に行く人」なのかよくわからんが、細かくいわずともわかるだろう。こういうものの産地なので当時の中心である華北に持っていくだけで大きな商売ができるということだ。

陸賈 の商売

 それを端的に示すのが南越王への使者になった陸賈のエピソードだ。陸賈は劉邦から南越王へハンコを渡すようにいわれ、つまり帰順せよということだが、南越王を説得したうえ意気投合して帰りには値千金の真珠の類の宝物をお土産にもらって帰る。劉邦の死後呂氏専横期間に陸賈も睨まれたのでとっととやめてしまい、その宝物をとりだして金に変え、子供達の間をわたり歩き居所を定めない生活をしながら反呂氏の策をねりあげ、みごとクーデターを成功させるのである。

呂不韋の商売とは?

 さてここまで書いたら自分が推測していることが何かわかるだろう。呂不韋は何を商っていたのか?「往來販賤賣貴,家累千金」とある「安いものを売って高く売る」程度で千金も貯まるものとは何か?そして各地の王侯貴族に簡単に近づけてとりいることができるような物とは?

 ということで、呂嘉の先人が呂不韋だという華陽国志の記述が生きてくるのである。南越のあたりに地盤をはる呂氏一族が南海の珍奇な産物を中国中央の王侯貴族へ売りつける現地駐在員が呂不韋だとみれば話がかなりわかりやすくなってくる。そういうものを売る商売なので当然各地の王侯貴族、あるいは大商人・資産家・金持ち、さらにはその奥様お嬢様方が顧客で、それらの間を忙しく動きまわるのが当然のこととなる。呂不韋が売ってるもの自体が「奇貨」なので自然と「奇貨」を見出して金にする考えを身につけており、それを人間に対して応用するのも当然となる。

先駆者 范蠡

 さらに百越ではないが、越王勾践を支えてのちに商売で成功した越人に范蠡がいる。他ならぬその『史記』列伝の最後の太史公自序の前には「貨殖列伝」があって各種の金儲けをした人たちが紹介されているという歴史書(史記が歴史書なのかどうかは微妙だが)としては不思議な部分があるが、その冒頭を飾るのが越人范蠡なのだ。范蠡が何を商ってのちにその偽名陶朱公が富豪の代名詞となるほどの富を得たのだろうか?

百越遠征

 秦の百越遠征は六国統一のあとなのでその延長上で語られるが、よく気候が違いすぎるのでそんなにうまくはいってないというような説明がされることが多い。しかしそれは秦の暴政を言うための言説で駐屯軍が自立して国つくるくらいだから失敗ではなかったのだろう。桂林の近くに霊渠という運河があり、それで広東方面と湖南方面の水系を接続したというので見にいったことがあるが、なんで秦のころにそんなところに必死こいて運河を掘ってまで南北を接続したのかわりと不思議だったが、戦国末期にすでに南海貿易が盛んになっていたので宝物の土地みたいにみられていたとすればわからんでもない。

出土する貝の装飾品

 今の中国へいって博物館などで出土資料を漫然とみていると、日本での常識となんか違う事がある。その一つが貝の装飾品で、日本では、漢代の中国ではこんな豪華で巧緻なものが出てくるのに、同時代の日本は遅れていて貝殻が装飾品になってるとかいう言説が横行している。漢代までは厚葬の時代なので漢代の遺物は大量に発掘されているのだが、秦や漢の中国の出土物として日本人が思っているのは上澄みで、下の方では日本と大してかわらない貝殻を装飾品にしているということがわかる。物質生活として比較すると中国の方が豊かだったのはまちがいないだろうが、南の海で取れるキレイな貝殻も立派な装飾品として日本と同じように中国でも流通していたのである。

結論

 ということで、南越人...というよりは百越出身の呂不韋は十分ありうると思うのだがどうだろうか。珍宝で秦王室に近づいた男・呂不韋みたいな話になっていろいろ面白くなる。漢の呂公・呂氏一族との関係はまた別の問題になるが、漢の武帝呂不韋ならびに呂氏の係累として南越の呂嘉をみており、名指しで潰しにかかったので呂嘉は反乱を起こしてみごと失敗し、一族は雲南で新しく帰附した雲南の王の一番遠い領地へ流され、土地に「不韋」の名前をつけられた、という見方もできなくはない。

 そうだとするとなぜ司馬遷がそんなおもしろい事を書かなかったのかという重大な問題がある。武帝の身近く仕える身ではあるが、結構好き勝手書いてるのにそれを書かなかったのはなぜか... ということで矛盾が明らかとなるので、このお話はここまでとする。どうせ結論なんか出ない。

ユダヤ問題の理解に重要な東欧史

ユダヤ問題の理解に重要な東欧史

 パレスチナ問題はもとよりロシア・ウクライナ戦争でも重要なポジションをしめているユダヤ人だが、その現代の事に深入りしてもろくな事はないので、どっちがどうこうとかいうのはさておき、その背景となってる事をさぐるうちに、結構重要な歴史が日本の高校世界史レベルの知識から欠けていることに気付いたので書いとく。またこれは最近流布されているユダヤ陰謀論の背景にもなってるので、アウトラインでも知っておくとより一層陰謀論を楽しめるようになること請け合い。

世界史の記述が薄い地域

 人間の認識の限界、また共有できる知識の限界の問題で、歴史というのはお話として理解されるものだが、メインストーリーを立てると抜けおちてしまう地域というのがある。それが西洋史においてはビザンツ・東欧だが、それには理由がある。西洋史のメインストーリーはドイツ史で構成されていて、それにイギリス・フランスがついている感じになっている。そこでドイツの近くなのに都合が悪い、またはすこし縁が遠くなってしまうのがビザンツ・東欧で、そのあたりはかなり雑な記述になってしまう。

三十年戦争西洋史

 もう一つ理由があって、高校の世界史だと記憶力を鍛錬するために存在するかのような複雑な箇所がいくつかあるが、その一つにドイツの三十年戦争がある。この結末のウエストファリア条約が以後のヨーロッパを決定づけたみたいな理解がされている。まぁ図式的な理解でいうとそこで神聖ローマ帝国が終わったということになり、近現代の列強が飛びだしてくるということになるが、ドイツのま横にいるのにこの戦争に参加してないことになってる国がある。それがポーランドだ。ポーランドはその後分割される可哀想な国として出てくるだけで非常に影が薄い。自分もその語ロシア史だけの本を読んで、ロシアはその昔ポーランドに滅ぼされそうになったのか、という理解しかなかった。なにせ日本の明治維新のときにはポーランドは分割されて一世紀もたっていたし、明治維新すぐの普仏戦争でのドイツの勝利で、地方分権から中央集権へ移行する近代のモデルがドイツとなったのだから、それもしかたあるまい。しかし実はポーランド三十年戦争の期間に三十年戦争の一方の勝利者であるスウェーデンと戦争しているのである。ドイツを中心として考えると消えてしまうが、確実にそこにあり関与もしていたのがそのときのポーランドだった。

プロシア(プロイセン)の出自とプロテスタントユダヤ

 またドイツ統一の立役者はプロシア(プロイセン)だが、その出自を考えるとまたポーランドは無視できなくなる。もっとわかりやすく言うとプロテスタント史として高校世界史をながめるとかなりわかりやすくなってくる。プロシアは最初のルター派国家なのだが、出自は北方十字軍(敵は異教徒のリトアニア)のドイツ騎士団で、ドイツ本国から離れバルト海沿岸にポーランドリトアニア王国に食いこむようにして存在しており、ルター派を受容したときはポーランドの宗主権下にあった。そのポーランドリトアニアリトアニアがバルト語族の異教徒で、ポーランドカトリックという感じの緩い国だった。そして一番重要なのは、ポーランドがそうした緩い国なので、西欧・中欧でのユダヤ人排斥の逃げ場となり、ユダヤ人が集まる国となっていたのだった。このあたりの事はG7の中で唯一の異教徒である日本の立場を考えるとわかりやすいかもしれない。まぁしかしそういう場所だからカトリックからみると異端だったプロテスタントの国家が存在できたと考えることもできる。だから日本にキリスト教の異常カルトが集まってくるのか。トホホ

リトアニアポーランド

異教徒の国 リトアニア

 リトアニアバルト三国として一括して語られることが多いが、バルト三国の中では別格ともいえる。リトアニアはモンゴルがキエフ・ルーシをぶっつぶした後急速に拡大して黒海沿岸まで支配地域をひろげることになるが、「ヨーロッパ」として考えると異色なのがキリスト教徒ではなく、異教徒であったということで、バイキングのデンマークスウェーデン、スラブ系のポーランドなど周辺の異教徒たちが西暦1000年前後にキリスト教に改宗してしまった中では最後の異教徒集団であった。*1 リトアニア黒海沿岸まで支配をのばしたあと*2ポーランドとの通婚で合同王国になり、カトリック国のポーランドキリスト教に改宗する。それによってドイツ騎士団の牙を抜いたということになるが、支配層がキリスト教化しただけなので完全にはまだそのころには完全に下まで浸透していない。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8c/Map_of_the_Grand_Duchy_of_Lithuania_%28pink%29_and_the_Crown_of_the_Kingdom_of_Poland_%28red%29_in_1386_-_1434.png/1041px-Map_of_the_Grand_Duchy_of_Lithuania_%28pink%29_and_the_Crown_of_the_Kingdom_of_Poland_%28red%29_in_1386_-_1434.png

wikipediaより リトアニアポーランド 1386-1434

User:Poznaniak - Wikimedia Commons 画像の作者

ファイル:Map of the Grand Duchy of Lithuania (pink) and the Crown of the Kingdom of Poland (red) in 1386 - 1434.png - Wikipedia

ポーランドとの合同から選挙王政の共和国へ

 ポーランドとの通婚だが、ポーランドのカジミェシュ3世が1370年に跡継ぎのないまま死に、ハンガリー王のラヨシュ1世が入るがこれも1382年に跡継ぎのないまま死んで、ポーランドは末娘のヤドヴィガが継承。というところへリトアニアのヨガイラと結婚して同君連合になる(1385クレヴォ合同)。つまりこのころの王というのはよそから持ってきてスゲ代えたりできるものだったらしい。それはシェラフタという貴族のような騎士階層に支持される形だったから。とはいえ構造的には西欧で貴族が王を支えているのとかわらないのだが、このシェラフタは西欧の貴族と比べると人口比率にして多く、自身が就労したりもするので、日本の武士と比較されやすい。 はいここ注目ですね。リトアニアポーランド王国は異教徒の部分もあり、また日本の武士のようなものに支えられていた。つまり日本は西洋の文脈ではこいつらと比較されやすいというわけ!

 一方で東のロシアがジワジワと勢力をのばしていたので1569年にはルブリン合同として政体をひとつにした。そして1572年にはジグムント2世がこれも跡継ぎを残さず死んだので以後は王をシュラフタの選挙で外国から迎える王を選び、議会で承認するという体制つまり共和国体制をとった。これによってリトアニアポーランド化が進行してしまう。ということで以下ポーランドとして記述していくのですが、周辺が絶対王政へ向けて中央集権を進めていく中でそれよりもかなり近代的な体制をとったポーランドがどうなったかというと、シェラフタの中の階層差を解消できず腐敗が進行、つまり権力を完全に掌握できないので権力集中が分散し、外国からの介入を防げずグダグダとなり、フランス革命アメリカの建国があった18世紀後半にプロシア(プロイセン)・ロシア・オーストリアに分割されて消滅するというハメになる。

現代史の因縁からポーランド・リトアニア共和国をみる

ユダヤ人の集住地

 さて今のウクライナの領域にはユダヤ人が集住しており、ユダヤ教の中で普通「超正統派」と呼ばれているハレディムの人たちの聖地まである。これはどういうことかというと、このリトアニアポーランド王国は先に書いたとおりもともと異教徒のリトアニアが勢力をのばして正教圏の旧キエフルーシ、カトリック圏のポーランドをのみこみ文化的にはポーランドに優越されたような国なのでキリスト教の力が他のヨーロッパ地域に比べてよわい。そのためにヨーロッパでユダヤ人の迫害気運がたかまると逃げ場として最適だったからだろう。15世紀末に追放されたことがあるらしいが8年で戻ってきたらしい。またキリスト教徒が迫害するといってもキリスト教徒のできないことをユダヤ教徒がやって稼ぐみたいな一種の相補依存関係にあるので、たとえばポーランドがルブリン合同でリトアニアが押さえていたウクライナの平原部をくみこむと、シェラフタが一種の植民地のようにウクライナへ進出し、そのとき手先としてユダヤ人が活躍したのでウクライナ・コサックの反感を得て、フメリニツキーの乱にともなうユダヤ人の虐殺が起こったとされる。ちなみにポーランドが西欧のユダヤ人を正式に誘致するアレンダ制をしいたのはルブリン合同と同じ1569年なので、そういうところからも陰謀論が湧いてきそうではある。それはともかくそのようにしてドイツから来たユダヤ人はこうして人口を増やしたのでのちにユダヤ人の中で「アシュケナージ」ドイツ語の方言であるイディッシュ語を話す人たちとして分類されるようになる。

 それはともかく、現代のユダヤ教にとってもこの地域は重要で、ユダヤ教カバラをとりこんで神秘主義化した時代はこのポーランドユダヤ人が栄えていた時代と重なっているために、そこからやばいカルトが派生している。サバタイ・ツヴィ(シャブタイ・ツヴィ)やヤコブ・フランクで、彼らは結局イスラム教やキリスト教に改宗して消えていったが、今の超正統派のハレディムもカバラをとりこんで以後発展したもので、超正統派も正統派もそういったカルトが起こした変化の影響は受けているらしい。

 しかしこのヤコブ・フランクのカルトは異常だったので「フランキスト」は異常者を罵しる言葉として残っており、世俗化したユダヤ人もゴリゴリにユダヤ教の教えを守ってる人たちからすると異常者なのでフランキストとレッテルを貼ることもありそうで、陰謀論もそういう罵倒成分から湧いてくる妄想がありそうだ。ちなみにヤコブフランクの一派が落ちついた先はフランクフルトの近くなのでロスチャイルド家と関連づけられることもあるし、サバタイ派がイスラム化したとされる集団が集住してるのがテッサロニキで、テッサロニキはアタテュルクの出身地なのでそれを関連づけた陰謀論もある。

 ちなみに黒海沿岸のハザール帝国のユダヤ人と関連づけられるのもこの人たちだが、その心は中東系っぽいのがユダヤ人なのにいきなり白人みたいなユダヤ人が増えてるので偽ユダヤだろというもの。そもそもキエフルーシの成立にもハザール帝国は関連しているのでルーシの末裔を名乗る人達はそのあたりの事に興味津々だが、リトアニア大公国にいたユダヤ人とハザール帝国の遺民が全く関係ないとまでは断言できないものの人口としては少数だっただろうしラインラントにいたユダヤ人が招かれた経緯や増えるのもはっきりしているのでそこまで邪推する必要もない。ポーランドで栄えた時期と神秘主義化した時期が重なってるので邪推されやすいだけだろう。現代の問題はあくまでも現代の問題である。過去に理由をつけておかしい事をする人達がわるいのである。ちなみにその超正統派の人がナチスホロコーストで一番被害を被っていてイスラエル建国時にはイスラエル国民として数百人しかいなかったのだが今や数万人まで増えているので人間も条件が整えば無茶苦茶増えるということである。

同じスラブ系の国ロシア

 さてポーランド・リトアニア共和国の範囲はほぼ今のリトアニアポーランドベラルーシウクライナなのだが、リトアニア以外の三国と同じスラブ系の国としてロシアがある。キエフルーシが消滅したあとその後継国家はキエフにはたたず逃亡国家がいくつかできてそのうちモスクワ大公国がモンゴル支配の代官として重きをなすようになったとされるのだが、リトアニアの支配も二重支配とかいってたようになんかあやしい記述が多いのでよくわからん。ロシアの視点からみるとリトアニアはモンゴルの同盟者であり、常にリトアニア支配下にないスラブ系国家を支配下に組みこもうとする連中なわけだ。実際リトアニア大公国はヴィリニュスを第二のキエフにするつもりだったらしい。ただし結果的にモスクワ大公国は消えず強勢に向かいリトアニアは全ルーシの支配者になれなかった。しかしルブリン合同の後1598年にロシアのリューリク朝は断絶し、混乱の時代に突入し複数の「偽ドミトリー」などが出現する時代になるのだが、その一人はポーランドの後ろ盾を得ていたりする。ロシア史の記述でもこのときが滅亡の危機で、それを救うためにロマノフ朝が登場したという筋書になっている。まぁつまりロシア帝国の歴史はポーランドをロシアの生存を脅かす敵として記述しており実際に18世紀後半になってポーランドを分割して飲みこんでしまうのである。

 もう一つ重要なことがあって、ロシアはユダヤ人を排除してきた。15世紀から16世紀にかけてスハリヤユダヤ教団というのがありそれがユダヤ人によるものかどうかはわからないが、そのせいで異教徒に厳しくなった。その後、ポーランド分割で支配下に大量のユダヤ人を抱えこむことになってしまうが、ユダヤ人に慣れてるプロシアオーストリアと違ってロシアはユダヤ人対策に始めて直面することになり、結果的にポグロムにつながった。それによって西方へのユダヤ人の逃避がおこり、今度はそれがホロコーストの遠因にもなった。また、イスラエル建国の父ベングリオンロシア帝国ポーランドユダヤ人だしロシア革命のときもユダヤ人の活躍がみられたので、あのあたりになんか問題があるのだろう。

プロシアの興起とポーランド

 既に書いたようにプロシア(プロイセン)が国としては最初にプロテスタント(ルター派)の国となったのだが、それが可能だったのはリトアニアポーランド王国に囲まれてドイツ本国と離れていたからだろう。プロシア(プロイセン)を踏み台にしてスカンジナビア半島の方へも布教が行われたのが後の三十年戦争で効いてくるのだが、ここではもうすこし違うことを指摘すると高校世界史レベルでもプロシア(プロイセン)のユンカーというのを習うが、さてそれはポーランドのシェラフタとどれだけ違うのか?という問題だ。つまりプロシア(プロイセン)はドイツと違って大土地所有が進んで、という解説が進むが、ではその後背地であったポーランドのそれとどれだけ違うのか?かなり似ているのではないか?という話だ。そう考えると、プロシア(プロイセン)の興起はプロテスタントと結びつけられることが多く、実際その後にまた後継問題で同じプロテスタントブランデンブルク選帝侯領と「同君連合」が成立してドイツへ進出するのが後のドイツ帝国への足掛かりになるのだが、その後ポーランドを分割するとシェラフタはそのままユンカーとなってプロシア(プロイセン)に仕えたのでプロシア(プロイセン)というのはポーランド化したドイツ、あるいはドイツ化したポーランドみたいな話になって話が面白くなってくる。また、そのあたりが高校世界史レベルまでドイツ史を骨抜きするとポーランドの影がなくなってしまう原因だろう。

アメリカとポーランド

 さてリトアニアポーランド共和国の選挙王制をみてなにか思うところはないだろうか。これはシェラフタによる制限選挙だが、アメリカの選挙はなぜか選挙人を選挙して大統領を選ぶという仕組みになっている。アメリカの大統領は期限付きの王のように振舞うので、前はイギリスの古い議会制度を反映してるんだと思っていた。むしろリトアニアポーランド共和国の方が似てるんじゃなかろうか。ポーランド分割とアメリカの建国は同時期だが、アメリカ独立戦争にはポーランド人も参加している。日本からみればポーランドは学ぶところのない敗者に見えたかもしれないが、現実に日本が沈みだしている今、ポーランド史はもっと注目するべき事柄ではなかろうか。

イエズス会の活躍

 異教徒国リトアニアの日本との類似でいうと、ここもイエズス会が活躍している。ポーランドカトリックで、リトアニアの方は正教会が布教していたが、ルブリン合同のあとどうなるのか。1596年に正教圏の東部には合同教会を置き、権威はカトリック典礼は正教という仕組みになった。そしてその一方でイエズス会が学校を設置して教育のかたわらカトリックの布教をやりだした。これによって正教会の側もイエズス会の学校をマネして学校をつくって正教会側の知識人を養成することになり、さらにそれがロシアのピョートル大帝の改革を支えた知識人の一部になったらしい。

フス派とポーランド

 チェコはロシア以外の東欧のスラブ系の国としては唯一高校世界史での扱いが大きいが、それは政治的にはドイツの一部だったからで、これもドイツ史が西洋史の中心になっているという話を越えない。ところでフス戦争というのがあり、謎の箱車に火器を装備した武装でフス派が暴れるというのがいきなりでてくるが、あれも同時期にリトアニアポーランドが合同してスラブ系を組みこんだ大国がその東側に誕生していたという背景があると見方もかわってくる。

*1:ちなみに西暦1000年頃にそういう動きがあったのは「千年王国」の1000と関係があるとされる。もっとどうでもいい小耳情報としては1000-666は334となる。こういう数字あわせはバカ.....いや催眠や暗示に弱い人を釣るのによく使われるので覚えておくと陰謀論を楽しむのに便利。もっというと催眠や暗示は人間の弱点を突いてくるもので抵抗しにくいため、知識で距離を置いて楽しむしかないのだが、実はその人間の知識という機能が催眠や暗示の根源であり、人間は心を磨くしか逃げ道はないのだ。

*2:それはどうもゴールデンオルドとの二重統治みたいな状態だったっぽく本によって書いてあることがふらふらするがどうもモスクワ大公国とおなじで代官やってたのではないか

有機EL環境

有機EL環境

 さてパソコン・スマホタブレットを全て有機ELにして数ヶ月たって目も慣れてきたのでその結果を言うと、かなりよい。液晶の方をみるとなんか目がシバシバするようになってきた。これはテレビみたいに遠くから見るものだと普通に見れるので、近くで液晶をみるのがなんかよくないのかもしれない。で、目に一番近いところでみる環境がスマホ( oppo reno 9a )の有機ELになるが、これが目にしっくりくる。去年買ってあれこれ言いながらも使っていたEIZOの32インチ液晶モニターもときどきデカい画面で確認するために繋げるだけで、あまりつかわなくなってきた(もったいない!)。

 ではこの液晶モニター有機ELだったら目がシバシバしないのか?というとそれはわからない。今の大型の有機ELテレビはカラーフィルター方式で表面の構造はむしろ普通の液晶モニターに近い。実際に去年最初に有機ELテレビをモニター代わりに買ってみてなんか目が痛いので速攻返品したという経緯がある。サムスンが大型化でカラーフィルター方式のLGに遅れをとって、まだせいぜいパソコンの画面程度の大きさどまりなのでそうなったが、oppoスマホ有機EL中国企業なので中国企業が大型化に成功するかもしれない。

 ただ最近の趨勢をみると、中国企業が韓国企業をのりこえようとしたらアメリカが市場から締めだして潰しに来るのでそういう日もこないかもしれないが、米中貿易戦争も昨今の戦争でかなりフェーズがかわってきてるのでどうなるかはよくわからん。自分もファーウェイがやばいとか騒がれた時はかなりうのみにしてたが、サムスンが Exynos に電話番号だけでアクセスできる裏口しこんでたのをバグとして Google に暴露されてたのを知ってから、自分らもやってたから中国もやってるだろうとみたのか、あるいは韓国やイスラエルがそのように告げ口してたのだろうと思うようになってきた。

 まぁそれはともかく、中国企業有機ELのカラーフィルター方式ではない大型化に成功したとしても、どうせ高いので現実的には65インチなどのむちゃくちゃ大きな液晶テレビを買ってパソコンをつなげてテレビと同じような距離でみるようにするくらいしかないだろう。つまり知り合いが65インチテレビをモニター代わりにつかってるのをみて大型モニターを検討しだしたときに戻るのだが。