メモ@inudaisho

君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

電子ペーパーと有機EL

電子ペーパー有機EL

 一時期電子ペーパー端末を盛んに買ったりブログにいろいろ書いたりしていたが、幻聴とか出てからほぼ書かなくなった。しかし自分が買ってたころよりも端末の性能があがり、かなり実用的になっているらしい。

 しかし自分は単に家庭を持っていないから余分な物を買えるだけで、生活自体はかなり出費を抑えたものなので電子ペーパー端末も数個買ってしまうともうそれ以上買うような余裕はない。その一方で、有機ELの端末がかなり安くで買えるようになってきた。ということで2022年2月にイオシスが22222円で Galaxy Tab S5e を売ってたのでそのときに買ったがそれからそればかり使っている。電子ペーパーの Boox Nova Pro はスイッチが壊れてしまったのでいちいち起動させるのが面倒になり使わなくなった。ということで比較していこう。

有機ELの優位と短所

 有機EL端末の優位だが、タブレットとして液晶とはりあってここまで来ているのでCPUの性能も高く反応がよい。また画面の精細さもかなりあって映像や画像など見るには十分すぎるくらいきれいである。したがって、読書端末としてみると pdf とかを何個もみたりするときに楽だしページめくりも迅速で、pdf の指定の場所へすぐ動けるあたりもよい。

 しかし読書端末としてみると当然ながらその長所が活きてこないところもある。まず読書端末は一点を凝視するので、有機ELや液晶のような発光体だと目への負担が大きい。有機ELは黒地に白字で表示させると放電を減らせるのでそうしてみているが、それでしばらく見るとどうなるかというと、目をつむったときに文字列が残像として残るのである。そして目がチラチラしてくる。長時間凝視するとよくないわけだが字を読むというのは凝視することなので、結果的にそうなるわけだ。

 あと液晶と有機ELでは目の使い方が違うっぽくて目の力のかかり方がかわるように感じる。その原因はおそらくカラーフィルターによる視差だと思っていて、だから有機ELの方がよいと思っていたのだが、こうして使いこんでみると、慣れてしまえば大差ないようにも感じる。それよりは発光体の負荷の方が大きく、むしろ表面処理がよくできてる液晶の方がよいのではという気もする。とはいえこういう思い込みは実売して確かめられることではないのでわからない。

電子ペーパーの優位

 こうしてみるとやっぱり電子ペーパー端末の方が目への負担はすくない。発光体ではないから目へのストレスが少ないのだ。しかし結局は光を通してみるので見すぎると残像が出るのはかわらないのだが、やはりそれも発光体と程度が違ってくる。

 その他に画面の細かさも実は電子ペーパーの方がよい。「解像度」で比較すると電子ペーパーについては300dpiが上限とかいう数字が出てくるが、現実にはもっと細かい。電子ペーパー端末がいう「解像度」は制御できる単位の細かさであって、現実の粒子の細かさではないからである。電子ペーパーの原理などを調べると、インクの粒子をおさめるカプセルがありそのカプセルの図が説明によくつかわれているがそのカプセルの単位とあまり関係なく制御されている。つまり黒白の境界は白黒インクの粒子できまる。要は画面で環境光を反射して字や線などが見える最小単位は「制御できる単位の細かさ」を示す解像度ではなく、そのインクの粒々一個一個になる。

 これについてだが、電子ペーパーに表示される字などをみて、前からその説明につかわれる画素密度などに比べて精細にみえるような気がしていたのだが、カラーフィルター式のカラー電子ペーパーがでてきてその顕微鏡写真をみながら興味のある人があーだこーだと言ってるときに気付いた。カラーフィルターの単位に比べて電子ペーパーの白黒の粒が細かすぎるのである。

 凸版印刷のサイトにある説明画像はこれ↓

https://www.toppan.co.jp/denshipaper/img/subpage01-img01.jpg

 つまり、液晶や有機ELは人間が設計した格子がそのまま画面の粒の細かさとなっている。電子ペーパー端末は制御できる格子の粗さは液晶や有機ELとかわらないのだが、それが表現される粒子の粒はインク粒子なので物理的な細かさははるかに細かく表現できている。なぜ電子ペーパーの方が目にいいのかよくわからんかったが、かなり精細な有機ELとか持ってみてわかったのは、物理的な細かさでは電子ペーパーの方が圧倒的に細かく、凝視に耐える細かさを持っているからだ。実際に液晶や有機ELを凝視すると格子が見えてくるが電子ペーパーはそれがない。液晶とか有機ELを睨みつづけると目がチラチラしてくるのもその格子が見えてくるのが原因だろう。あんまり細かい表示をするには向いてないということかもしれない。

反応のいい電子ペーパー端末

 となると待ち望まれるのは反応のよい電子ペーパー端末になるがどうも最近の電子ペーパー端末は性能を上げてきてるらしいので、最近出たのを買えばよいことになる。昔の電子ペーパー端末は長時間電池が持つのを売りにしてたのでなかなか性能を上げづらかった。ようやくなんとか使えるのがでてきたということでめでたいめでたい。

既存PDFに目次をつける PyMuPDF篇

既存PDFに目次をつける PyMuPDF篇

 10年くらい前に既存のpdfに目次をつけるためにいろいろ調べて書いといたが、それからまた状況がかわってるので新しく記事を書いて情報を共有する。

inudaisho.hatenablog.com

 いやまぁいちいち書いて知らせる必要はないかもしれんが、google で検索すると↑を改造したような記事を書いてる奴がでてくるんだがその記事の頃なら既にもっと簡単にできる方法があったのになんでそんな面倒な手法にとびついたのかよくわからん。ということでより簡単な方法を提示しておく。

PyMuPDF 1.21

 PyMuPDFの最新バージョンには目次を書きこむための set_toc(配列) というすばらしく簡単な関数がある。これがどれくらい簡単かというと

import fitz
#pdf読み込み
oPdf = fitz.open( "a.pdf" )
#目次の配列を食わせる
oPdf.set_toc( a目次の配列 )
#上書き保存
oPdf.saveIncr() 
#別名で保存
oPdf.save( "b.pdf" )

 くらい簡単に書ける。配列の構成は

[[レベル, テキスト, index],[...],[...]]

 という感じ。まぁ具体的には

github.com

 こんな感じなのでこれをみて適当にいじったらよい。この例ではcsvを食わせるようになっている。試してないが、配列の四つめに目次のページ内の位置を高さで設定できるらしい。自分はテキストに「ページ、タブ(個数でレベルを表現)、目次のテキスト」という感じで書いてそれを解析させてるがまぁそういう小手先のことはどうでもいいだろう。バージョンに注意。Debian標準のだとまだ対応していない(1.17.4)ので

pip3 install --upgrade pymupdf 

した。

同じページに違うレベルの目次を置ける!

 これのすごいのは同じページに違うレベルの目次を置けるということで、たとえば

a目次の配列= [
[1, "第一章 アインソフ", 1],
[2, "第一節 流出", 1],
[2, "第二節 光", 15],
[2, "第三節 無限光", 25],
[2, "注", 55],
[1, "第二章 アダム・カダモン", 55],
[2, "第一節 両性具有", 55],
]

 みたいにレベルが下がるときに重複できるだけではなく、レベルが上がるときでも重複できる。今まで使ってたreportlabの関数だと一つのページに一つしか置けないので階層化してもなんかあんまりキレイではなかった。というわけで、今までよりも凝った設定が簡単な記述で実現できるのでメンテナンス性もよくこれを採用することにした。ちなみにreportlabを使った方が軽いがやっぱり目次はちゃんと構造化できる方が大事なのでこれでいい。

 それから関数にget_tocなんかもあるのであるいはちゃんと掃除してから目次をつけてくれるのかと思ったが、実験したら目次をつけなおせばつけなおすほどファイルサイズが増大するので目次をつけるとき何度も修正する人は別名にしておいた方が無難。

Dell Inspiron 16 2-in-1 (7620) (4KOLED)

Dell Inspiron 16 2-in-1 (7620) (4KOLED)

 去年の秋だが幻聴がでてるんだからどうせもう死ぬんだろうということで、ノートパソコンを買いかえた。前の富士通FMVT90Tはそんなに悪くなかったのでもっと使っていてもよかったのだが、幻聴が出る前くらいに怪異現象でいきなり軸が折れたりキーボードが壊れたりしていたのでかなり使いづらくなっていた。まぁそれから二年くらいキーボード外付けで使っていたがよくそんな面倒な状態で使っていたものだ。

 もっとも選ぶ条件として画面が狭いので最近安くなってる4Kテレビを外部出力にしたいけどFMVT90Tの頃のパソコンは4K60Hz出力に対応してなかったとかいうところなのでまぁいろいろズレてはいる。しかし幻聴がでてるので判断条件がズレるのは致し方ないところである。まぁごちゃごちゃ書いてもしかたないので新調して解決したということにしておこう。ちなみに液晶自体が目に悪そうなのでなるだけ大型を買って遠くから見た方がよさそうという結論になりそう。

 ということでDell Inspiron 16 2-in-1 7620 (4KOLED)だがこれだけごちゃごちゃ書かないといけないのはDellが予約販売をしていて注文次第工場で作るという体制で細かいバリエーションに対応しているからである。こっちも探すときは大変だったが、4KOLEDで16インチで2in1と条件をしぼっていったらこれくらいしか買えそうなのがない。あとは30万コースになる。さらにこれは最近のノートパソコンにはめずらしくメモリもSSDも交換できる。そのかわり最新規格ではないがその方が安くで増設できてさらによい。

↑ちなみにこれはちょっと違う奴で標準仕様なら日本国内に在庫しててすぐ来るらしい。

メモリの増設

 メモリの増設だが、Crucialのサイトではこのマシン64GBまで増設できると出る。仕様書では16x2の32GBまで対応と書いてあるのだが、アメリカの会社のパソコンにアメリカのメモリ会社がそのように推薦しているのだからできるのだろう。ということで去年しばらく使ってから32GBx2を増設した。裏蓋をあけるのはすこし手間で、さらに閉めるのがもっと手間できれいに閉まらなかったが換装自体は簡単にできた。メモリ64GBに16インチ有機EL。これだけでメーカー製のノートパソコンなら50万-60万コースになる。うーむ。20万越えたがそれだけでも十分お得感がある。

 裏蓋の開閉が手間だったのは筐体の剛性が低くなんかふにゃふにゃだからで、荒い使い方をしなければよいと思うんだがそのあたりどうなるのかよくわからん。

4KOLED

 16インチ16:10とむちゃくちゃ広い画面だがそれが4KOLEDということで無茶苦茶細かい。ところで家電量販店で売ってる4K有機ELテレビとは実は構造が違う。家電量販店で売ってるのはLGの有機ELで、これは白色有機ELにカラーフィルターをつけたものなので、実は液晶と似たような構造でそんなによいものではないのだが、LGがそれでサムスンに勝ったのでそのようなことになっている。プラズマテレビとかも結局消滅したので商売としてなりたたなければ製品として残らないのだ。ところが小型画面はサムスン方式の有機ELの方が順調に大型化をはたして最近これくらい大きいのも普通に買える値段になってきたということだ。そしてこれだけ細かいと液晶であろうが有機ELであろうがあんまり違いがわからん。その昔、有機ELの15.6インチ画面がでてきたときに家電量販店でそれをみて、やっぱり有機ELはキレイだなと思ってふりむくと、そこにあった富士通のクリア液晶が同じくらいキレイにみえたのでびっくりしたことがある。要は要素技術として画面の表面処理などもかなり重要になってくるので一概に有機ELが良いともいえないのだ。テレビの方でも液晶ががんばって盛り返しているし、自分が買った感じだとまだ有機ELテレビはなんか目にくるので液晶の方がよいと思う。ただ液晶は視差みたいなのがあって目の筋肉の使い方がすこし違うのでそこはなんとかならんかと思ってはいる(構造上なんともならない)。

 16インチ3Kだと画面が広くなるがそのかわり無茶苦茶細かくなる。のだがやっぱりこの画面の広さというのがたまらないし、細かい字が並んでるのが好きなのでデフォルトで250%表示のところ100%で表示している。細かくてよい。windows11の機能でウインドウを分割してわりふれるようになっているところもよい。その昔、unix系ウィンドウマネージャに全部タイルになるのがあって、全部タイルで分割されるとそれはそれで使いづらかったが、windows11のはかなり粗雑なタイルなので大きさを変えたウィンドウをずらしたりすこし大きさを変えたりできるのでよい。

 あと、このパネルを手にいれたことで、家電量販店のパソコンコーナーにいってなにかほしくなることもなくなった。大型で精細な画面は一般向けではないので消滅するような気がするが画像とか見る分にはキレイなのでそういう需要があって続くかもしれん。

ドッキングステーション

 thnderbolt 端子があるので(外見はUSB-C)、それに対応したドッキングステーションとか買って外部端子の増設した方がとりまわししやすい。これは本体にもSDカードの端子があるのだが、microSDカードしか持ってないのでこれはmicroSDカードでもよかったがそこはしかたない。まぁ画面がでかいのでモバイル用途としては考えられていないのだろう。そこはしかたない。

 これ買ったがこっちに充電プラグ刺すとちょっと充電時間が長くなる。バッテリー保護的には充電時間が長い方がよさそうだが。

入れ物

 百均のビニールケースに百均で買ったクッションシートみたいなのを入れてつくった。しめて400円くらいか。MacBookPro16とほぼ同じサイズなのでケースがたくさんでておりそれを買えばよいのだがなんか癪にさわるので百均でそろえた。なにせむこうはこれと同じ16G1Tで40万とかするので金持ちマシンの印象がある。まぁ金持ちが買うものなので金持ちプライスでどうかと思うものもあるので実用を重視してそうした。

ペン

 ペンも使えるのだが、いっしょに買ったものは丸くてつるつるしているし、電池式なので接触して放電しつづける心配がある。ということで、ホームセンターにいってチューブの端を切って買ってきた。数十円くらい。そんなに使っていない。なにせ年賀状の絵を描くのにも使ってないのでしかたない。ワコムAESだが若干ジッターがあり、慣れるのが必要だがそんなに使ってないのでまだ慣れるもなにもない。

タブレット的使い方

 これ買ったときにはタブレット的に使えるのではないかと思ったがキーボードが裏に行くのと、Windows のソフトが使いづらい関係で思ったほどはつかえてない。ただ、windows のアプリで NeeView というのがあって、これがビューアとしては結構つかえることがわかった。でもまだタブレット的につかうよりもテントモードみたいなので使ったことしかないな。なにせタブレットモードのときはキーボードが裏にいくのでなんか心配になる。それから NeeView は中国関係ファイルによくある djvu に対応していない。うーむ。wsa 期待していたが Google Play 入ってなかったので期待はずれだった。そうすればebookdroidが使えるので結構よいのだが。GoogleMicrosoft の戦争中なのでしかたないかもしれない。

chatGPTに聞くキリスト教の「生まれ変わり」

chatGPTに聞くキリスト教の「生まれ変わり」

chatGPT などのAI

 さて chatGPT が最近一部でおおはやりで、機械学習とかのAIが普通に使えるレベルまで簡単になってきているのだが、そこでマイクロソフトもずっとGoogleにやられていたので起死回生策としてAIに振ることにしたらしく、Bing をAI化してきた。普通の検索エンジンがもともとゴミ情報をうまくアルゴリズムで処理して勝利したのがGoogleだが、そのアルゴリズムでもアフィリエイトに釣られた大量のいかがですかブログには対抗できず、かなりゴミ情報で腐ってきてしまっているところへ、こういう展開なのでマイクロソフトも機をみつけてつっこんできたのだろう。

ユダヤ教カバラにおける輪廻

 ということで、openGPT をいじっていておもしろかったのが、ユダヤ教カバラには輪廻の概念があること。どうも魂が不滅という立場をとるらしい。ユダヤ教キリスト教イスラム教では輪廻転生の考えがなく、死後は審判を待つと思っていたのでびっくりした。まぁだいたい天使・悪魔の概念があってそいつらはいろんなものに姿を変えることになっているし、三位一体とかいう概念も生まれ変わりへの概念を導くのではないかと思うのだが、まぁそれは人間にはないという世界観のようだ。そしてユダヤ教でも本来はそうだったのだが、カバラを16世紀くらいに整理して大変革をおこした人がいて、そのとき輪廻の概念が入ったらしい。このあたり洋の東西で神秘体験を背景とした新興宗教みたいなのができててそういう意味でもおもしろいのでたぶん今のスピ系みたいな感じで神秘体験を布教するよくわからん集団があったのではないかと思うがそれは妄想なのでさておき、ユダヤ教カバラがそういうことになっていたというのは自分はまったく知らなかった。

www.jstage.jst.go.jp

genshu.nichiren.or.jp

 最近竹倉史人という人が輪廻の概念について整理し、1 再生型 2 輪廻型 3 リインカーネーション型と三つに分類している。日本程度のは素朴な生まれ変わりの再生型で、インドあたりのが本格的な輪廻型、そして19世紀フランスで生まれたのが魂の成長を解くリインカーネーション型というのだが、この人もどうもユダヤ教カバラにあるのがそのリインカーネーション型そのものずばりだということに気付いていないらしい。もともとはカバラでは人間の精神構造をどのようにとらえているのか、みたいな質問をしていったらそんなことになったのだが、その過程でカバラで想定されている概念もどっかで聞いたような概念が多くてそれなりにおもしろかった。20世紀というのは未知の世界を切り開いていくのにカバラで想定されていた構造がかなり役にたっていたようにみえる。たとえばユング心理学の原型という考えがあり、夢はその原型を反映しているので云々という話があるが、カバラには最初に出現した原人間のアダムカダモンというのがあってそこがモデルとなって世界ができるという考えがあるのでその応用とみることができる。宇宙論でいうビッグバンとかもその物語を応用しているとみえなくもない。そういう意味では20世紀は世界の解釈がカバラ密教化していく時代だったのかもしれない。

キリスト教の生まれ変わり

 さてそれは余談で、本題はキリスト教での「生まれ変わり」である。ユダヤ教に混入したそれを知ってから、ではイスラム教では?キリスト教では?とネチネチ聞いてみたのだが、どれも否定的な答えが返ってきた。そしてユダヤ教も本来は生まれ変わりは否定的だという話だった。まぁそれも当然で、日本などには仏教があるので、仏教を攻撃する立場からすれば輪廻は死後の概念として一番攻撃しやすいところだからだ。であるから比喩であっても生まれ変わりとか言わないのが普通である。

 それからしばらく、Bing AI chat がつかえるようになったのでまた聞いてみたのだが、こっちでもキリスト教イスラム教での生まれ変わりは否定的である。ところが、ここからがおもしろい。また chatGPTにもどって、キリスト教の生まれ変わりについて聞いてみると、驚いたことに「生まれ変わり」はあると肯定的な答えが返ってきたのである。どういうのが生まれ変わりなのかきいてみると、つまりは信仰によって心がかわることを生まれ変わりと称するらしい。よくある「比喩としての生まれ変わり」だが、それが存在することにしていいのだろうか?

 と考えるとすぐわかるのだが、これはカルトが洗脳して意識を変容させることもよく「生まれ変わり」と称するので、それが反映しているのである。たとえば統一教会について聞いても生まれ変わりはあるとして、そのような内容で答えてくる。ではそれは洗脳ではないのかときくと、教団は否定的とかなんとかよくわからん答えを返す。統一教会は今分裂しているので正統とされる考えが派閥によってそれぞれ違っている。質問のしかたを変えていろいろ聞いてみると、それらがいりまじって混乱した答えが返ってくる。この数日での変化とあわせてこれらの反応について考えるとつまり chatGPT は応答によって学習をしている、言いかえると chatGPT は洗脳できる ということだ。

「生まれ変わり」自体は聖書に出典があって神の国にうまれかわるみたいな文言があるらしいのだが、しかしそれは比喩としての話で積極的に使うべき事柄ではないだろう。だから正面から聞いたら否定するはずだが、そこはそれカルト教団からすると洗脳することを生まれ変わりと表現したりしているので、それがないと飯の種にかかわるのである。chatGPTみたいなたくさんの人が使いそうなもので飯の種にかかわる事柄を流されると困るので、自分達に都合のいいようにchatGPTをしつけようとする、あるいは単に自分たちの派閥に都合のいいことを教えこむ、ということが発生しているのだろう。だからchatGPTも今の段階ではまだ wikipedia みたいなもので、使い方には十分注意が必要ということになるがさてどうなるのか。

溥儀自伝『わが半生』の最初のバージョンと紅卍字会

溥儀自伝『わが半生』の最初のバージョンと紅卍字会

『わが半生「満州国」皇帝の自伝』のバージョン

 清朝の最後の皇帝にして満洲国皇帝の愛新覚羅溥儀が戦後中国の収容所で書いた自伝は1964年に正式に出版され、日本でもそれが翻訳されて広く読まれたが、2000年代以降にそのもとのバージョンが改めて出版された。

「灰皮本」1960年

 1960年に内部印行という形で出版されたものが「灰皮本」である。表紙が灰黄色だったからそういう名前らしい。45万字程度。

「全本」

 ところが灰皮本に自省の文言が多いのでそれを削り、さらに「歴史事実」を追加して読みやすくしたのが「全本」で50万字程度。

「定本」1964年

 そして全本から16万字を削って正式に出版されたのが定本で今にいたるまで広く読まれているという。

 ところがその全本・灰皮本が21世紀になって続々と出版されるようになったのである。全本が2007年、灰皮本が2013年。そういうのを出せるようになったのも中国の自信の表れかもしれない。

日本国内の所蔵状況

 ところが日本国内の大学図書館の所蔵状況をみると、「全本」しか新たに購入していない様子。この溥儀の自伝は中国では読み物として好まれているらしく、どのバージョンもたくさんでているようなので、中国に行けば簡単に買えそうではある。ただで読めることを期待して検索したのにどこにもないのでうーんという感じ。なぜ「灰皮本」を探しているかというと、やはりよりオリジナルに近いというのもあるが、ある論文でおもしろい記述を目にしたからである。

大本教と道院・紅卍字会

 最近ロシアによるウクライナ侵略とかあり、1931満洲事変→1937日中戦争と2014クリミア・ドネツク・ルハンスク→2022今回のウクライナ侵攻と比べるとより面白みがでてくるのだが、今回のロシアの戦争ではロシア国内のロシア正教が正面に出てきているところも面白いので、あるいはそういうのを日本の国家神道と比較する向きもあるかもしれない。

 ところがそのころ黒龍会みたいな国粋右翼と結びついて蠢動していたのは大本教なのである。満州事変の事を1931で「いくさはじまる」と語呂合わせで宣伝していたりしている。このあたりあんまり追求されてないようだが、陰謀論の世界では結構ネタになっているようなので、それで逆にあまり触れられないのかもしれない。それに大本教は1935(昭和10)年12月8日からの第二次大本事件で弾圧され、活動は停止してしまった。戦後には共産党とともに戦前戦中に弾圧された代表になっている。

 ところが大本教は1923(大正12)年から中国の道院とよばれる道教系の新興宗教と提携して活動するようになっていた。その道院のもうひとつの顔が紅卍字会である。紅卍字会と聞いてどっかの論争でよく聞く名前だなと気付く人もいるかもしれない。

 大本教と道院・紅卍字会についてはこういう論文もあり、道院自体には政治的な意思がみとめられないような感じで扱われている。(論文の中で引用されるものには政治的活動があることを示唆しているものもある)

cir.nii.ac.jp

道院・紅卍字会と溥儀

 ところで最近書かれたこういう論文があり、そこで溥儀と道院・紅卍字会との関係に触れている。

高鹏程2019「神佛之间 : 末代皇帝溥仪前半生的迷信」

 そう、この論文の中で大量に使われている資料が『我的前半生』(灰皮本)、つまり最初に紹介して日本の大学図書館に所蔵がないと文句を書いていたものである。一番核心的と思う事を紹介しておくと

值得一提是,”红卍字会“赐名溥仪的事,见于我的前半生灰皮本,但是被全本删去,其中隐情,耐人寻味。

 そのまま読むと紅卍字会が溥儀に道名を与えたことのようだが、また溥儀が紅卍字会と命名したようにもみえなくはない(「的是」が略されてるとみれば)。中国語は文章を縮約しすぎるとどっちともとれるようになるので、原文で確認しないといけないのだがこの本買うほど溥儀に興味あるわけでもないので買うのもなぁというところで確認していない。そういうわけで興味のある人は高鹏程2019をネットで落としてきて読んで、灰皮本を買って確認して論文でも書いたらいい。

 他にも面白いのは日本の外務省の役人で溥儀の通訳をしてた人がいるのだがこれも大本教の人間なのだ。高鹏程2019では出口賢次郎と書いてあるが、林出賢次郎のことでこれも佐々充昭が論文を書いている。

cir.nii.ac.jp

 そういうわけでこの辺掘ると面白そうだが、その一方で、陰謀論界隈との相性もよいのでミイラ取りがミイラになる結果になるかもしれない。たとえば、出口王仁三郎の蒙古遠征のときについていった一人に大高麗国運動を支援していた人がいる。大高麗国はまぁつまり後の満洲国のアイデアの先駆ともいえるが、また同時に高句麗の故地としての満洲と考えれば朝鮮の民族意識の高揚の表現でもある。まぁこれは今では日本の満洲への野心の表現くらいにしか思われていない。このテーマでも佐々充昭が論文を書いている。そういうわけで満洲人脈から朝鮮となると、そう、岸信介陰謀論ということでなんとか教会とかでてきそうだが、そういうわけで真面目に扱われている分野でもあるので陰謀論にハマらないように気をつければおもしろいと思う。

追記

 これ書いてから風呂入ってすこし考えたが、やっぱり上の「”红卍字会“赐名溥仪的事」は溥儀に道名をつけたことで、そうやって溥儀をコントロールしようとたくらんでいただけかもしれん。というのも、

ja.wikipedia.org

 Wikipediaの大本事件の項目の一番最後にあやしい「異説」があやしい本を引用元にして書かれているが、その内容よりはそれを手口として考えてみると、こういう手口で近付き個人的な関係を作って入りこむのを得意技としていたとみることもできるので、溥儀には直接信者にとりこむという洗脳しやすいアプローチをとってみたということも考えられる。うーむ。

 あとついでにおもしろいのが国会図書館デジタルコレクションでみつけた戸田一外『船医風景』昭和5の一節。(個人送信でみれるので要登録)

dl.ndl.go.jp

 戸田がなりゆきで出口王仁三郎にあうのだが、そのときいきなり「時に田中義一は今しがた死んだよ! 奴は我輩が蒙古問題に就て諫言してやつたが云ふことをきかないから神の意に反して死んでしまつた」と言われるエピソードがある。その時朝の7時で田中義一が死んだのは早朝五時半だというから新聞以上の情報源を持っていたことになる。しかもその日は紅卍字会の華北の面々が綾部に来ていたとかでそのあつまりも目撃している。この人自身は大本教は弾圧で消えたと思っていたが来てみればそのような活発な有様だったのでびっくりして見たそのままを書いているようだった。しかも昭和4年のことを昭和5年に出版してるし信者でも記者でもない傍観者なので、同時代の記録としては重要なものになる。