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溥儀自伝『わが半生』の最初のバージョンと紅卍字会

溥儀自伝『わが半生』の最初のバージョンと紅卍字会

『わが半生「満州国」皇帝の自伝』のバージョン

 清朝の最後の皇帝にして満洲国皇帝の愛新覚羅溥儀が戦後中国の収容所で書いた自伝は1964年に正式に出版され、日本でもそれが翻訳されて広く読まれたが、2000年代以降にそのもとのバージョンが改めて出版された。

「灰皮本」1960年

 1960年に内部印行という形で出版されたものが「灰皮本」である。表紙が灰黄色だったからそういう名前らしい。45万字程度。

「全本」

 ところが灰皮本に自省の文言が多いのでそれを削り、さらに「歴史事実」を追加して読みやすくしたのが「全本」で50万字程度。

「定本」1964年

 そして全本から16万字を削って正式に出版されたのが定本で今にいたるまで広く読まれているという。

 ところがその全本・灰皮本が21世紀になって続々と出版されるようになったのである。全本が2007年、灰皮本が2013年。そういうのを出せるようになったのも中国の自信の表れかもしれない。

日本国内の所蔵状況

 ところが日本国内の大学図書館の所蔵状況をみると、「全本」しか新たに購入していない様子。この溥儀の自伝は中国では読み物として好まれているらしく、どのバージョンもたくさんでているようなので、中国に行けば簡単に買えそうではある。ただで読めることを期待して検索したのにどこにもないのでうーんという感じ。なぜ「灰皮本」を探しているかというと、やはりよりオリジナルに近いというのもあるが、ある論文でおもしろい記述を目にしたからである。

大本教と道院・紅卍字会

 最近ロシアによるウクライナ侵略とかあり、1931満洲事変→1937日中戦争と2014クリミア・ドネツク・ルハンスク→2022今回のウクライナ侵攻と比べるとより面白みがでてくるのだが、今回のロシアの戦争ではロシア国内のロシア正教が正面に出てきているところも面白いので、あるいはそういうのを日本の国家神道と比較する向きもあるかもしれない。

 ところがそのころ黒龍会みたいな国粋右翼と結びついて蠢動していたのは大本教なのである。満州事変の事を1931で「いくさはじまる」と語呂合わせで宣伝していたりしている。このあたりあんまり追求されてないようだが、陰謀論の世界では結構ネタになっているようなので、それで逆にあまり触れられないのかもしれない。それに大本教は1935(昭和10)年12月8日からの第二次大本事件で弾圧され、活動は停止してしまった。戦後には共産党とともに戦前戦中に弾圧された代表になっている。

 ところが大本教は1923(大正12)年から中国の道院とよばれる道教系の新興宗教と提携して活動するようになっていた。その道院のもうひとつの顔が紅卍字会である。紅卍字会と聞いてどっかの論争でよく聞く名前だなと気付く人もいるかもしれない。

 大本教と道院・紅卍字会についてはこういう論文もあり、道院自体には政治的な意思がみとめられないような感じで扱われている。(論文の中で引用されるものには政治的活動があることを示唆しているものもある)

cir.nii.ac.jp

道院・紅卍字会と溥儀

 ところで最近書かれたこういう論文があり、そこで溥儀と道院・紅卍字会との関係に触れている。

高鹏程2019「神佛之间 : 末代皇帝溥仪前半生的迷信」

 そう、この論文の中で大量に使われている資料が『我的前半生』(灰皮本)、つまり最初に紹介して日本の大学図書館に所蔵がないと文句を書いていたものである。一番核心的と思う事を紹介しておくと

值得一提是,”红卍字会“赐名溥仪的事,见于我的前半生灰皮本,但是被全本删去,其中隐情,耐人寻味。

 そのまま読むと紅卍字会が溥儀に道名を与えたことのようだが、また溥儀が紅卍字会と命名したようにもみえなくはない(「的是」が略されてるとみれば)。中国語は文章を縮約しすぎるとどっちともとれるようになるので、原文で確認しないといけないのだがこの本買うほど溥儀に興味あるわけでもないので買うのもなぁというところで確認していない。そういうわけで興味のある人は高鹏程2019をネットで落としてきて読んで、灰皮本を買って確認して論文でも書いたらいい。

 他にも面白いのは日本の外務省の役人で溥儀の通訳をしてた人がいるのだがこれも大本教の人間なのだ。高鹏程2019では出口賢次郎と書いてあるが、林出賢次郎のことでこれも佐々充昭が論文を書いている。

cir.nii.ac.jp

 そういうわけでこの辺掘ると面白そうだが、その一方で、陰謀論界隈との相性もよいのでミイラ取りがミイラになる結果になるかもしれない。たとえば、出口王仁三郎の蒙古遠征のときについていった一人に大高麗国運動を支援していた人がいる。大高麗国はまぁつまり後の満洲国のアイデアの先駆ともいえるが、また同時に高句麗の故地としての満洲と考えれば朝鮮の民族意識の高揚の表現でもある。まぁこれは今では日本の満洲への野心の表現くらいにしか思われていない。このテーマでも佐々充昭が論文を書いている。そういうわけで満洲人脈から朝鮮となると、そう、岸信介陰謀論ということでなんとか教会とかでてきそうだが、そういうわけで真面目に扱われている分野でもあるので陰謀論にハマらないように気をつければおもしろいと思う。

追記

 これ書いてから風呂入ってすこし考えたが、やっぱり上の「”红卍字会“赐名溥仪的事」は溥儀に道名をつけたことで、そうやって溥儀をコントロールしようとたくらんでいただけかもしれん。というのも、

ja.wikipedia.org

 Wikipediaの大本事件の項目の一番最後にあやしい「異説」があやしい本を引用元にして書かれているが、その内容よりはそれを手口として考えてみると、こういう手口で近付き個人的な関係を作って入りこむのを得意技としていたとみることもできるので、溥儀には直接信者にとりこむという洗脳しやすいアプローチをとってみたということも考えられる。うーむ。

 あとついでにおもしろいのが国会図書館デジタルコレクションでみつけた戸田一外『船医風景』昭和5の一節。(個人送信でみれるので要登録)

dl.ndl.go.jp

 戸田がなりゆきで出口王仁三郎にあうのだが、そのときいきなり「時に田中義一は今しがた死んだよ! 奴は我輩が蒙古問題に就て諫言してやつたが云ふことをきかないから神の意に反して死んでしまつた」と言われるエピソードがある。その時朝の7時で田中義一が死んだのは早朝五時半だというから新聞以上の情報源を持っていたことになる。しかもその日は紅卍字会の華北の面々が綾部に来ていたとかでそのあつまりも目撃している。この人自身は大本教は弾圧で消えたと思っていたが来てみればそのような活発な有様だったのでびっくりして見たそのままを書いているようだった。しかも昭和4年のことを昭和5年に出版してるし信者でも記者でもない傍観者なので、同時代の記録としては重要なものになる。