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呂不韋南越人説

呂不韋南越人説

秦の丞相 呂不韋の出身地

 呂不韋といえば、始皇帝の父親子楚が人質として趙に送られていたのに目をつけて秦王になるようはからい始皇帝を育てた商人出身の秦の丞相で「奇貨居くべし」の故事を残した人だが、いちおう『史記』には「呂不韋者,陽翟大賈人也」とあり今の河南省の禹州あたりにあった韓の商業都市陽翟の大商人ということになっている。ところが『戦国策』では「濮陽人呂不韋」とあるので今の山東省と河北省の境目くらいになるがこちらは春秋戦国の小諸侯の衛の首都で、こちらも古くから栄えた土地であった。漢の高祖劉邦が地方のならず者だった頃に目をつけて娘を嫁にやった富豪呂公が呂不韋の一族という説もあるのだが、これは濮陽と呂公の巣父、劉邦の沛県が地理的に近いというのが一つの根拠になっている。とにかく戦国末期の繁華な地域を商圏とした商人だったらしいということは共通認識だといってよいだろう。

 ということで自分は南越人説を考えてみようとおもう。南越は広東・広西・ベトナム北部だが、始皇帝が征服するまでは百越といってまだ統一国家段階にない多数の民族がいるところだった。上に書いた「呂公が呂不韋の一族説」(郭沫若や楠山修作など)よりは資料的な裏付けがある。

不韋県の由来

 今の雲南省ミャンマーに近い保山市のあたりに不韋県というのがあった。この不韋県の由来について考察している人がいて、資料的にはそこに紹介されている事に尽きる。解釈は別とする。

t-s.hatenablog.com

華陽國志曰「孝武置不韋縣、徙南越相呂嘉子孫宗族居之、因名不韋、以章其先人之惡。」

孫盛蜀世譜曰「初、秦徙呂不韋子弟宗族於蜀漢。漢武帝時、開西南夷、置郡縣、徙呂氏以充之、因曰不韋縣。」

 書いてある通りだとすると、不韋県が置かれたのはそのあたりが漢の武帝の侵略をうけて漢に降伏したのと同時なので、秦のころにここへ呂不韋の一族を流すことはできない。関係がある事だとするとそこで矛盾がでてくるので、単に関連事項が併記してあるだけだろう。とすればそこに書いてあるとおり、呂不韋は南越の宰相の呂嘉の一族の先人だということになる。以下その筋で考察する。

南越の経緯

 南越のことを書く前にここで年表にして整理すると

西暦 事項
BC237 呂不韋失脚
BC235 呂不韋自殺
BC236-221 秦の統一戦争
BC219 百越征伐開始
BC214 百越征服、南海郡設置
BC210 始皇帝の死
BC203 南越建国
BC202 項羽と劉邦の垓下の戦
BC195-180 呂氏の専横
BC112-111 漢の武帝の南越・西南夷征伐

 百越征伐の占領軍が秦の滅亡後、楚漢戦争の最中に自立したのが南越である。漢との関係は呂氏の専横時代は険悪だったが、それ以外はだいたい良好だったようだ。

呂嘉の一族

 呂嘉の一族について考える前に呂不韋がその一族だったとして、政権中枢の呂氏が植民地に勢力を扶植したという筋も考えられるのでその方向についてだが、上の年表でわかるようにそれはない。呂不韋一族が処罰されたのは秦の天下統一の前だった。呂不韋のあと秦の丞相になった李斯が天下統一を実現させている。呂不韋の一族は秦の中枢には残れなかったし遠征軍で重きをなすこともなかったとみた方がよい。次に漢の呂皇后の一族が属国を食い物にした可能性だがこれもない。その時期は逆に漢と南越との関係が最悪になり、南越が最大版図を誇った時代だった。

 呂嘉であるが史記の南越伝によると

其相呂嘉年長矣,相三王,宗族官仕為長吏者七十餘人,男盡尚王女,女盡嫁王子兄弟宗室,及蒼梧秦王有連。

 とあるので南越国重臣南越国内にかなり大きな人脈をもった一族ということになる。ベトナム史書大越史記全書』では出身地は九真郡、ベトナムタインホア省トースアン県のあたりとされている。史記の南越伝でも越人の信があったとされているので秦の占領軍出身ではなく、現地人出身だとみた方がよいだろう。

武帝の処置

 史記には南越の滅亡の際、王には漢に帰順する意思があったのに呂嘉が逆らって反乱したせいで戦争が一年つづいたと記述され、司馬遷はそのことを評して「呂嘉小忠,令佗無後」(目先の忠義にこだわって南越王初代趙佗の子孫を絶やしてしまった)と書いている。また本紀などでは「漢の使者と王、王太后」を殺したので滅ぼしたということになっている。

 ところが『史記』『漢書』などにはそのあとどうしたかが書いてない。特に司馬遷の同時代なので確実な材料が入るはずだが... なぜだろう。呂嘉を殺したという一報が入ったのでそれを祝してそのとき武帝が滞在していた汲の新中郷を獲嘉県(河南省新郷市)に変えたとは書いてあるので、皇帝が重大な関心をよせていたビッグイベントであったようだ。呂嘉を非難する上奏文(つまり皇帝の意向に同調した文章)も列伝の方に残っている。なのに、である。

 南越がみせしめとなって雲南方面も続々と降伏したわけだが、そのうち滇が益州郡となったことがわかる。その『漢書』の地理志に郡県の一覧があるが、そこには益州郡のなかに「不韋」があるので,その時不韋県が成立したのは確実であるが、どういうわけでそういう名前にしたかもわからない。

財宝の地 南越

 さてここで、ひとまず記述のたりない方面から離れて別の方向からこの問題にとりくんでみよう。まず南越の産物。呂氏の専横のあと関係回復のために派遣された陸賈は南越の返事をもって文帝へ報告した。そこには南越王の献上物が挙げられている。

白璧一雙,翠鳥千,犀角十,紫貝五百,桂蠹一器,生翠四十雙,孔雀二雙。

 まぁよくわからんがキレイな石や鳥、あるいは角など、宝玉の類が送られている。当地の産物で最もよいものを贈ったはずだからこういう珍品が名物なわけだ。では漢書の地理志にはどのように紹介されているか。

處近海,多犀、象、毒冒、珠璣、銀、銅、果、布之湊,中國往商賈者多取富焉。

 (当時の広州は)海に近く、犀や象の角、タイマイなどの宝物が集まると書いてある。そのあとの「中國往商賈者」は「中国人で商売に行く人」なのか「中国へ商売に行く人」なのかよくわからんが、細かくいわずともわかるだろう。こういうものの産地なので当時の中心である華北に持っていくだけで大きな商売ができるということだ。

陸賈 の商売

 それを端的に示すのが南越王への使者になった陸賈のエピソードだ。陸賈は劉邦から南越王へハンコを渡すようにいわれ、つまり帰順せよということだが、南越王を説得したうえ意気投合して帰りには値千金の真珠の類の宝物をお土産にもらって帰る。劉邦の死後呂氏専横期間に陸賈も睨まれたのでとっととやめてしまい、その宝物をとりだして金に変え、子供達の間をわたり歩き居所を定めない生活をしながら反呂氏の策をねりあげ、みごとクーデターを成功させるのである。

呂不韋の商売とは?

 さてここまで書いたら自分が推測していることが何かわかるだろう。呂不韋は何を商っていたのか?「往來販賤賣貴,家累千金」とある「安いものを売って高く売る」程度で千金も貯まるものとは何か?そして各地の王侯貴族に簡単に近づけてとりいることができるような物とは?

 ということで、呂嘉の先人が呂不韋だという華陽国志の記述が生きてくるのである。南越のあたりに地盤をはる呂氏一族が南海の珍奇な産物を中国中央の王侯貴族へ売りつける現地駐在員が呂不韋だとみれば話がかなりわかりやすくなってくる。そういうものを売る商売なので当然各地の王侯貴族、あるいは大商人・資産家・金持ち、さらにはその奥様お嬢様方が顧客で、それらの間を忙しく動きまわるのが当然のこととなる。呂不韋が売ってるもの自体が「奇貨」なので自然と「奇貨」を見出して金にする考えを身につけており、それを人間に対して応用するのも当然となる。

先駆者 范蠡

 さらに百越ではないが、越王勾践を支えてのちに商売で成功した越人に范蠡がいる。他ならぬその『史記』列伝の最後の太史公自序の前には「貨殖列伝」があって各種の金儲けをした人たちが紹介されているという歴史書(史記が歴史書なのかどうかは微妙だが)としては不思議な部分があるが、その冒頭を飾るのが越人范蠡なのだ。范蠡が何を商ってのちにその偽名陶朱公が富豪の代名詞となるほどの富を得たのだろうか?

百越遠征

 秦の百越遠征は六国統一のあとなのでその延長上で語られるが、よく気候が違いすぎるのでそんなにうまくはいってないというような説明がされることが多い。しかしそれは秦の暴政を言うための言説で駐屯軍が自立して国つくるくらいだから失敗ではなかったのだろう。桂林の近くに霊渠という運河があり、それで広東方面と湖南方面の水系を接続したというので見にいったことがあるが、なんで秦のころにそんなところに必死こいて運河を掘ってまで南北を接続したのかわりと不思議だったが、戦国末期にすでに南海貿易が盛んになっていたので宝物の土地みたいにみられていたとすればわからんでもない。

出土する貝の装飾品

 今の中国へいって博物館などで出土資料を漫然とみていると、日本での常識となんか違う事がある。その一つが貝の装飾品で、日本では、漢代の中国ではこんな豪華で巧緻なものが出てくるのに、同時代の日本は遅れていて貝殻が装飾品になってるとかいう言説が横行している。漢代までは厚葬の時代なので漢代の遺物は大量に発掘されているのだが、秦や漢の中国の出土物として日本人が思っているのは上澄みで、下の方では日本と大してかわらない貝殻を装飾品にしているということがわかる。物質生活として比較すると中国の方が豊かだったのはまちがいないだろうが、南の海で取れるキレイな貝殻も立派な装飾品として日本と同じように中国でも流通していたのである。

結論

 ということで、南越人...というよりは百越出身の呂不韋は十分ありうると思うのだがどうだろうか。珍宝で秦王室に近づいた男・呂不韋みたいな話になっていろいろ面白くなる。漢の呂公・呂氏一族との関係はまた別の問題になるが、漢の武帝呂不韋ならびに呂氏の係累として南越の呂嘉をみており、名指しで潰しにかかったので呂嘉は反乱を起こしてみごと失敗し、一族は雲南で新しく帰附した雲南の王の一番遠い領地へ流され、土地に「不韋」の名前をつけられた、という見方もできなくはない。

 そうだとするとなぜ司馬遷がそんなおもしろい事を書かなかったのかという重大な問題がある。武帝の身近く仕える身ではあるが、結構好き勝手書いてるのにそれを書かなかったのはなぜか... ということで矛盾が明らかとなるので、このお話はここまでとする。どうせ結論なんか出ない。