これまでのあらすじ
京都新聞に「勤王の村」という三回の連載があったが、内容は山国地方の歴史から歴史事実を偏って切り出して攻撃する謎の煽り記事であった。その記事を書いた樺山聡記者の偏りによるものかとおもっていたが、調べてみるとそもそも「山国荘調査団」のロートル坂田聡と天キチ吉岡拓に原因があった。
『民衆と天皇』
- 作者: 坂田聡,吉岡拓
- 出版社/メーカー: 高志書院
- 発売日: 2014/05/26
- メディア: 単行本
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坂田聡・吉岡拓『民衆と天皇』高志書院、2014 という本がある。これは山国荘を対象とした科研費研究の研究成果の一部でもあるのだがそのわりには妙なタイトルだ。彼ら自身はこう書く。
『民衆と天皇』。本書のタイトルを見て、天皇の方が先、いや、天皇が上に来るべきだろうと感じる読者も多いことと思う。だた、実は民衆の方が先にくるこのタイトルにこそ、本書のねらい、私たちの主張が込められている。(p1)
そこじゃないだろ。 仮にも山国のことを研究してそれをまとめた本を出したわけだから、まずは山国をタイトルのどっかに入れるべきだろ。この二人の心得違いはここだけみてもわかるが、名は体をあらわすという意味ではそんなに間違えたものではない。つまり、彼らにまず言いたいことがあり、そのダシとして山国を利用したということだ。「はじめに」の中では再三「民衆」を「天皇」よりも先に出した意義を強調しているが、山国のことばかり書いてある本で天皇がタイトルの先頭に来たらそっちの方がおかしいだろ。 常識がないのか坂田は。
研究対象への興味のなさ
興味のなさと書いたが、彼らはそれぞれの興味の主体があってそれには非常に強い執着をしめす。坂田は「イエ」、吉岡は「天皇」だ。しかし彼らのそれらへの執着が強いあまり、山国はただの素材と化してしまい、好きなように切りとって利用するものとなった。したがって彼らの興味の範囲外のことは非常に雑である。たとえば坂田がくだらない託宣を並べたあとにようやく山国の歴史にふれだす部分をみてみよう。
山国杣から山国荘へ 山国荘地域の歴史は、遠く奈良時代にまで遡る。(略) その長屋王の広大な邸宅跡から発掘された「木簡」(木簡の説明は略)の中に、「山国杣」と明記されているものがあった。(p27)
そんなものはない。この本が出たのは長屋王邸宅跡が発掘された1980年代後半ではない。つい最近の2014年だ。インターネットで木簡の全文が検索できるこの時代に、この坂田はネット普及以前で発掘調査から数年の1994年に旧京北町の団体が出した郷土史雑誌の記述を元にしてこの部分を書いている。しかも間違っている。最初に紹介したように、木簡に書いてあるのは
・桑田郡山国里・秦長椋伊賀加太万呂二人六斗
であって、「山国杣」ではない。これは郷土史の雑誌が間違えたのか、坂田が間違えたのか、といったそういうレベルの問題ではない。坂田は文献史学の専門家のはずであり、文献上の隻言片句を大事にする学者であるはずである。しかも20年ほども研究対象としていたその地域の、奈良時代のたった一例しかない貴重な文言をろくに調べず半分素人のような人間の記述の引用で済ます程度の人間だということだ。まぁ私大の日本史なんてこの程度の人間でもつとまるものかもしれんけどね。
実際には長屋王邸跡から出てきた木簡にはこういうものもある。
・丹波杣帳内・「□上」
丹波杣一斛九斗五升
ちなみにこの「丹波杣」についての見解としては
丹波杣は所在地不詳。丹波国を漠然と指すとみるよりは、平安時代に興福寺領荘園のあった大和国山辺郡の丹波、あるいは東大寺領荘園のあった大和国城下郡の丹波と考えるべきか。丹波杣には帳内も所属していた(『平城木簡概報』二三、七頁下段)。
これを京都の北の山国のことだと強弁し、山国の木材が奈良の貴族にまで知れわたっていたという偽史を作りあげるならそれはそれでよい。しかしそういった態度は彼が『由緒と天皇』(およびその元ネタの『禁裏領山国荘』2009)でとりあげる由緒書の偽造と同じではなかろうか。研究を長年つづけると研究対象に似てくると言うけれど、それかな?
(実は『禁裏領山国荘』2009でもこの木簡を正しく引用している論文がある。坂田が適当に書き飛ばしてるだけ)
空中戦の坂田
さて、そういう細かい揚げ足とりはそのへんにして、坂田がこの本で山国を利用して何を言おうとしたのかみてみよう。
「民衆の一定部分、具体的には中間層と呼ばれる有力百姓(本書では「村の草分け」としての由緒を誇る百姓のことを、有力百姓と呼称する) が村内における特権的地位や既得権益を維持するために、天皇の権威を積極的に利用し、結果として、天皇家の存続を下から支える役割を担った事実を、通時代的に明らかにする」(p13)
へぇー。天皇家の存続を下から支える。どうやって?そのあとに種あかしとして三点挙げている。
1 戦国時代に百姓(有力百姓のみならず平百姓の一定部分も含む)のレベルでも先祖代々伝えられる家が成立すると、自家の家格の維持・向上をはかることが、家を持つことができた百姓たちの切なる願いとなった。
2 その願望を実現するために、彼らは絶えず、自家の由緒を天皇や朝廷と結びつけることにより権威づけようとし続けた。
3 ただし、彼らは天皇の権威にいつでも盲目的に服従したわけではない。たとえ天皇や朝廷の命令であったとしても、自分たちに都合の悪いことには反対したり、面従腹背したりするしたたかさも持ち合わせていた。(p14)
これをどう読んでも「天皇の存続を下から支える役割を担った」というわけにはならないとおもうんだが、これで論証できるらしい。よほど頭がおめでたいのかな? たとえばこれが、天皇と関係ない土地で、天皇との関係を捏造する由緒が争うように作られ、自ら進んで天皇に土地を寄進しつつ、要求はそう簡単に飲まないというような状況が方々にあり、天皇の存在が面として要求されていたという事実があったなら、わかる。しかしここは「禁裏領」山国だ。京都からがんばれば一日で往復できるような場所にあり、室町時代には実際に皇室領だったような土地だ。そういうところで天皇の権威が利用されるのは当然のことで、それは江戸で将軍の権威をカサにかけているようなものだし、御所の横の菓子屋が皇室御用を看板に掲げるようなものから、この一点だけで何かを言うことができるとはとてもおもえない。しかし坂田がそう企図したのにも理由がある。
既に書いたが、90年代前期、坂田は山国などの資料を使って名字が大量に出現する時期を調べ、また家産の移動の研究も援用して、家名・家産・家業がセットとなった「イエ」の出現時期を明らかにした。つまり、主に山国荘の資料をつかって業績を挙げることに成功したのである。しかしそれは共産党が家父長制なるものを攻撃しだして以来のイエ論争の蓄積があり、また史料的には『丹波国山国荘史料』1958『丹波国黒田村史料』1966 等の便利な翻刻があったから、そういう巨人の肩の上にのってちょこっと自分の成果を加えることで達成できた。そこからひきつづき、山国荘の資料を駆使してなんらかの業績を挙げようと意図するのはよくわかる。しかしそもそも彼坂田は空中戦で既に出てきた論点を整理するのは得意でも、資料と向かってなにかひきだしてくるのは得意というわけでもないらしい。たとえば、山国の歴史で重要な意味のある宮座、これは西日本に広く分布するもので、山国だけを睨んでいても何も言えない。かといって「イエ」が想定しているものとはまた違う組織なので、別の観点が必要になるのだが、これについても寝言のような紹介をして、「イエ」の観点から適当な因縁をつけるだけだ。要は山国荘の資料で全国的に通用することを言えるのは彼の手腕では「イエ」くらいしかひねりだせず、あとはかなりローカルな情報が多いので、空中戦の得意な坂田には山国荘の調査はなかなかつらい舞台だったといえよう。しかし資料は歴史家のメシの種だからそう軽々と離れられない。
さてその坂田がおそらく1950年代世代のサヨクくずれが多い日本史業界のトレンドを読んだのだろうか、山国をネタにして天皇を論ずることにしてヒネり出したのが上で紹介した三つだ。イエ研究でやったように、山国荘の資料から必要な論点に合う資料を切り出せばよいではないか。ということでここに断章取義がはじまる。
「有力百姓」
まず彼は「百姓」という言葉を定義した。これは漢文的な使い方の百姓のようだが、おそらく「民衆史学会」的な意味での民衆の言い変えだろう。直接使うのははばかられたらしい。さらにそれまでの山国荘の議論にはない「有力百姓」という概念をひねりだした。これは、それまでの論文であれば、「旧名主層」とか「座衆」と言っていたものだ。これを有力百姓としたのは、坂田の「民衆と天皇」のストーリーの「民衆」側の主人公として凸出させるためだ。そこを今まで通り「座衆」とか「旧名主層」とやってしまうと、それだけで、「あ、家柄だけはいいことになってるけど落ち目の人達なんだな」とわかってしまう。坂田が作り出そうとしたのは、「平百姓」の上に立ち、天皇との因縁をふりかざして、特権を維持する特殊階級だが、皇室御用にはそむくこともある、そういうふてぶてしい人達のイメージだ。そしてそういう人たちの存在がひいては天皇の存在を支えた、そういうストーリーだ。
光秀乱入事件
ただし坂田のまとめ方をみると案外普通で拍子抜けする。しかも自分で定義している有力百姓をそれほど積極的に使ってはいない。しかし、ところどころで無理に天皇にこじつけて解釈しようとしている。たとえば光秀乱入事件だ。
この光秀乱入事件というのは由緒書に乱入と書いてあるのだが、光秀が天正七年旧京北町の中心に周山城を作った年に山国へ攻めこんで名主層を追い出したというものだ。旧京北町の西部に宇津というところがあり、そこの宇津氏が山国を押領しようとしたが、それを三好長慶や織田信長などに回復させた、という事が知られている。光秀は丹波平定の一環として宇津氏を平定し、周山城を築いた。由緒書ではそのとき光秀は山国の住民とよい条件で和解しようとしたが、なびかないので周山城を作ってから攻めてきたというふうに書いている。坂田が書いているのは、しかし同時代史料に「光秀の乱入」についての記録がみあたらないから実は光秀の乱入はなく、宇津氏を攻め滅ぼした際にいっしょに山国から排除され、あとから帰ってきた名主層が光秀逆賊説を意図的に広めたのでは、というものだ。そしてそれは山国が禁裏による直接支配の回復を喜んでいなかった事を示す、という筋で坂田が紹介している。
実は山国内部の人間に宇津氏と結んで自立しようとしたのがいたのでは、という事は20世紀の仲村研の研究などでも書かれていたし、『丹波国山国荘史料』の水口氏系図(451)にも光秀が滅ぼした波多野氏の側に立って死んだ人間が書かれているので、光秀の乱入というのは実は宇津氏を滅ぼしたときについでに山国に攻めこんで宇津氏と結んでいたものを殺したという筋はあってもおかしくない。帰ってきたときに光秀が全部悪いことにしたというのもありそうなことだ。しかし、坂田が、「禁裏による直接支配の回復を必ずしも歓迎すべき事態ではなかったことをはからずも示す事実」(p42) と書いているのはどういうつもりでこんなこと書けるのかがわからん。
だいたい追い出された名主層がいつ帰ってきたことを念頭に置いているのか。この由緒書の内容は、坂田自身が書いているところによると「名主家の既得権益の起源をもっともらしい物語にしたてあげたもの」つまり歴史事実は何一つ書かれていない政治文書ということだから、帰ってきたという名主層がいつ帰ってきたのか、それによって彼らの言うことが変わらないといけない。ところが光秀はその後数年で滅び、秀吉の時代がやってきて太閤検地で名主層の特権が消滅したとめまぐるしく変化した。そのとき既に禁裏領でなくなったというのが「通説」であり、また坂田もそこは否定していない。禁裏領どころか自分たちの特権もなくなったのだから、禁裏による直接支配がどうのこうのという騒ぎではない。そういうところへ帰ってきて、光秀が悪いから追いだされたということにするのは、秀吉の治世ならよい手だし、徳川の治世でもそれはかわらない。そういった文脈の政治文書のどこからみて禁裏による直接支配を歓迎してないことを読みとれるのかわからない。特に鳥居氏などはその宇津氏と結んでいた家として挙げられてもおかしくないわけだが、そうだとすると追い出されて帰ってきたことになるから、中世文書が残ってる方がおかしいことになる。残っていないはずの中世文書を大真面目に研究してる「山国荘調査団」はアホばっかりということなんだろうか。
まぁそもそもこの、坂田の記述自体が「偽文書をつくる人たち」と「天皇支配を歓迎しない人たち」という彼らの主張したい観念を浮き彫りにするための「政治的記述」ではなかろうか。
三回で終わるつもりだったが一日かけてここまで書いて疲れてきたので最後「天キチ吉岡拓」は明日書く。
- 作者: 仲村研
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- 作者: 野田只夫
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