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「杣」字の由来

国字「杣」字の由来

 杣「そま」は中国にはない漢字で日本で作られたものだという。ではいつごろか。奈文研の木簡庫で検索すると、例の長屋王邸跡の木簡の中に「丹波杣」と書かれたものが二点ある。

mokkanko.nabunken.go.jp

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 まぁつまり8世紀初(奈良時代)の平城京では使われていたことになる。ところが平安時代にはそれとは異なる由来が語られていた。

算師 山田福吉の造字説

 倭名類聚抄の「杣」字の項目には『功程式』に甲賀杣・田上杣という用例があると紹介し、その『功程式』は弘仁14年に修理算師山田福吉が進上したものだとある。ところがたぶん初出だからということで「杣」字と山田福吉が結びつけられ、杣は山田福吉が造字したとしてその後字書の類で紹介されるようになった。たとえばこういう例がある。

 例が少ないとついつい結びつけたくなってしまうというところか。

(反応)

ということらしい。

修理職 算師 山田福吉

 ではこの山田福吉とは何者か。まぁ最初に書いておくとよくわからないんですが、まずこの「算師」について。奈良時代から日本には唐にならった大学の制度があり、そこで算学が教えられ、算学で卒業する人がいた。この人達がどうなったかというと、まぁ下級官吏 ( 国家公務員 ) になるのだが、算学専門ではなく普通に一般職についていたようだ。というのも今記録に残っている限りではその専門職であるところの「算師」の定員がそんなになかったからだ。その数少ない「算師」は何をしていたかというと、専門職としては国家会計の職があり、臨時の職としては荘園絵図の検算をしていた。特にこの検算は重要で、算師の署名がないと通らなかったらしい。まぁものすごく乱暴にいえば、そのころの算師はコンピュータの役目をしていたのだろう。

 その数すくない専門職としての算師が「修理職」に設置されたのが弘仁十三年(822)という記録が残っている。

(嵯峨天皇 弘仁)十三年七月辛卯 修理職置算師一員
類聚国史』巻百七 職官十二

(参考: 大隅亜希子「算師と八世紀の官人社会」栄原永遠男編『日本古代の王権と社会』塙書房、2010)

 ところで`『類聚国史』のその条の前には弘仁十年のこととして、修理職から上奏された労働条件改善の内容が詳しく書かれている。おおまかに訳すと、令ではこうあるのに木工寮はこんなに働かせていてひどすぎるので、このように決めてちゃんと休めるようにしてほしい、という感じである。ちなみにどれくらいひどいかというと例えば日数では年間330日から350日働かねばならなかったらしい。それを250-300日にしようとしている。木工寮がいきなりでてくるのだが、『類聚国史』では修理職はその年の前年に設置されたことになっているので、修理職は木工寮の前例を踏まないということを書いているんだろう。そうみるとこの算師が設置されたのも内部での計算をきっちりするということかもしれないし、弘仁十四年に作られたという『功程式』も、労働条件を規定したものだろうと推測できる。「杣」字はその中で出てくるのだから、このとき修理職が管理していたもので有名なのが甲賀杣・田上杣ということなんだろう。

まとめ

 ということで、杣字の由来についてはわからないが、杣字を作ったということになっていた山田福吉について調べてみた。まとめると

  • 「杣」字は奈良時代には使われていた。

  • 山田福吉は修理職の労働条件改善の具体的な規則をまとめた人である。

  • その後その規則の中に「杣」があるのが「杣」字の初出として扱われ、山田福吉が「杣」字を作ったことになった。

  • 「杣」字の由来は今のところわからない

(この記事は twitter の 拾萬字鏡@JUMANJIKYO さんのツイートをみて知り、興味をもって調べたものです)

国史大系 類聚国史 前篇 (新訂増補 新装版)

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