加藤光泰の毒殺
山崎の合戦で明智光秀の本隊を側撃して局面を打開するきっかけを作った加藤光泰が、その後の論功で光秀が作った周山城一万七千石をもらったらしい。このころの事柄というのはあんまり記録が残っていないのが普通ではっきりしない事が多いのだが、加藤家は江戸幕府の大名として残ったので周山をもらったことはその年譜に残されている(周山城登山会で高橋成計さん作成の資料で紹介されていた)。ということで幕府が作った家譜集をみてきたのだが、気になることがあった。どうも朝鮮で毒殺されているらしい。
寛永諸家系図伝 (17世紀中期)
すでに歸陣のとき、光泰
西生浦 にいたりて鴆毒にかゝり卒す。年五十七。
寛政重修諸家譜(19世紀初頭)
既にして歸陣のとき、石田三成謀りて宮部兵部少輔長房が陣營にをいて、和睦の宴を催し鴆毒をすゝむ。八月二十九日
西生浦 にをいて卒す。年五十七。
違いと共通点
寛永の方では鴆毒で死んだと書いてあるだけだが、寛政の方では三成の罠にかかって毒殺されたと書いてあり、寛永と寛政の150年くらいの間で加藤家の始祖伝説がよりドラマチックになっていることがわかる。まぁ三成云々は無視してみると、毒で死んだと書いてあることは共通している。
このことについて、加藤光泰本人の手紙が残っており、最近体調が悪いみたいなことが書いてあるらしい。それを根拠にして病死と言う人もいるんだが、病死なら病死と書いた方がよさそうな事柄についてわざわざ毒で死んだみたいに書いているのだから、周囲からみて不自然な死に方をしたんだろう。
九鬼家臣も毒殺されている
いきなり話は変わるが、すこし前
ふぐ毒?
ちょっとググってみると、朝鮮ゲリラが毒殺をしかけたみたいな「中国の抗日ドラマでよくみる話」は出てこず、その代わりに、日本中から下関に兵が集まってふぐにあたる人間が続出したため秀吉がふぐ食を禁止した、みたいな話がでてくる。そうかそうか、それで話を締めようか、とおもって探しても裏付けになるネタがでてこない。そもそも話が下関に限られていて、伊藤博文・下関の春帆楼がセットで出てきて河豚解禁第一号みたいなこともいっしょに書いてある。そのわりに山口県のあたりでは禁忌という感じでもなくふぐ料理が一般的なところからみると、春帆楼周辺でつくられた伝説のような気もする。それにフグ毒ならすぐ死ぬので、手紙で体調が悪いとか書けないだろう。ということで、オチも結論もなく終わる。
追補 西生浦
日本外史では「西生浦」と誤記されており、それに従ってこの表記を用いる書籍がある。
という謎の注記がある。それを書きこんだのは利用者:Quark Logo - Wikipedia という人だが、どういうわけか西平浦で死んだことにしたいらしい。その人がしきりに書きこんでいる項目をみるとどうも朝鮮関係が多い。西生浦というのは、そのWikipediaにも項目がたっているが、
加藤清正が作った日本式の城がある。西平浦というのは李舜臣関係で出てくる小地名のようだ。視野の狭い朝鮮民族主義者で西生浦を抹殺したいのかな?
あと、加藤光泰の項目の履歴をみると、どうしても毒殺説を抹殺したい人が何度も何度も消そうとしているので、ここでは毒殺を強調することにした。なぜなら既に紹介したように他にも「鴆殺」されてる人が複数存在するから。孤例ではないものには必ず何らかの背景があるので、無理に理由をつけてわかったつもりにならない方がよい(負け惜しみ)
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