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君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

「四大文明」遡源

 ちょっと前に𝕏(旧twitter)で四大文明が云々戦後の日本で云々と流れてきてたのでそのときついでに調べてみたがこれも西洋から渡ってきた見方だろう。ということで以下適当に書いていく。

四大文明」東アジア起源論

 「四大文明」が戦後の日本でできた概念という話があり、それに戦後になって日本を元気づけるとか戦前に東アジアを持ちあげるためとかいろんなストーリーがついてそれっぽく思われているらしい。で、このことについて調べた中でもっとも遡れているのが石川禎浩2019「中国近現代における文明史観の受容と展開:兼ねて「四大文明」説の由来を論ず」であるようだ。

<論説>中国近現代における文明史観の受容と展開 : 兼ねて「四大文明」説の由来を論ず (特集 : 文明) | CiNii Research

 石川によるとNHKで「四大文明」のシリーズを作成したときに相当新しい言葉だと気付き、さらに江上波夫の造語だという説がでてきてそれが流布した一方で中国でも同じように四大文明は中国の夜郎自大という説がでたので調べたという。石川の調べによると浮田和民などの教科書に記述があり19世紀の終わりには日本で普通に知られていたとする。しかし石川論説をよく読めばその先が書いてあるのだが、一般には「20世紀以降の日本や中国でのみ用いられる言葉・表現である」という理解のようだ。(例: wikipedia「世界四大文明」)

ja.wikipedia.org

ヘーゲルの文明論

 石川の指摘では「浮田らの知識のさらなる起源は、アジアを四つの地域に分けて文明史的に論じる前述のヘーゲルあたりではないかと推定される。」という。つまり控えめに「ヨーロッパから来た発想じゃねーの」と表明している。前述というのはその前に梁啓超の文明論で地理環境決定論ヘーゲル由来ではないかと指摘したところがあるから。ヘーゲルについては同じように「四大文明」について触れた青柳正規も指摘しているのだが、青柳はそこから東アジア起源論に持っていってしまったあたりが惜しい。

 (以下の「世界史の窓」サイトの「世界史用語解説 授業と学習のヒント」の文明の項目で青柳の指摘は引用されている。)

文明

 ちなみにヘーゲルの歴史哲学を斜め読みするとわかるのだが、ヘーゲルは別に地理環境決定論創始者ではないのである。30年くらい前の教育を受けた人間としてはヘーゲルアウフヘーベンで有名だが、そのアフフヘーベンがでてくる「テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ」の弁証法ヘーゲルの発明ではなくて古代ギリシャの哲学者のアイデアをまとめたもの。まぁ古代ギリシャをもってくるあたりが一つのミソなのだが、それはさておき、地理的環境決定論についても先行者がいた。

近代地理学の父 カール・リッター が示唆する文明

 ヘーゲルの『歴史哲学』で名前が出てくるのがこのカール・リッターである。博物学者のフンボルトと並び「近代地理学の父」とされている。ちなみにフンボルトの方が年上でフンボルトに教わるところが多かったのだがそれはさておき。

カール・リッター - Wikipedia

 カール・リッターの代表的著作『比較地理学』は英訳されたものが project gutenberg でテキスト化されて公開されている。

www.gutenberg.org

 さてここで「四大文明」みたいなのがここに書いてあるといえばいいのだが、実はそんなことはなくて、カール・リッターは地形と文明には関係があるということを縷々説明するが別にそこで決定論まで出すわけでもないし、歴史的なことにそこまで興味があるのでもないので「四大文明」のような形でまとめる事もない。個別の例を並べて指摘していくだけなのだが、その中で結構重要な指摘がある。たとえば「二つの水流が真の二重システムとして機能するならその流域台地に二倍の影響を与えるだろう...(略)..例えばユーフラテスとチグリス、ガンジスとブラフマプトラ、ギホンとシホン、黄河揚子江..(略)...これら二重の流れはアジアに多くみられるが、それらが東洋(oriental)文明の成長に大きな役割を果したのである」みたいな感じで、「四大文明」のもう一つの含意、大河と文明の関係について説いているのである。

運河の時代

 これは実はわりと簡単な話で、産業革命の階段を徐々に登っていった西欧社会が運河の重要性に沸いていた時代だったのだ。カール・リッターの著作が発表された1810年代末というのもまた微妙な時代で、イギリスで運河ブームがあったのが1760年代から1830年代で、そのピークが1800年前後。一足先に運河システムで内陸部をつないだフランスがフランス革命のあとナポレオンを生みだしてドイツをボコボコにしたのもそのころ。つまりカール・リッターが考えをまとめた時代はすなわちドイツが復興する時代で、それに必要なものとして内陸水運を提示したというわけだ。

 さらに面白いのは鉄道が黎明期で運河をまだ代替していなかった頃。イギリスの運河時代はやがて鉄道時代にとってかわられる。ドイツは山岳地帯もある内陸国なので鉄道の方が向いている。とはいえたとえば南部ドイツのバイエルンでは域内を流れるドナウ川ライン川・マイン川を繋げる運河の計画に執着し、マイン川水系のフランクフルトのロスチャイルド家に金を出させて運河を作らせたりした。(時間がかかったうえにしょぼく、より早くできた鉄道の方が効果的だったらしい)。ちなみにカール・リッターが大学をでたあとフランクフルトの名家ホールベルク家で家庭教師をして名声をあげ、その間にフンボルトと出会ったりしていたのも無関係ではあるまい。

 では運河は時代遅れだったのかというとそんなことはなく、たとえばアメリカでは1825年にハドソン川エリー湖を結ぶエリー運河五大湖とニューヨークを結び、1948年にはイリノイ・ミシガン運河で五大湖ミシシッピ川が結ばれてアメリカの内陸を通る大動脈が完成している。さきほどのバイエルンから流れ出るドナウ川の河口は黒海にあるが、19世紀初頭にはオスマン朝支配下にあった。オーストリアハンガリーと二重帝国を形成したのもドナウ川を動脈としたためだし、その後オスマン朝支配下独立運動が盛んになるのもこのドナウ川の水運にも一因があるだろう。

一般教養としての地理学と「東洋の衝撃」

 さてそれはともかくヘーゲルが歴史哲学で前提としたのは一般教養としての地理学的知識であって、その地理学に含まれる環境決定論的な発想は文系への「科学的な物の見方」に多大な影響を与えている。それはヘーゲルがそうだっただけではなく他の学者もそうだったのである。

 さらにいうとこのころはまだ聖書的な歴史観が西欧には存在したし、考古学もまだはじまった頃だった。上述ナポレオンがエジプト遠征でとってきたロゼッタストーンの解読法をフランスのシャンポリオンが発表し発表したのが1822年。つまり「古代」が徐々にわかる時代だった。ただし考古学ばかりでわかったわけではない。ヨーロッパは既にインド・中国と接触・交易している。インド綿はイギリスの羊毛産業を壊滅させた結果産業革命をもたらすし、中国の陶磁器もインド綿同様世界商品として当時の東西の市場を席巻し、西欧社会はその模倣品を必死に生みだそうとしているところだった。産業革命をもたらしたのは「東洋の衝撃」が大きいのである。かれら西欧社会は「東洋の衝撃」に対応するために産業革命と同時に博物学を発達させ、近代科学へ突入したのだが、その歴史地理的な分野へ及んだのがカール・リッターでありヘーゲルであるという見方もできる。なのでヘーゲルギリシャの哲学者の発想を抽出してアウフヘーベンしたのも、オスマン朝・インド・中国の文化的なパワーに対抗するための西欧の手段ともいえる。

聖書と並ぶ古代社会

 ということなので、インド・中国の文字資料がやたら古い歴史を残している事は知られていたし、それを確かめるための手段も徐々に整いつつあった。つまり聖書の語るところでわかる一番古い社会はメソポタミアだが、その横にあるエジプトの古さは遺物から直接わかり、なおかつインド・中国も古いらしいし発達した社会がある、ということもわかっていたので当時の西欧の知識で古代社会といえばその四つになるのは常識的なことだった。当時の知識では「ギリシャ・ローマ」がより新しいのは聖書の記述により自明。なおかつ運河の知識があればそこにある大河がなにか機能を果しているようにみえる。

日本への伝播経路

ブルンチュリ『国家論』の訳 明治15年(1882)

 ということで、当時の西欧の常識的なところを日本の受験産業に列挙させたら「四大文明」が誕生した、というふうにまとめてもいいのだが、その伝播経路として重要なものを一つ挙げてみる。

 ブルンチュリ『国家論』の平田東助による翻訳(明治15年、1882)が一つ。その巻之二國民及國土の國土の項にある。

此他國土ノ形勢ハ其民ノ憲法ニ關係ヲ有スルコト亦大ナリ 世界開闢ノ後初メテ成立スル大國ハ概ネ大河ノ沿岸ニアラサルハナシ 彼ノインドノ「インツース」及「ガンゲス」兩河ニ於ケル 埃及ノ「ニル」河ニ於ケル 小亞細亞ノ「チグリス」「ヲイフラート」兩河ニ於ケル 支那ノ「キンキャン」河ニ於ケル如キ是ナリ

 みたらわかるように「キンキャン」が何かわからないが、それからわかるようにその専門ではないが耳学問で知ってるので適当に並べてこのように書けるのである。また逆に専門でないから、その常識的な知識を適当に整理してその知識を披露すると四つになるという事でもあろう。もひとつ重要なのが、このブルンチュリは明治初年に『国法汎論』が訳され近代日本の裏付けにも利用された。平田東助は岩倉使節団随行して留学し、ドイツではブルンチュリについて学びそのときに日本人として初めて博士号を取得している。そのブルンチュリ直々に教えを受けた博士サマがブルンチュリ本人に見せたような訳書にそのように書いてあるので当時の東京にいた知識人はこぞって読んでいたに違いない。

ヨハン・カスパー・ブルンチュリ - Wikipedia

 ブルンチュリもカール・リッターよりは30ほど若いが同時代に存在した人間である。カール・リッターやヘーゲルの謦咳に接した可能性の高い人間に直接師事した平田東助が日本に運びこんだ知識の一つに紛れこんだのがこれ、だとするとかなり面白い話になる。たださきほども書いたように当時の常識的なところをつないでいって人類最古の文明みたいな数え方をすれば自らその四つに絞られるのでそうとも限らないと釘を刺しておこう。

『萬國通鑑』明治21年(1888)

 もうひとつ日本人の著述としてわりと古い所を挙げておくとこれが挙げられる。長谷川郁馬の作で杉浦重剛が序を書いている。この本にはこのように書いてある。

歴史上ニ古國ト稱スルモノハ所謂人類發生ノ地ニ近接セル東方諸國トス特ニ主トシテ黃河Hoang'o揚子江Yangtsekiangがん志゛す河Gangesいんだす河Indasゆーふれーてす河ちぐりす河、及ヒないる河Nile沿岸ノ平原ナリ

 今まで述べたように常識的なところをあげるとこうなるというだけだが、わりとおもしろい点としては英語のラテン文字表記してある部分にドイツ語のヒゲ文字も併記してあるところ。序によると長谷川がいろんな本を読んでまとめたみたいに書いてあるので原書を読んだのかあるいは単に万国史の類を読んでまとめたのかわからない。ひとつ言えるのはブルンチュリそのままではないことで、他にも出典があることがわかる。

糟川潤三編『西洋今昔袖鑑』明治5年(1872)

 大河とセットにない状態で挙げるとこういう例もあり、今まで述べたように世界最古の文明として当時その四つあげるのが常識だということの例になる。

天文學之始 此學ノ起ルヿ最古ク支那トモ埃及エジプトトモ印度トモ或ハ迦勒底カルゼールトモ云其説一ナラス

 ということで、石川2019などのいうように西洋に既にあった発想が日本の教育のどこかで「四大文明」とまとめられる前の状態を追ってみた。これ簡単な話だが国会図書館デジタルコレクションをすこし工夫して使えば簡単にできることなので別にすごいことでもなんでもない。最近OCR範囲が拡大してさらに調べものに使えるようになっているが、OCRは所詮絵合わせなので現代の活字からかなり字形がずれている明治のころの字は誤読がたくさんありそのままつかうとあぶない。いろいろ検索手段を平行して持って置いた方が無難である。無論検索できた部分だけではなくてもっと全体に目を配って読む、あるいは検索するのが必要となる。その書籍は検索してみつかった文句だけではなく、その他の部分があるから成り立っているものなので、全体の中でどういう意味があるのか考えないといけない。と説教みたいなこと書いてもしかたないんだな。