メモ@inudaisho

君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

京都新聞「勤王の村」記事の謎 その4 研究者の偏執

これまでのあらすじ

 京都新聞に「勤王の村」という歴史事実を偏って切り出しいたずらに山国を攻撃する謎の連載があったが、それは記者の樺山聡が偏っているというわけではなく、そもそもの「山国荘調査団」のロートル坂田聡・天キチ吉岡拓に原因があった。ということでネタ元である坂田聡・吉岡拓『民衆と天皇』の性質について軽く紹介したが疲れて途中で終わった。

天キチ吉岡拓

 坂田聡が参加したものに坂田聡 榎原雅春 稲葉継陽『日本の中世12 村の戦争と平和中央公論新社、2002 があるが、ここではひたすら山国などを例にあげて「家制度」について書いている。理論をもてあそぶ傾向はあいかわらずだが、学者の一般向け著述としてはそうおかしいものでもない。

村の戦争と平和 (日本の中世)

村の戦争と平和 (日本の中世)

 ではその坂田が12年後の『民衆と天皇』ではどうして観念先行で歴史を操作する記述に堕落してしまったのか。もともとそういう面があったけれども「イエ」の研究ではわりとうまくハマっていたのが、「天皇」ではうまくハマらなかったともいえるが、そのハマらないところへどうして突き進んだのだろうか。その謎について前回では 1950年代生まれ世代の元サヨクの中での流行に乗ったと適当に書いたが、それよりも大きな要因として、2006年から「山国荘調査団」に参加した天キチの吉岡拓がいる。その出世作は吉岡拓『十九世紀民衆の歴史意識・由緒と天皇校倉書房、2011 であり、タイトルからみてもその続編として構想されたということがわかる。坂田はなぜその学を折って若手の吉岡に迎合したのだろうか。まずはその天キチぶりをみてみよう。

天皇の存在に違和感

 吉岡の天キチについて前々回では『由緒と天皇』の末尾に書いてあった香港の日本人学校のことを紹介したがそれは萌芽といえるものだった。もっと直接のきっかけは『由緒と天皇』の冒頭に書いてある。2004-2006 の皇室典範の議論の中で「論議の過程で皇室の存続自体の是非についての話題がまったくといっていいほど出されなかったという事実に、いささかの驚きを禁じえなかった」(p11)と書いている。そしてそれは日本の敗戦後の天皇人間宣言について、国民がそれを受容したのは「天皇制が存続することに違和感を覚えなかった」(p12) からで、それが今もつづいているから、と繋げている。要は彼は違和感を覚えるらしい。

 ある事物についての研究であっても、その存在が不思議でどうしてそこにあるのか調べたいとおもうのと、存在すべきでない異物と感じて存在理由を調べるのとではまったくその後が違ってくるが、彼は後者のようだ。

憲兵吉岡

 まぁ研究者の卵のころにたまたま話題になったことにとりついてそのまま研究人生を終えるということはよくあるが、入口としてはそうらしい。受容史というアイデアが既にあるので、そこから天皇がどう受容されたのか、と応用し、さらにその受容が天皇をどう支えたのか、というところへ行くのは自然というか、学者稼業としては目敏いといえるだろう。しかしまたその手法があざとい。たとえば『民衆と天皇』にはこんなふうに書いている。

ここで、やや唐突ではあるが、「勤王きんのう」という言葉について考えてみたい。民衆と天皇の関係を語る時、私たちは「勤王」(あるいは、「尊王そんのう」)という言葉で説明しようとする傾向がある。「勤王」とは、自らを顧みず、天皇のために尽くすことである、現在を生きる私たちは、この言葉をそのような意味合いを持ったものとして理解している。(p109)

 彼はこういう荒唐無稽な前提を最初に持ってくる。そしてその内容が現実にあるはずのものだとして歴史事実を眺め、合わない事実がすこしでもあったらそれを取りあげ喧伝し、「民衆」はそもそもこんなに「不敬」だった! → 天皇は利用される側だったんだよな~という話に持っていく。戦前の特高警察や憲兵隊が「不敬」を摘発したのとはまた逆の方向で、「不敬」に相当すると彼が思う事例をみつけて摘発してみせるのである。

天皇に関する由緒を主張していた山国・黒田地域の住民たちでさえ、近世は「勤王」ではなかった ーー この事実は、民衆と天皇の関係を語る時に、この言葉以外の形容法を知らない、あるいは、この言葉の右に述べたような形で固定的に捉えようとする、私たちの考え方そのものに問題があることを示しているのではないだろうか。(p109)

 そうだよおまえの仮定がおかしいんだよ。つまり彼はわかってわざとこういう操作をやっているのだ。彼は現代への呼び掛けを目的としたアジテータそのものであり、そのアジる材料として山国・黒田を利用した。

大原郷士の研究

 さきほどの『由緒と天皇』にある大原郷士の研究をみてみよう。大原は京都の左京区の山に入っていったところにあり、「きょうとーおおはらさんぜんいん」で有名だが、山国と同じように家柄だけは良い人たちがいて郷士と呼ばれる。その彼等が幕末のころ木地師の由緒をとりこみ、惟喬親王の政所を務めたのがその由来ということにした。そして明治維新後、士族編入運動のときにその由緒の天皇との縁を強調して武器にした、ということだ。これをみればわかるが、彼の「天皇に関する由緒を主張していた山国・黒田地域の住民たちでさえ、近世は「勤王」ではなかった」モデルの由来はその大原郷士だとわかる。まず大原郷士は自分達の由緒を皇族の配下であるところに直接接続した。そして江戸時代特に皇室との繋がりはなかった。そして明治維新になってからその由緒を利用して士族になろうとした。このモデルを『民衆と天皇』において無修正で山国に適用したところが非常に筋がわるい。

 山国で由緒を接続したのは平安京建設のときの杣人ということだったが、その杣人たちは皇族などの権威そのものではなく当時の政府機構の一部の修理職であり、実際にもその後修理職領だったということになってるので、その起源が正しいかはともかく、史実から異常に離れているわけではない。由緒の中ではその後天皇などとの関係だけではなく、室町将軍家などいろんなところとの関係を主張したのでその正当化に天皇の権威だけを必要としたわけでもない。元禄前後に山国の一半は禁裏領に復帰して直接の関係があった。しかし全てではなく残りは旗本領などとして幕末まで迎えた。つまり荘園として過去よりも小さい機能不全な状態で皇室の要求に応じなければならなかったことを意味するのに、一度は断わったのを吉岡はことさらに取りあげてご都合主義の民衆の天皇利用とみなす。明治維新後の士族編入運動で大原と同じような態度をとり、結局報われなかったことも大原と同じなので、そこからさかのぼって同じようにみなしたいのはわかる。しかし、これだけの差異があるので吉岡の単純すぎるモデルは修正しなければならないのだが、そうかといってあまり一般化すると権力なら何でもよく、天皇である必要はないことになってしまう。彼のモデルでは「民衆」は非勤皇だが利用だけはするという態度をとらないといけない。そこで、そのモデルに合う歴史事実だけを拾いあげ、強調することになった。つまり粗探しだ。そしてそのモデルの主体を「座衆」「旧名主層」「郷士」などではなく、「有力百姓」とした。一般化させるつもりがあったのもここから明白である。

 大原郷士の士族編入運動の顛末や由緒の内容の構成などは、やはりおなじ京都北部山間というだけあって、山国と相似しているところがあり、京都周辺、もしくは近畿の似たような郷士とその由緒、士族編入運動などまで手を広げて比較するとかなりおもしろい研究になるであろう。吉岡はその方面に行けば重厚な研究の道を開けただろう。しかしそれをゆっくりやっていては京都ないし近畿ローカルの研究者にとどまってしまう。それまで見落されていた郷士の士族編入運動の専門家ではスケールが小さい。学者として名を立てるには坂田のように全国に適用できそうなモデルを構築しなければならない。そこで、生来のアジテーターの気性を発揮し、大原郷士の研究でみつけた単純なモデルをそのまま山国に適用して業績をうちたてようとしたので、さきほど書いたような逆憲兵的粗探しゲームに堕落したのだ。

空中戦坂田と逆憲兵吉岡の悪魔合体

 さて、ここまで書いたことでどうして『民衆と天皇』が山国の歴史を切りとって攻撃するような内容に堕したかおわかりであろうか。

  • その昔山国の資料をおもにつかって業績を立て、また山国の例だけを挙げて理論を展開した空中戦「イエの坂田」

  • その時代にそぐわない現代の観念を使って過去を摘発し現代を告発する悪癖をもった天キチ逆憲兵天皇制の吉岡」

 おそらくこの二人の組み合わせで、若い吉岡の天皇理論を援護するため坂田が無駄な力を出したのではなかろうか。もしくは坂田が浅知恵出してこれで行けるとおもったのではなかろうか。そして「山国の資料を使うこと」と「民衆と天皇に関する理論をうちたてること」が既定路線となり、まだ十分に研究を展開していない吉岡のバカ理論をそのまま山国に適用して著述を作りあげようとした。ここに、まるで20世紀中頃のような理論先行の歴史学(もしくは小説)が爆誕し、山国はその犠牲に捧げられたのである。

 そしてその浅薄な著述を無神経な京都新聞の樺山聡記者が適当にまとめたため、著述の持っていた粗探し傾向がそのまま前面に押しだされた記事となった。それが1月30日から2月1日にかけて連載された「勤王の村」記事の正体だ。

(了)

(追記: その後、粗探し傾向になった原因を発見した↓ 。人のアイデアをパクってパクりきれず粗探しだけが際だつキモい研究になったのだ)

inudaisho.hatenablog.com

山国隊 (中公文庫)

山国隊 (中公文庫)

川瀬巴水版画集1

川瀬巴水版画集1

京都新聞「勤王の村」記事の謎 その3 『民衆と天皇』

これまでのあらすじ

 京都新聞に「勤王の村」という三回の連載があったが、内容は山国地方の歴史から歴史事実を偏って切り出して攻撃する謎の煽り記事であった。その記事を書いた樺山聡記者の偏りによるものかとおもっていたが、調べてみるとそもそも「山国荘調査団」のロートル坂田聡と天キチ吉岡拓に原因があった。

『民衆と天皇

民衆と天皇 (高志書院選書)

民衆と天皇 (高志書院選書)

 坂田聡・吉岡拓『民衆と天皇高志書院、2014 という本がある。これは山国荘を対象とした科研費研究の研究成果の一部でもあるのだがそのわりには妙なタイトルだ。彼ら自身はこう書く。

『民衆と天皇』。本書のタイトルを見て、天皇の方が先、いや、天皇が上に来るべきだろうと感じる読者も多いことと思う。だた、実は民衆の方が先にくるこのタイトルにこそ、本書のねらい、私たちの主張が込められている。(p1)

 そこじゃないだろ。 仮にも山国のことを研究してそれをまとめた本を出したわけだから、まずは山国をタイトルのどっかに入れるべきだろ。この二人の心得違いはここだけみてもわかるが、名は体をあらわすという意味ではそんなに間違えたものではない。つまり、彼らにまず言いたいことがあり、そのダシとして山国を利用したということだ。「はじめに」の中では再三「民衆」を「天皇」よりも先に出した意義を強調しているが、山国のことばかり書いてある本で天皇がタイトルの先頭に来たらそっちの方がおかしいだろ。 常識がないのか坂田は。

研究対象への興味のなさ

 興味のなさと書いたが、彼らはそれぞれの興味の主体があってそれには非常に強い執着をしめす。坂田は「イエ」、吉岡は「天皇」だ。しかし彼らのそれらへの執着が強いあまり、山国はただの素材と化してしまい、好きなように切りとって利用するものとなった。したがって彼らの興味の範囲外のことは非常に雑である。たとえば坂田がくだらない託宣を並べたあとにようやく山国の歴史にふれだす部分をみてみよう。

山国杣から山国荘へ 山国荘地域の歴史は、遠く奈良時代にまで遡る。(略) その長屋王の広大な邸宅跡から発掘された「木簡」(木簡の説明は略)の中に、「山国そま」と明記されているものがあった。(p27)

 そんなものはない。この本が出たのは長屋王邸宅跡が発掘された1980年代後半ではない。つい最近の2014年だ。インターネットで木簡の全文が検索できるこの時代に、この坂田はネット普及以前で発掘調査から数年の1994年に旧京北町の団体が出した郷土史雑誌の記述を元にしてこの部分を書いている。しかも間違っている。最初に紹介したように、木簡に書いてあるのは

桑田郡山国・秦長椋伊賀加太万呂二人六斗

木簡庫 奈良文化財研究所:詳細

 であって、「山国」ではない。これは郷土史の雑誌が間違えたのか、坂田が間違えたのか、といったそういうレベルの問題ではない。坂田は文献史学の専門家のはずであり、文献上の隻言片句を大事にする学者であるはずである。しかも20年ほども研究対象としていたその地域の、奈良時代のたった一例しかない貴重な文言をろくに調べず半分素人のような人間の記述の引用で済ます程度の人間だということだ。まぁ私大の日本史なんてこの程度の人間でもつとまるものかもしれんけどね

 実際には長屋王邸跡から出てきた木簡にはこういうものもある。

丹波杣帳内・「□上」

丹波杣一斛九斗五升

木簡庫 奈良文化財研究所:詳細

木簡庫 奈良文化財研究所:詳細

 ちなみにこの「丹波杣」についての見解としては

丹波杣は所在地不詳。丹波国を漠然と指すとみるよりは、平安時代興福寺領荘園のあった大和国山辺郡の丹波、あるいは東大寺領荘園のあった大和国城下郡の丹波と考えるべきか。丹波杣には帳内も所属していた(『平城木簡概報』二三、七頁下段)。

 これを京都の北の山国のことだと強弁し、山国の木材が奈良の貴族にまで知れわたっていたという偽史を作りあげるならそれはそれでよい。しかしそういった態度は彼が『由緒と天皇』(およびその元ネタの『禁裏領山国荘』2009)でとりあげる由緒書の偽造と同じではなかろうか。研究を長年つづけると研究対象に似てくると言うけれど、それかな?

(実は『禁裏領山国荘』2009でもこの木簡を正しく引用している論文がある。坂田が適当に書き飛ばしてるだけ)

空中戦の坂田

 さて、そういう細かい揚げ足とりはそのへんにして、坂田がこの本で山国を利用して何を言おうとしたのかみてみよう。

「民衆の一定部分、具体的には中間層と呼ばれる有力百姓(本書では「村の草分け」としての由緒を誇る百姓のことを、有力百姓と呼称する) が村内における特権的地位や既得権益を維持するために、天皇の権威を積極的に利用し、結果として、天皇家の存続を下から支える役割を担った事実を、通時代的に明らかにする」(p13)

 へぇー。天皇家の存続を下から支える。どうやって?そのあとに種あかしとして三点挙げている。

  • 1 戦国時代に百姓(有力百姓のみならず平百姓の一定部分も含む)のレベルでも先祖代々伝えられる家が成立すると、自家の家格の維持・向上をはかることが、家を持つことができた百姓たちの切なる願いとなった。

  • 2 その願望を実現するために、彼らは絶えず、自家の由緒を天皇や朝廷と結びつけることにより権威づけようとし続けた。

  • 3 ただし、彼らは天皇の権威にいつでも盲目的に服従したわけではない。たとえ天皇や朝廷の命令であったとしても、自分たちに都合の悪いことには反対したり、面従腹背したりするしたたかさも持ち合わせていた。(p14)

 これをどう読んでも「天皇の存続を下から支える役割を担った」というわけにはならないとおもうんだが、これで論証できるらしい。よほど頭がおめでたいのかな? たとえばこれが、天皇と関係ない土地で、天皇との関係を捏造する由緒が争うように作られ、自ら進んで天皇に土地を寄進しつつ、要求はそう簡単に飲まないというような状況が方々にあり、天皇の存在が面として要求されていたという事実があったなら、わかる。しかしここは「禁裏領」山国だ。京都からがんばれば一日で往復できるような場所にあり、室町時代には実際に皇室領だったような土地だ。そういうところで天皇の権威が利用されるのは当然のことで、それは江戸で将軍の権威をカサにかけているようなものだし、御所の横の菓子屋が皇室御用を看板に掲げるようなものから、この一点だけで何かを言うことができるとはとてもおもえない。しかし坂田がそう企図したのにも理由がある。

 既に書いたが、90年代前期、坂田は山国などの資料を使って名字が大量に出現する時期を調べ、また家産の移動の研究も援用して、家名・家産・家業がセットとなった「イエ」の出現時期を明らかにした。つまり、主に山国荘の資料をつかって業績を挙げることに成功したのである。しかしそれは共産党が家父長制なるものを攻撃しだして以来のイエ論争の蓄積があり、また史料的には『丹波国山国荘史料』1958『丹波国黒田村史料』1966 等の便利な翻刻があったから、そういう巨人の肩の上にのってちょこっと自分の成果を加えることで達成できた。そこからひきつづき、山国荘の資料を駆使してなんらかの業績を挙げようと意図するのはよくわかる。しかしそもそも彼坂田は空中戦で既に出てきた論点を整理するのは得意でも、資料と向かってなにかひきだしてくるのは得意というわけでもないらしい。たとえば、山国の歴史で重要な意味のある宮座、これは西日本に広く分布するもので、山国だけを睨んでいても何も言えない。かといって「イエ」が想定しているものとはまた違う組織なので、別の観点が必要になるのだが、これについても寝言のような紹介をして、「イエ」の観点から適当な因縁をつけるだけだ。要は山国荘の資料で全国的に通用することを言えるのは彼の手腕では「イエ」くらいしかひねりだせず、あとはかなりローカルな情報が多いので、空中戦の得意な坂田には山国荘の調査はなかなかつらい舞台だったといえよう。しかし資料は歴史家のメシの種だからそう軽々と離れられない。

 さてその坂田がおそらく1950年代世代のサヨクくずれが多い日本史業界のトレンドを読んだのだろうか、山国をネタにして天皇を論ずることにしてヒネり出したのが上で紹介した三つだ。イエ研究でやったように、山国荘の資料から必要な論点に合う資料を切り出せばよいではないか。ということでここに断章取義がはじまる。

「有力百姓」

 まず彼は「百姓」という言葉を定義した。これは漢文的な使い方の百姓のようだが、おそらく「民衆史学会」的な意味での民衆の言い変えだろう。直接使うのははばかられたらしい。さらにそれまでの山国荘の議論にはない「有力百姓」という概念をひねりだした。これは、それまでの論文であれば、「旧名主みょうしゅ層」とか「座衆」と言っていたものだ。これを有力百姓としたのは、坂田の「民衆と天皇」のストーリーの「民衆」側の主人公として凸出させるためだ。そこを今まで通り「座衆」とか「旧名主層」とやってしまうと、それだけで、「あ、家柄だけはいいことになってるけど落ち目の人達なんだな」とわかってしまう。坂田が作り出そうとしたのは、「平百姓」の上に立ち、天皇との因縁をふりかざして、特権を維持する特殊階級だが、皇室御用にはそむくこともある、そういうふてぶてしい人達のイメージだ。そしてそういう人たちの存在がひいては天皇の存在を支えた、そういうストーリーだ。

光秀乱入事件

 ただし坂田のまとめ方をみると案外普通で拍子抜けする。しかも自分で定義している有力百姓をそれほど積極的に使ってはいない。しかし、ところどころで無理に天皇にこじつけて解釈しようとしている。たとえば光秀乱入事件だ。

f:id:inudaisho:20190218214145p:plain
天正七年光秀乱入事件の当該部分 『丹波国山国荘史料』

 この光秀乱入事件というのは由緒書に乱入と書いてあるのだが、光秀が天正七年旧京北町の中心に周山城を作った年に山国へ攻めこんで名主層を追い出したというものだ。旧京北町の西部に宇津というところがあり、そこの宇津氏が山国を押領しようとしたが、それを三好長慶織田信長などに回復させた、という事が知られている。光秀は丹波平定の一環として宇津氏を平定し、周山城を築いた。由緒書ではそのとき光秀は山国の住民とよい条件で和解しようとしたが、なびかないので周山城を作ってから攻めてきたというふうに書いている。坂田が書いているのは、しかし同時代史料に「光秀の乱入」についての記録がみあたらないから実は光秀の乱入はなく、宇津氏を攻め滅ぼした際にいっしょに山国から排除され、あとから帰ってきた名主層が光秀逆賊説を意図的に広めたのでは、というものだ。そしてそれは山国が禁裏による直接支配の回復を喜んでいなかった事を示す、という筋で坂田が紹介している。

 実は山国内部の人間に宇津氏と結んで自立しようとしたのがいたのでは、という事は20世紀の仲村研の研究などでも書かれていたし、『丹波国山国荘史料』の水口氏系図(451)にも光秀が滅ぼした波多野氏の側に立って死んだ人間が書かれているので、光秀の乱入というのは実は宇津氏を滅ぼしたときについでに山国に攻めこんで宇津氏と結んでいたものを殺したという筋はあってもおかしくない。帰ってきたときに光秀が全部悪いことにしたというのもありそうなことだ。しかし、坂田が、「禁裏による直接支配の回復を必ずしも歓迎すべき事態ではなかったことをはからずも示す事実」(p42) と書いているのはどういうつもりでこんなこと書けるのかがわからん。

 だいたい追い出された名主層がいつ帰ってきたことを念頭に置いているのか。この由緒書の内容は、坂田自身が書いているところによると「名主家の既得権益の起源をもっともらしい物語にしたてあげたもの」つまり歴史事実は何一つ書かれていない政治文書ということだから、帰ってきたという名主層がいつ帰ってきたのか、それによって彼らの言うことが変わらないといけない。ところが光秀はその後数年で滅び、秀吉の時代がやってきて太閤検地で名主層の特権が消滅したとめまぐるしく変化した。そのとき既に禁裏領でなくなったというのが「通説」であり、また坂田もそこは否定していない。禁裏領どころか自分たちの特権もなくなったのだから、禁裏による直接支配がどうのこうのという騒ぎではない。そういうところへ帰ってきて、光秀が悪いから追いだされたということにするのは、秀吉の治世ならよい手だし、徳川の治世でもそれはかわらない。そういった文脈の政治文書のどこからみて禁裏による直接支配を歓迎してないことを読みとれるのかわからない。特に鳥居氏などはその宇津氏と結んでいた家として挙げられてもおかしくないわけだが、そうだとすると追い出されて帰ってきたことになるから、中世文書が残ってる方がおかしいことになる。残っていないはずの中世文書を大真面目に研究してる「山国荘調査団」はアホばっかりということなんだろうか。

 まぁそもそもこの、坂田の記述自体が「偽文書をつくる人たち」と「天皇支配を歓迎しない人たち」という彼らの主張したい観念を浮き彫りにするための「政治的記述」ではなかろうか。

 三回で終わるつもりだったが一日かけてここまで書いて疲れてきたので最後「天キチ吉岡拓」は明日書く。

山国隊 (中公文庫)

山国隊 (中公文庫)

丹波国山国荘史料 (1958年)

丹波国山国荘史料 (1958年)

AtCoder ABC118 2完 つらい

敗戦の弁

 今回は一言でいうと「つらい」。Cが見ぬけなかった。

 まずA,B。これは8分で飛ばせた。お? 今回は快調に行けるか? とおもったものの。

 C がGCDであることをみぬけず、半二重ループでひたすら全検索してしまった。まぁ前処理で全部のテストケースを全検索することはなかったものの、ひとつだけ前処理で圧縮できず、しかもこんな簡単そうなものはバカループで抜けるはずと思いこみ、ひたすらひたすら半二重ループをまわしていた。そのとき男の頭に計算量の概念はなかった。終了。

f:id:inudaisho:20190216231710p:plain
え 汗 また落ちた

 これはダメ。黒歴史とかじゃない。ただのダメ。当然のことながらはげしく順位を落としてしまった。いやー。さすがに緑から落ちる日が来るとは思わないが、この調子でダメを晒していると転落もあるかも?

C の考え方

 違うことを考えていたときに、ついでにCについて反省してたら、ふと気がついた。C問題のイメージ的には数字が殺しあい消し去り合いながら最後に立っていたものの最小と考えていた。そこでスキマ(差分)がたまたまうまく1になるときがあるので実際に消しながらそれを探す、みたいなことを考えてしまったわけだ。

 そこで前提条件を変えて、皆消えない、殺しあうのでなく減らしあって何かが残るその高さと考えていればよかった。そうすると、ユークリッドの互除法そのものか、となる。どうもこういうとき考えの邪魔だからどんどん消していこうとしてしまうのだが、実際に問題が問うているのは「最小は?」ということなので、残していった方がよい。結局、頭の中のイメージ操作に思考を依存しているので幾何的にハマると強いが、逆にそこをちょっとズラされただけでうまく釣られてしまうということか。うーむ。

 twitter みてると このABC118C、意外に考え方が難しいと書いてる人が多いので、たぶん同じような思考の穴にハマった人がいるのでは。

素数入門―計算しながら理解できる (ブルーバックス)

素数入門―計算しながら理解できる (ブルーバックス)

京都新聞「勤王の村」記事の謎 その2 坂田聡と吉岡拓

ネタ元のふたり

 「勤王の村」記事が奇怪な論理で山国を攻撃していることは「その1」で書いたが、それは阪大卒の樺山聡記者の一知半解無知無能によるものであろうか? 実はそうではない。樺山聡記者は関東出身で京都の田舎に特に興味も愛着もないから無責任にああいう煽情的な記事を書けるだけで、案外記事のまとめかたとしてはそれなりだった。問題はネタ元の「山国荘調査団」の坂田聡と吉岡拓のふたりにある。

坂田聡

 まずは親玉の坂田聡について。現在中央大学の教授であるが、その経歴をたどってみると、1953東京生1977中央大学卒ということで、70年代左翼の巣窟中央大学で大学のとき何をして卒業が遅れたのか調べたらおもしろそうではある。修士を出たあとは高校の教員をしながら博士過程を修め、91年に函館大学商学部で講師となり98年に博士号取得とともに中央大学の職を得、その後は中央大学に居座り既に年金受給年齢に達しながらもいまだに科研費研究の代表をやっているようだ。

 この坂田はもともと例の「イエ」が専門で、1950年代共産党の活動が結果としてうみだした「民衆史研究会」にも参加しており、思想的傾向はある程度伺えるところだが、この世代としては普通だろうから云々してもしかたない。90年代前期に「近世前期の同族組織と村落構造」『史学雑誌102』1993 や「中世の家と女性」『岩波講座日本通史 第8巻』1994 で既にこの山国荘の資料を駆使し、苗字が使われるようになった時期はいつからかということについて考察を加えている。若手学者の登竜門といえる史学雑誌の「回顧と展望」を1992年には書いているので、どうもそのあたりの業績が認められて中央大学に研究拠点を構えることができたというところのようだ。その成功の元は問題意識をもって資料を読み解いたことということで、既に1991年ごろから資料収集で入っていた山国・黒田に、1995年から更に資料を集めるために調査を開始して以後今まで続いている。前回書いたように史料は学者のメシの種、史料を押さえておけばメシには困らないというわけだ。1950年代から同志社など京都に山国荘研究の拠点があり、中には中世近世の山国研究が昂じて明治維新の山国隊の本まで出した仲村研という人がいるが、この人が死んだのが1990年(58歳)である。一方で関東の研究者が80年代に山国へ入っていたが、その後80年代後期から山国荘の研究があまり活発でなかった隙を縫って資料の根源地を押さえたということになる。

 ではその後のご本人の成果はどうかというとかなり微妙である。その原因は簡単で、この坂田の興味は「イエ」の周辺にしかない。であるから、山国荘の資料をみてもその古文書の向こうに見えるのは「イエ」だけである。その興味の範囲で述べれることは既に90年代前期に見つけていたから、95年から新しく資料をあつめてもその「イエ」についてなにか新しい知見を追加できるものがそれほどでてこない。その興味の範囲の狭さについてはたとえば 坂田聡編『禁裏領山国荘』高志書院、2009 の先行研究紹介の中で、山国地域にとって極めて重要な林業経済の研究についての言及がなく、執筆者が21人もいるのにその中に林業について語る人間がいないことをみてもわかる。山国荘調査団の親玉はこの坂田であるから、この手落ちについては坂田の責任にある。他人の成果の上にのってあーだこーだと理屈をこねるのは非常にうまいが、自分で問題設定したりするのは苦手なんだろう。だからいつまでも山国荘の文書だけを睨んで「中世近世移行期の家」の像をこねくりまわしているのである。

 実際、この『禁裏領山国荘』はバラバラに論文がならんでいてあまり統一がない。中央大学が頭になってるこのチームは一人でうんうん唸って好きなことを言ってる人間が寄りあつまっているだけなのではないか。中には目新しいものもあり勉強になるが、彼らが「通説」と言い、大胆に書きかえたと主張する同志社大学人文研究所『林業村落の史的研究』1967 の掌の上で踊っているようにしかみえないものもある。縮小再生産してるだけなのに無理に違う事を言って喜んでるようなものだ。まぁ京都の山奥の資料を数日の旅行でかき集めて、関東平野のまんなかの東京の机の上で眺めているんだからそれもしかたのないことかもしれない。

f:id:inudaisho:20190216181601j:plain
これ書くために図書館で集めた本

吉岡拓

 さて、サヨクが「イエ」といいだしたら次はバカの一つおぼえで「天皇制」といいだすとみて間違いない。坂田が山国荘にとりついたのは「イエ」の問題と「天皇制」の問題を論ずることのできる一口で二度おいしい場所だからだろうが、残念ながら「天皇制」の分野について坂田は成果を上げられなかった。「イエ」で成功して視野が狭まりすぎたせいで「天皇制」のことが見えなくなったんだろう。それまで研究の上で「丹波国山国荘」と言ってたのを「禁裏領山国荘」と言いなおすくらいしかできなかった。その分野を担う期待の新人がこの吉岡拓である。

 吉岡は1978年生2000慶應卒とそれなりなようだが、その書いているものをみると、簡単に言うと近代天皇キチガイすなわち天キチだ。たとえば吉岡拓『十九世紀民衆の歴史意識 由緒と天皇校倉書房、2011 というのがあるが、それをみるとダラダラと歴史事実を追いつつも、そこで天皇やそれに関係するものに無私でなかったり尊重してないものをみつけると、ほれこのとおり、この時代この場所でも天皇を尊重していないといきなりわめきだす。彼がやってるのは研究といっていいものなのか。彼が天皇の権力について本来は奴隷のようにひれふすべきものと考えていて、その観念に合わないと、天皇の権威はこのとおりこの時代にはなかったのだと言いたいようなのだ。端的に言ってこの人は頭おかしいのではないかとおもう。

 さてこの人がなぜ天キチになったのか。研究者になった経緯については、その本のあとがきに詳しく書いてある。香港で1984-87年にかけて日本人小学校に通い、アメリカに転居する中で「日本人」たることを否応なく意識させられることになったが、また同時にアメリカで星条旗に国家への忠誠を誓う宣誓をすることに違和感を持つ。昭和天皇崩御の際の報道や反応で日本人にとっての天皇を意識するようになったが、日本に帰国してみると天皇の存在が逆に隠されているように感じたのがきっかけだという。それで史学科へ進んだというのだが、それだけでこのような、言ってみれば憲兵のような天キチにどうしてなったのかは不思議である。海外を経験して日本が異常というなら、海外の君主制との比較を始めればいいのではなかろうか。

 そこで『禁裏領山国荘』の吉岡拓の山国隊論説について見てみよう。「近現代における山国隊像の変遷」というタイトルがついているが内容は資料を並べて例のようにダラダラ紹介しつつつっこみをいれたものである。坂田による要約のまとめはこうだ。

そして、歴史研究者と地元住民の問題関心のズレが、住民らの山国隊認識を風化させたとみなす。

 はて?面妖なまとめ方だが実際に書いてある吉岡レポのまとめにはこういう一文がある。

この歴史研究者と地元住民との関心の相違は、結果として地元住民の山国隊認識について若干の「風化」を起こさせることになったのではないだろうか。

 彼がこのように言う根拠は『京北町五十年誌』2005 の中で山国隊について「維新勤皇山国隊」として記述されていたからである。またこの、歴史研究者というのは、それまでの研究が中世近世に偏っていたからことを言う。一個一個はそうだがまとめ方が異常である。はっきり言って非論理だ。地域外の人間の研究者と地域内の地元住民をどうしてそこまで直結できるのかわからない。まるで『京北町五十年誌』の記述が現地住民を支配しているような書き方だがその行文に支配されてるのは吉岡ではないのか。その彼の異常性は末尾の締め方にもあらわれる。

こうした状況に我々歴史研究者はどのように対応していくべきなのであろうか。それは、学術研究と郷土研究をどのように融合させていくべきか、という課題にもつながるのである。少なくとも我々歴史研究者は、自らの関心の中だけに閉じこもることなどのないよう律していかなけらばならないであろう。

 アジ文である。このアジ文の中でいう「こうした状況」も『京北町五十年誌』の中で「維新勤皇山国隊」として記述されていたことを指す。しかしその前に郷土史家による発掘や山国隊をイベント化する地元の取り組みなどにふれつつも、それをすっとばして「維新勤皇山国隊」として扱われることを正すべき状況だと感じているのである。彼は「過去がどうあったか」を調べる研究者ではなく「現在どうあるべきか」を訴える活動家ではないか。そのために歴史を利用しているのではないか。

 ということでその3「民衆と天皇」へ続く。

禁裏領山国荘

禁裏領山国荘

山国隊 (中公文庫)

山国隊 (中公文庫)

京都新聞「勤王の村」記事の謎 その1 樺山聡記者

京都の北の山の中の山国

山国の由来

 さて家のあたりのことを指して山奥山奥と何回も書いているが、その山奥というのは京都市の北にある旧京北町の山国という地域のことだ。わざわざ「という地域」と断っているのは、普通山国といえば山深い土地を指す普通名詞で、固有名詞っぽくはないからだ。そもそもこの山国という名前も本来は固有名詞ではなく、木材供給地としての山国だっただけかもしれない。奈良に都があったころ、信楽のあたりや伊賀のあたりに山国杣が設定されていたとされるので、その延長上で山国とされたのならわりと新しい命名になる。中心にある山国神社の由緒では平安京設置のときの木材供給地に選ばれて神社を外部から持ってきたことになっている。ところが、長屋王邸から出土した奈良時代の木簡に「桑田郡山国里」とあり、またこのあたり古墳が結構あるので案外その昔から開けていて「山国」という名前だったのかもしれない。一応祭神には大己貴と大山咋 の二説あるらしいが、大己貴なら出雲系ということで、出雲の方に山国という土地がある。その名前の由来は「是くに者、不止やまず欲見(この土地をずっとながめていたい)」(出雲国風土記)ということでわけのわからないこじつけではあるが、そのころの日本語では「やま」=山が自明ではなかったようだ。ま、そのあたり詮索しても所詮は古代の闇の中であるから妄想で遊ぶのはここまでにしたい。

山国の価値

 山国が単なる京都周辺の木材供給地として終わらず、日本史上でわりと有名になった事柄としては三つほどあり、一つは南北朝のころ光厳院が最期の土地に選んだこと、もう一つは室町時代末期の数少ない皇室御料(禁裏領)として、三好長慶織田信長がその回復に努めたこと、そして最後は明治維新のとき武士でもないのに東征に参加した山国隊を出したことである。平安京設置以来ずっと皇室領だった..のかどうかは知らないが、少なくとも室町時代くらいからは皇室経済の上で重要な部分を担っていたようで、上記の三つのこともその事実の周辺での出来事である。

 そして、戦後になって山国をまた別の意味で有名にしたことがある。それは家毎の文書の保存具合のよさだ。山間の寒村なのに、屋敷毎に文書が残っており、中には若干だが中世文書も含まれる。こんなにあるところは珍しい。しかしなぜそれが重要になったのかというと、戦後の歴史学の動向が関係している。ある歴史上の事柄について、その事柄と同時代の一次資料になるべく基いて歴史事実を明らかにするという近代的な歴史学の手法が戦前には日本にやってきていた。そしてその歴史学で扱う範囲が段々広がって、戦後には町・農村などにも及んできた。同時に、マルクス主義者の活動のターゲットが「民衆」に置かれたことが複合して、戦後は民間に眠って廃棄されつつある文書を掘りおこす活動が活発になり、それまで漠然と推測していたものとは違う日本像が浮びあがってきたのだ。(民俗学宮本常一の活動はそれに先行し、この歴史学の流れの源流の一つとなる)

 その活動の初期に目をつけられたのが京都に近いこの山国で、保存されていた古文書の一部が翻刻されて学界の財産として共有され、それを叩き台にして中世近世の村落のありかたについてよくわからん論争が繰り広げられた。下世話にいうなら、歴史学者の飯のタネを供給してくれた重要な土地の一つ、それが山国だったということだ。

「勤王の村」記事

上 20年の熱意

 さて、前置きが長くなったが、本題に入ると、京都新聞で2019年1月30日から2月1日にかけて、「ウは京都のウ ファイル14 勤王の村」として上中下三回の連載があった。記者は樺山聡。第一回目は「上 20年の熱意」。「京都の旧家に古文書1万5千点 「記憶の宝庫」の謎に迫る」 いう見出しで、山国の古文書調査に入っている「山国荘調査団」のことを紹介する記事だ。上述のように文書は歴史学者の飯のタネであるから、それをセッセと採集に通うのは理解できる話で、さぞ苦労なことだろうとおもって記事を読むと、妙なことが書いてある。

山あいの「村」に蓄積された記録を追ってきた25年。それは民衆にとって天皇とはどんな存在だったのかという謎に迫る旅でもあった。

 ん? 村のことを調べようとしてるんじゃないの? そもそも「勤王の村」というタイトルのつけかたも変だ。山国は皇室領だったから勤王とかなんとかいって気張るよりはもうすこし近い存在だったはずだし、それくらいで勤王というなら京都周辺に同じようなところはあるはずだ。

中 揺らぐ既得権益

 その次は「中 揺らぐ既得権益」。見出しは「アユ漁維持へ有力百姓したたか 天皇・朝廷とのつながり 切り札に」。その次の要約もなかなかひどい。

(略) 長年にわたる「山国荘調査団」による調査で、現代ではちょっと考えられないような興味深い事実が明らかになってきた。それは、自分たちの権益を守るために天皇・朝廷とのつながりを利用するという、民衆のしたたかさだった。

 うーむ?この人たちは何を強調したいのか。

「わしらの鮎を返せ 」と言ったかどうかは定かではないが、


「わしらは天皇と昔からつながっとる由緒ある家じゃ」とばかりに願書で主張した。

 わかりやすくするのはいいが.. あんまり京都人っぽくない言いまわしだな。これで本当に京都新聞の記者なのか。

 この回は、日本の中世・近世にはつきものの偽文書の話題なのだが、その「有力百姓」の由緒の偽造の話の間に、直接は関係のない「光秀悪玉説」の伝説を挟み、偽造された歴史のイメージを強調したあとでまた唐突に戻って、

高貴なお方との結びつきを自分たちの利益を守るために利用しようとする、たくましき民衆

 とつづける。悪意のある繋げ方だな。この偽文書は近年かなりクローズアップされてきてる話題で、たとえば南山城から大阪の北の方や奈良にかけてひろく分布している椿井文書というのがあってこっちはもっとすごい。そもそもこういう由緒書は昔は一笑に付されていたようなものだ。それなのにここまで大げさに驚くのは無知なのかやはりわざとなのか。

 その上でこう受ける。

さらに面白いのは、大嘗祭に際して稲を収穫する斎田に選ばれることを財政上の理由から拒むこともあったということだ。

 うーん? さて、こういうことを強調する目的は何だろうか。その次に吉岡特任教授なる人物の発言がつづく。

天皇に関する由緒を強調する江戸期の山国・黒田の有力百姓にとっても、天皇・朝廷とは何らかの利益をもたらしてくれる存在であって、時には奉仕を拒否することに端的に現れているように、無私の精神で尽くすという意味での『勤王』ではなかった」

 うーんん?? この吉岡がおかしいのか記者がおかしいのか? わざと現実的でない「勤王」を提示した上でその条件に合わないと落とす書き方をしている。ここまで三流週刊誌の煽り方に近いよな...この煽り方の理由は次の回でわかる。

下 山国隊の実像

 さて第三回目の最終回、「下 山国隊の実像」である。ここになると、どうして第二回でおもいっきり下げてきたのかがよくわかる。見出しはこれ。「戦前、広がる昭和の精神主義 創られた皇軍イメージ」。あー。そこを攻めたかったのか。

 しかしそれだけではない。もう一段ある。この回は明治維新のときの山国隊について、その参加は損得づくだと指摘。「無私」じゃないと言いたいわけで、前回わざと現実的でない「勤王」を掲げて落としたのと同じ手口。当時の日本は西軍と幕府方の間で様子見をしていたからそういう面があるのは当然の事だがそこを強調して、実態として「勤王」じゃないと言いたいわけだ。そして「勤王」を強調するようになったのは昭和の時代とつなげ、偽造された勤王イメージを自分たちのものだと思いこんだとつづく。

 最後に取って付けたようになんかいろいろ書いてあるんだが.... 端的に言ってバカにしてるよね。特に中の繋げ方がひどい。上と下だけで別々の話にして、下のネタを、「山国隊」がどうして時代祭の「維新勤王隊」になったのか、という視点で深掘りすればよいものを、山奥の思い込みの激しい愚民がそう思いこんだ、みたいなストーリーにしてある。しかも最後にはこうまとめてある。

先祖から地域の記憶が詰まった古文書という財産を預かった人々が、歴史家たちと手を携えて自分たちの過去をまっすぐに見つめる取り組みは、年号が変わって新たな時代を迎えても続いていくだろう。

 さらに歴史家に善導される愚民みたいなまとめ方をしていて非常に気持ちわるい。バカばっかりだったのか? この山国は。

 まぁこういうまとめ方をするのもアリといえばアリで、たとえば個人ブログでこんなふうに纏めてあってもこういう人もいるか、で済むところだが、その地域に根差している京都新聞が書くような記事ではない。なんなんだ?これは。おじいちゃんおばあちゃんも読むわけだぞ。そもそもなんで新聞記者が全部書いてるんだ?

樺山聡 記者

 気持悪い記事をみせられたので、まずはこの樺山聡記者がどういう人なのか調べてみた。意外に情報があっておもしろい。twitter でこういうことを書いている人がいる。

 この情報によると、「京大法」ということになる。しかし意外なのがこの「神保町のオタ」という人だ。書物蔵という古書・図書館クラスタの人がいて、こっちの守備範囲と近い人なのだが、その人のブログによくでてくるので知っている。この人がわざわざ二回もこの情報を流している。

 しかし、この情報は偽である。あたかも我々が偽の由緒書とやらを信じていたという話のようなもので、オタどんも偽情報を掴まされたのであろうか。

 この樺山聡記者についてはある情報から学歴が特定できて、

 ということがわかる。ほぼ同年代だな。高校卒業から大学卒業まで6年かかっているが、ひょっとして院卒なのだろうか。院卒レベルでこんな地元民を煽るような記事を書くのか心配になったのでもうすこし調べてみた。阪大なら合格したときの名簿がみれるので、しらべると

  • 1994 阪大 人間科学

 ということがわかる。一年浪人して人間科学部というよくわかんない学部を5年かけて出たわけだ。なるほどなるほど。まぁ、こういう記事を書いてもしかたないよな。しかも茨城の人だし。今でも水戸の気分が忘れられないんだっぺよ、しゃんめえ。

 ちなみにググるとこういう記事もでてくる。

2011/8/16 植民地支配解放を祝う 左京で「光復節」 在日韓国人500人 (PDF)

 仕事だからこういう記事も書くということか。

 ちなみに樺山聡記者を京大法卒と書いてた「神保町のオタ」氏、アカウントIDが @jyunku となっている。ジュンク堂のことかな。いや、この人、アカウント名が汎称+汎称で、しかも足しても依然汎称になるようなもので、ちょっと妙なつけかただなとは思っていたが、IDまでもそれに近いつけかたで、うーん? まぁ人のことだからいいか。それにしても jyun 。。。 「쥰」ってこと? どうも jun (ヘボン式) zyun (訓令式) が正式だが jyun も一応許容されてはいるらしい。

 さて、この樺山聡記者、卒論どんなの書いてるだろうと興味津々で阪大に行ったのだが、そこまでは調べられなかった。人間科学部についてひどいように書いたが、実は「人間」を掲げた学部の中では日本最初の学部で由緒あるところだ。しかもその内部はさらに複数の学科に分かれていて追いきれない。一口で大学時代何をしていたのかわからないが、5回で出てる人だから、まぁこれ以上調べてもしかたないかとあきらめて、その次にこの記事で名前の上がっているネタ元の坂田聡・吉岡拓両氏の研究を読んでみた。この樺山聡記者が一知半解で記事の受けがいいようにつなげたらこうなったんだろうとおもっていたのだが、そうでもないことがわかってきた。

 というわけで「その2 」へ続く。

山国隊 (中公文庫)

山国隊 (中公文庫)

幕末鼓笛隊‐土着化する西洋音楽 (阪大リーブル037)

幕末鼓笛隊‐土着化する西洋音楽 (阪大リーブル037)