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君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

歯医者選びに大失敗

概要

 去年の秋くらいからずっと歯医者に通っていたのだが、なんか変なとこばかり引いてしまい、最後に人に聞いて行ったのが大外れだった。

去年の秋の歯の状態

 最初に書いておくと自分の歯はひどかった。ないのが上の前歯四本。右下5。左上4,5。で、左上4は若干残り、右下5は根だけ。しかも左上3が傾いている、という状態。(右左は全部自分から見て。以下同様) 左上がならんで欠けてるので左側で満足に噛めない。なぜこんな状態になったのか。まず前歯の惨状だが、15年くらい前、東京にいた時に突然歯が動きだして一本抜けてしまったのだが、ネットで調べると菌がどうこうというのがあって抗生物質で治るとか書いてるところがあり、行ってみたら実際に動揺がおさまった。しかしそれから前歯はガタガタになり、金もないのでそのままにしておいた。その後徐々になくなっていったのだが、最終的にここにも書いたことのある事故で前歯は全部なくなった。

 ちなみにこれの可能性が高いので皆も風俗には気をつけたほうがいいぞ!

www.nhk.or.jp

 奥の方のはすべて海外旅行中にどんどんわるくなってどうしようもなくなったもの。これも帰ってきてすぐ治せばよかったのにそのとき痛くても冠がとれてからなんともなかったりして結局放置のままだった。金あるときは忙しくて行けず、忙しくないときはそんなに金がない。今から考えると日本の歯科は安いんだからたいしたことない内に行っておけばよかったんだが。

 ただし左上3が傾いているので、これを治すには相当変なことをしないといけないのでやめたということもある。ちなみに奥歯は小学校時代からボロボロで、東京にいたとき、訪問歯科のところで仕事したことがあってそこでガッチリ銀歯にしてもらった。その銀歯のおかげで今まで生きてこれたのだが、歯のメンテが悪いので残りもこうなった。

 去年の秋、右下2が急に溶けて歯冠部がとれてしまった。これもなんかぽろっと欠けてるなとおもいながら歯医者にすぐ行かずに放置してたら溶け落ちてしまった。これ、海外旅行行ったときに奥歯が急に減ることあったけどそれとおなじメカニズムなんだとおもう。歯が溶けやすい環境にしてしまっていたんだろう。

歯科選び

Y歯科

 右下2が溶けたのでこれを機に全部治そうとおもったのはよかったものの、最初行ったところは右下2の根管治療だけしてあとは前歯に義歯入れて終わりという案でそれだと噛めない。実はこの歯医者、前も治療に行って左上4に柱建てて噛めるようにしてほしいと依頼したが根が割れてるからできないということでそこでやめたという経緯がある。この歯医者、そういう見切りは悪くないし手も普通だったので、ここでブリッジにしてたら一番よかったのかもしれない。とはおもったものの、それだと奥歯で噛めないままだな。

M歯科

 Y歯科も京都の祖母部屋に近かったので選んだのだがもうすこし探してM歯科というのをみつけた。そこで相談すると結局左上4は抜くということだったのでやめた。ただしここの方針は今から思うと悪くなかった。ここでやっとけばよかったか。

TK歯科 201810-201901

 右下2も放置できないので焦ってさがしたところ、すこしはなれたところに TK歯科というのをみつけた。twitterで勧めてる人がいる。ウエブページつくってる会社も露骨に勧めてたりするのでうーむとはおもったが行ってみた。するとすぐに左上4に柱たてて噛めるようにしてくれたので感激してしまった。そこで2018年秋から19年1月くらいまで通うのだが、全体的な方針はおもしろく、使ってる材料も先進的でそのあたりはよかったものの、細かいところでおや?と思うことが多かった。右下5に柱建てたとき。何回も唇に麻酔を打つ。右下2の根管治療して仮歯建てたとき、歯の裏側が出ていて舌にあたるし形も露骨に変にみえる。そう、全体にやることが雑で不器用なのだ。歯医者として致命的では.... ドリルが他の歯に当ったりすることもある。突然右下7の詰め物がとれたのでそこをみてもらうと、外してセメントで埋める。セメントで埋める方針はいいのだが、なんか見えてる。うーむ。そして右下5の仮歯が何回も取れるうちに左上4がダメになってやりなおしたが、そこで右下6の銀歯の向きが悪いのでいじると宣言されて不安になり、やめることにした。

 ここは値段的には非常に安くて昔の歯医者そのままだった。たぶん自分の歯がここまでひどくなかったらよかったんだろう。いじると宣言された銀歯も実際あんまりよくない傾きなので少々雑で不器用なのは目をつぶって、いじってもらった方がよかったかもしれない。最終的にあんなことになるのなら。

TT歯科 201902-201903

 このころまでに歯科医の学歴で選ぶべきではという気になってきて、また部屋の近くにTT歯科があったのでそっちに行ってみた。ここはなんというか、チンピラとかサーファーみたいな感じだったが、人は見た目ではないと思いながら通うことにすると、左上はあっさり金属の柱をたててあっさりブリッジにしてしまった。お、いいのか?とおもっていたのだが、助手が歯の掃除するときに胸をむちゃくちゃ当ててくる。うーむ。こういうのはやばい歯医者のサインだな...とおもいながらも手際よいので行っていたが、ブリッジはなんか外側に傾いた感じがあるしちょっと低い。そして右下2にとりかかろうということだった。ところがこの右下2の仮歯、何回も取れるのでもう取っておいてくださいというとなぜかまた付けようとする。それがすぐ取れたので鏡でよく観察してみると両脇に傷が入っていて虫歯になりかけていた。うーむ。これはTK歯科の仕業かTT歯科の仕業かよくわからないのだが、TT歯科の助手が口の中掃除しまくったあとまたなんか痛くなってきたのは確かだし、この仮歯はTT歯科でも外れてつけてを繰り返しているので怖くなってきてやめた。

 ただしこの時点でも歯の中の掃除が全然だめだったのはわかった。掃除しまくられたのがまた一方で気持よかったので歯間ブラシ買ってきて自分でゴシゴシするようにした。

京都市立病院

 ここで前歯の両脇の傷のようなものをどこかまともなところに診てもらいたくなり、余計なカネを払って市立病院に行ってみた。市立病院の歯科は病気のついでにやるというのがメインなので歯科治療はしないといわれたがみてもらうと、やはり虫歯になってるので治してもらった方がいいとのこと。ただ、両脇ではなく片方だけだった。

元田中 しみず歯科 401904

 そこで、京都で子育てしてる元寮生ならママ友ネットワークの口コミが活用できるとおもって聞いてみたんだが、結局この人が昔の個人的な経験だけでおすすめしてくれたのがS歯科だった。あとで聞いたところによると長年の噛み合わせ不良を直してもらったし、腕前もよく、人生で一番よかった歯医者だという。

 ここがまた癖が強いというか、今までに増して異常なところだった。まず行ってその右下2の両脇をみてもらおうとすると、しっかり噛めといわれ、いきなりとんがった金属でつつきだす。要は汚れて着色しているのがご立腹だったらしい。で、助手がちょっと掃除するんだが、その虫歯のあたりを掃除する機械で突いて痛いですかと聞いてくる。それでようやく虫歯があると認定されたらしい。大丈夫かここ....

 しかしその紹介した奴はしきりに腕はいいと伝えてくる。ネットでも信者くらいの勢いの好評が多い。とりあえず右下2だけはやってもらうかとおもったのだがだいたい高い。初回、尖った棒で突いて3420円。次回、歯磨き指導と虫歯削除と前歯の型取りで4430円。歯ブラシを買わされたがその分は領収書出ず。明細もないので毎度明細を入れてくれというとハンコで枠を押して、大分類別に医療点数がどれくらいかだけ記入してくる。まぁ削ったあとガチガチの仮歯をいれてるあたりはまともだし、まともでさえあれば歯科医も稼いでもらえばいいのでいちいち書かないのだが結果的にひどかったのでこうして書いている。

 右下2に歯が入ると他の歯にくらべて一番まともなのが入っていて、好評なのも一応理由があるとはおもったのだが、下の前歯不揃いだというので躊躇なく削りまくる。そこでかなりやばいとおもったので、前歯をブリッジにするというのはやめにしてもらいたいと伝えると、不機嫌になって、虫歯はいいのか?とか神経は残すようにやるとか言う。とりあえず虫歯治すのかとおもってまかせてみると、左上3の傾いた歯、根本の変色したあたり削ったついでに全体に削ってしまった。ブリッジの準備だ。エー。さてここで試練だ。ここまで削ってしまったらブリッジにするしかないのでは? 聞いてみるとブリッジやめるならその歯だけで終わるという。考えさせてくださいというと、二日後の予定を入れてきた。まぁこれはGW前なのでGWに合わせてそういう予定を入れたというところのようだが、考える余裕を与えないようにしたともいえる。実際、全体に削られてしまった以上、なんらかの治療をしなければならない。そのときブリッジにするなら4万くらいと帰るときに助手が知らせてくる。この回は6270円。

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実際ひどかったのは否定しない。文中は自分から見てなので、左右は逆

 いろいろと考えたが、せっかく歯を削ったのでブリッジにすることにして右上3も削られたのだが、傾いた左上3に合わせるのでこっちはいびつな形になり、血が出るまで削られた。血の出た歯に対する手当はなし。そんなもんか? 仮歯をいれて型をとって9220円。そこで前回聞いた4万ちょいというのは次回払う分の話だと言われる。ところで歯を削って仮歯をいれると案外具合がよかった。これならもっと早くブリッジにすればよかったとおもうくらい。ただし、そのとき右上の仮歯に下の歯が食いこんでいた。そのときはそんなもんかとおもっていただけだった。

 さてGW直前の木曜にブリッジ装着だが、そのとき妙なことを言う。ここまで強引に進めてきたのに、技工士が指示とちがうものをつくってきてどうのこうのと言うのだ。何が違うのかというと、前回左上4-6のブリッジが若干低いような気がすると伝えたのでそこが作りなおしやすいように作るとのことだったが、斜めってる左上3の後ろに小さい歯を入れたのが違うということだった。それくらいならいいかとそのままつけてもらったんだが、またそれが機嫌をわるくしたのか、装着のときに上の唇挟んだままいれてきた。そのとき麻酔打たれていたので?くらいにしかおもわなかったのだが、放置されてるときに気付いて自分で唇をひっぱってはずした。それで事後の掃除もせず、二週間くらいで合うといわれて金37530円。なぜか前回聞いていたのより安い。外に出て気付いたがそもそも噛みあっていない。右の奥歯の列に合わせると仮歯で当たっていたところに当って噛めない。ブリッジの前歯の噛み合わせにあわせるとTK歯科で指摘されてた右下6の傾いた銀歯に力がかかる。あとブリッジの前歯のラインが傾いている。右上4の咬面は真っ平らで下と合わない。これそもそも歯に合ってないのでは? 結果的に力がかかって口内各所がいびつになるのを「合う」と言ってるだけでは?

 しばらく我慢していたがどうもおかしいので電話してみると土曜で連休に突入していた。善意に解釈して前歯で噛むのではとしばらくやっているとブリッジが上の歯茎に接触してきた。つまりちゃんとハマっていなかったのでブリッジ自体が傾いて適応しようとしている。それは土台になっている歯を痛めているだけなのでやばい。ということで今までの経緯を猛烈に後悔してきた。しかしGW後半でどこも休みなのでどうしようもない。ということで詳細に書くだけ書いている。

その後

 連休明けに行ってみると、歯を削るとか左で噛めとか出任せもいいことを言い、歯型もどっかに捨てたかいうので頭に来てやめた。何のために歯型をとってそこから作ってるのかわからん。とにかく無茶苦茶で、その後はしきりに電話してくるので無視したがあんまり毎日電話してくるのと、そもそも噛めてない状態に慣れるのはマズいのでとりあえずでかい病院にいってブリッジの内側を磨いてもらったのでなんとか寝れるようにはなった。

 速達で歯型みつかったから来いとか送りつけてきたのでくれるのかと思って行くと、そういうわけではなく普通に診察するつもりだったらしい。くれるのか聞くと、歯型はあなたのものじゃありませんとか言いだす。そんなら気軽に捨てた事にしてたのは何だ? まぁ歯医者に行くような客は無茶苦茶なのが多いから嘘など適当に言ってなだめすかして治療しないといけないから習い性になってしまうのはしかたないかもしれないが、ここまで説明もろくにせず勝手にどんどん進めておいてなんなのそれ。とっとと帰ったらそれから連絡はない。

 しかし何の恨みがあってこんなひどいことを一見の客にできるのかよくわからん。一見の客だからおもちゃにしただけなんだろうか。歯医者はそれぞれ考えがあってやってるので客の方の考えでは理解できないことがあるのはまぁわかるんだが、ここまで意思疎通に問題があって扱いがひどいのははじめてでこんな歯医者が実在していることをどう理解したらいいのかよくわからん。

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明智光秀の首塚と明田理右衛門 その2 理右衛門の出身地

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明田理右衛門の光秀子孫説

 蹴上にあった「光秀の首塚とされるもの」と今現在白川沿いにある「明智光秀首塚」をつなぐのが明田理右衛門である。白川沿いに住んでいた能の笛吹き明田理右衛門が光秀の子孫を称してなにか石造物を移動させたということになっている。明治中期に蹴上周辺の大改造で蹴上の「首塚とされるもの」が地上から消滅してしまい、白川沿いの「首塚」が残って現在にいたるわけだが、この明田、なぜ子孫と称したのか。そのへんを探ってみよう。

『翁草』の明田理右衛門

 明田理右衛門と明智光秀首塚の関わりについては神沢杜口(貞幹)の『翁草』の中の「明智光秀齋藤利三墓の事」に非常に詳しい話がのっているので当時も噂になったことがわかる。その事があったのが明和8年(1771)、神沢がその話も入った部分をまとめおわったのが明和9年(1772)なので非常に近い。長いので概要だけ示す。

dl.ndl.go.jp

  • 「粟田口黒谷街道より東の方路傍北側人家の裏」に光秀の墓とされる五輪塔があって周りに古木が茂り、伐ろうとしても祟りを恐れて伐るものもいない。
  • 白川橋通三条下る辺の明田理右衛門へ明和八年の春頃見慣れぬ男がいきなり袴を着してやってきて、先祖のことをしつこく聞いてくる。明田は「先祖のことは一切知りません。生前老母が語っていたことからわかるのは先祖が丹波出身ということくらいで由緒などはなおさらのこと」と答えたがそれを町内へ持ちかえって伝えるという

  • 数日後、男がまたやってきて町へ招待するというので行ったところ、町年寄5人揃って出てきて言うには「あなたは明智殿の子孫か宗徒か家来の子孫かなので、墓のある屋敷を是非ゆずりたい」明田「いやいや由緒はともかく、理由なしでそんな急にもらえない」と言ってとりあえずその話を持ち帰って家の者と相談し、結局もらうことになった。古木がうっとおしかったので全部切ったが何も咎めがなかった。

  • 私(『翁草』の神沢)がおもうに、その町内に奇怪なことでもおこったか、それこそ夢のおつげでもあったのでこんなことになったのではなかろうか。その子細は町の秘密とされたのでわからない

 まぁ一種の怪異譚であるが、ここからわかる事は、

  • 明田理右衛門は丹波出身で光秀の子孫でもなんでもない。
  • 町内のよくわからない都合で墓の管理を一方的に押しつけられている。

 というところだろうか。実は『翁草』、一度天明8年(1788)の京都大火で焼失してしまい、書きなおしたらしいのだが、それであやふやになったところがあったとしても、「子孫ですらなかった」「町内の人の行動の理由がわからない」といったお話の核心はそれほど変わらないだろう。この項に続く斎藤利三の項では碑文の引用など入っているので案外この部分は焼け残っていたのかもしれない。

丹波の明田

 丹波地方も場所によっては明田というのは珍しい名字ではない。たとえば国会図書館デジタルコレクションで「明田」を検索すると、ほぼ今の南丹市京丹波町あたりになる船井郡の人物紹介の本がでてくる。

dl.ndl.go.jp

 ここで項目をたてられている明田姓は三人いるがそれぞれ

名前 場所(現在) 家柄
明田嘉穀 新庄村(南丹市八木町) 祖先代々農を業とし地方に於ける門閥家にして庄屋年寄等の公職を勤む
田吉五郎 須知(京丹波町) 代々徳川幕府の旗下川勝家の国元代官を勤める
明田重次郎 須知(京丹波町) 門閥

 という具合で地方名家レベルでこれくらいいるので一族はもっといるということになる。

 昔よりも移動しやすくなって人が全国に散りやすい現代社会でも、たとえば「ネットの電話帳 2000年版」で検索すると

jpon.xyz

 船井郡八木町(南丹市八木町)が断トツに多い。こんなに偏在しているので昔はもっと偏在していたのだろう。なので、『翁草』で明田理右衛門が丹波出身と言っているのは「蓋然性」が高い。

 この南丹市八木の明田氏について現地に行って明田姓の人に聞いた家紋研究家がいる。

arkness.blog.fc2.com

 八木の明田の人たちの間では応仁の乱のあとここに住みついたということになっていて、明智なんかは新参者程度の意識であるらしい。

『華頂要略』の明田理右衛門

 しかしその後、なぜか明田は「光秀の子孫」ということになっていたらしい。青蓮院の寺誌『華頂要略』巻57 (19世紀初-前期)の「光秀首塚」にこうある。

「明智光秀首塚」『華頂要略』57 | 京の記憶アーカイブ


明智光秀首塚
在西小物坐町人家ノ後ニアリ光秀於山科郷落命之後首屍ヲ捕テ梟シ所ナリ云々
天正十年之御記云六月廿一日明智日向頸其外数千ノ頸トモヲ當所ノ東ニ埋テ塚ヲ築奉行村井清三・・次右衛門云々
○今十露盤師平兵衛酒造嘉兵衛両人之家ノ間ニアリ此所除地ニテ古券外ノ地面云々谷川ノ南岸ノ上ニアリ
私云近年梅宮町ニ住セル能ノ笛吹明田理右衛門ト云ル人光秀カ子孫ナル由申觸シ彼首塚ニ有シ石塔婆ヲ我私宅ニ移シテケリ明田某ハ死シテ 今尚梅宮町梅宮ノ舊地ノ西邉ニアリ渡邉山城是ヲ守ル

 つまり梅宮町、つまり三条通から白川沿いに下ったところの住人、明田理右衛門という人が光秀の子孫だと言いふらし、首塚にあった石塔婆を家へ移した、ということで、光秀の子孫であるともないとも書いてないが、かなり突き離した書き方ではある。今「明智光秀首塚」として祀られているものの元は明田理右衛門が移動させたことということもわかる。明田が死んだあと、渡辺山城がそれを守っているということになるが、そのあたりのことは「その3」で書くこととしよう。ここまでくると「光秀の子孫と称する」が「光秀の子孫」となるのはすぐだ。

『都名所図会拾遺』の明田氏

明智光秀塚 同所(粟田口)黒谷道の東三町許にあり 光秀がくびを此所にかけし所なり 近年明田あきた氏といふ人此処に住みしが今又白川橋しらかわばし三條の南へ古墳と共に遷す

 この本では塚ごと移動させたことになっている。あと読みは「あきた」らしい。全体に伝聞だけの資料だとこうなるという見本か。いずれにせよ明田氏が移動させたことになっているのは有名だったようだ。

『閑田次筆』の明田利右衛門

 この明田理右衛門、他にも話題をふりまく有名人だったらしい。『近世畸人伝』で市井の人を記録に残したことで有名な伴蒿蹊が、同一人物とみられる明田利右衛門についておもしろい逸話を『閑田次筆』に記録している。

dl.ndl.go.jp

明田利右衛門の奇智
橘經亮の話に、粟田祭は、年毎に九月十五日なるが、天明六年は國恤の時にて、霜月に延引せり。此の祭式の内、知恩院裏門前の上白川の流に掛け獨木橋を、重き劔鉾さして渡ることあり。其の夕、霜深く起きて、さらでだに細き橋の、見るめも危きを、いかゞと人々思へるに、其の河涯に住める、明田利右衛門といへる猿樂の笛師、心を得て、木屑を敷かせしかば、障なく渡りたり。かりそめのことなれど、時に當りての働きを、人々感じたり。(以下略)

 天明6年(1786)の粟田祭は都合で冬に延期されたが、鉾を持って一木橋を渡る習わしがあり、その日は霜もついて危そうだったところ、近くの明田利右衛門が気をきかせて木屑を撒いたので難なく渡れた、人々は感心した、という内容だ。ちなみにこの一本橋今でも残っているが石の橋になっている。

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一本橋

 京都市による石の案内が脇にあるがそこでも粟田祭で鉾を持って渡ることは書いてある。

 ま、それはともかく、奇智とあるように、目先の効く人だったらしい。しかしだからといって明智光秀の子孫と名乗るようになったのはどうしてだろうか。それは先の項目で明田の死後も渡辺山城なる人物が守っていることからもわかるようになんらかの価値があったのである。それを「その3」で書く。

明智光秀 (織豊大名の研究8)

明智光秀 (織豊大名の研究8)

図説 明智光秀

図説 明智光秀

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令和改元記念緊急出版 『践祚・即位・譲位』

 実は『年号』もこれも3月末には用意していて出さねばと思っていたけれど結局のびのびになってた。

践祚・即位・譲位

践祚・即位・譲位

 神宮司庁『践祚・即位・譲位』ですがこれも国会図書館デジタルコレクションの古事類苑から抽出したもの。明治以前の皇位継承に関する過去の事例を、日本の古書からあつめたもの。天皇系図をみればわかるように親→子だけではなくいろんなパターンの皇位継承があり、それを網羅してます。あと廃位もおまけでついてます。

年号

年号

中国Yotaの遺物 電子ペーパースマホ「口袋閲」

口袋閲

 香港あたりから電子ペーパースマホの kingrow k1 がでてきたニュースが最近流れたが、中国内でも電子書籍プラットフォームの閲文集団が「口袋阅」(口袋閲、口袋はポケット)というリーダー使用を前提とした電子ペーパースマホを出してきた。4Gスマホで予定価格は899元(約14870円 20190430Googleのレート)、120gと軽量で、5.2インチ300ppiライト付き電子ペーパーなのはいいが、メモリまわりが1GB+8GB(899元)/16GB(1099元)というから値段なりにかなり性能は絞ってきている。

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中国のニュースサイトから転載

 5月中旬発売ということだ。

 ちなみに300ppiの5.2インチ電子ペーパーは製品として出てくるのは初。300ppiだと確実に眼福なのでそこはよいところ。

中国Yota の影

 最近 Yota の倒産のニュースが流れたが、この電子ペーパースマホっぽいものの基礎となる話はすでに去年のニュースで流れていた。Yotaと中国の電子プラットフォームが協力して云々という話である。しかしその報道がでてからしばらく、Yota3で必要なだけの金がかせげずYotaPhone2の負債が返せないことが明確になり、倒産の方向へ向かって動きだし、去年後半で順次解散していったらしい。ということで Yota3+ の発表もその過程での最後の悪あがき、もしくは我々を釣る疑似餌だったということのようだ。しかしこの口袋閲にその人脈が続いていることははっきりしている。たとえばこれ、口袋閲のニュースででてくる写真だが。

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中国のニュースサイトでよくみる口袋閲の写真

 ここでスーツ来て紹介してるおっさん、よくよくみると、光頭強などと渾名されてた中国Yotaの CEO だった張光強である。思えば、Yota3 は"閲読体験"を過度に重視して電子ペーパーの可能性を制限した失敗機だった。Yota3 はこいつのために殺されたようなものだが、しかし AndroidSamsung有機ELを前提としたパクり always-on-display の機能が来た時点でスマホ界における電子ペーパーの敗北は明らかで、その流れの中で"閲読"に振ってみたら大コケしたというだけのことかもしれん。実際彼の目指す方向だとこの「口袋閲」のような形態にしかならないだろう。ま、結果的に彼の思うような所に落ちついてそのような製品がでてきたということになるが、YotaPhone にとっては災難だったな。

 さて電子ペーパー端末を商業ベースに乗せることに成功した Kindle と、最近台頭してきた電子ペーパーAndroid端末界の文石科技(広州 Onyx)・博閲科技(深圳 Boyue)、その他中国だけで活躍している電子ペーパー端末がたくさんある中で、口袋閲が生きのびることができるのか、なかなかの見物ではある。かなり生存空間小さいんじゃないかな。

明智光秀の首塚と明田理右衛門 その1 本来の「首塚」

いわゆる「明智光秀首塚

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いわゆる明智光秀首塚

 京都東山の三条通りから白川沿いに南へ下ったところに「明智光秀首塚」なるものがある。京都市による案内板によるとこうだ。

明智光秀の塚
 天正10年(1582年)、本能寺にいた主君の織田信長を急襲した明智光秀は、すぐ後の山崎(天王山)の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ、近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹藪で農民に襲われて自刃、最後を遂げたと言われる。
 家来が、光秀の首を落とし、知恩院の近くまできたが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられている。京都市
(漢数字をアラビア数字に変えた)

 当然だが、これは要領よくこしらえただけの作文で、信用できる内容ではない。どうしてこんなところにこんなものができたのか、それを書いていく。

本来の場所は蹴上

 まず最初に正解を出しておくと、「首塚とされるもの」があったのは蹴上のあたりである。京都の中心地への東からの入口であるが、また同時に「粟田口刑場」のある場所でもあり、平安時代から江戸時代まで幾多の罪人が処刑された。明智光秀も粟田口で晒されたらしい(山科言経の日記『言経卿記』、太田牛一『大かうさまくんきのうち』など)。ただしここが本当にそれなのか、もしくは本当に刑場で晒されたのか、そのころの刑場は固定していたのか、まではわからない。というのも刑場は峠の上に近いところだが、今話題にしている後世「首塚とされるもの」があったのはもうすこし下だからである。(地図はあとで示す)

江戸時代 京都の案内記にみる首塚の所在

 『新修京都叢書』(臨川)という便利な地誌集があるが、この記事では以後これをフル活用していく。首塚の所在についてだが、光秀死後百年くらいの17世紀後半の時点では 「谷川町の民家の後ろ」であり、18世紀になるとそれが「黒谷道東三町」(三条通りと黒谷道の交差から東三町の場所)と変化する。また『華頂要略』(青蓮院の寺誌、18世紀後半)では「西小物坐町人家の後ろ」となっている。谷川町は西小物坐町の西側にあるのでだいたい同じ場所のことなのであろう。いずれにせよ三条通り沿いに峠を上がっていく道の北側の民家の後方にあったということだ。「三条通りと黒谷道の交差から東三町の場所」を江戸時代の面影をまだまだ残している明治前期に作られた仮製二万分一図(仮製は正式な三角測量でないという意味)で示すとこうなる。

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江戸時代に首塚とされていた場所

 ちなみに今このあたりの古い地形は消滅している。晒し物にされたのは交通の要衝だからであるが、同じ理由でここに疏水が通り路面電車が通り道路の大改造もおこなわれたので人家は消滅したのだ。この地図で○をつけたあたりは今大きく削られて、レンガ積みの蹴上発電所がある。

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明智光秀首塚があったとおもわれる場所

(20191001 もうすこし詳しい地図を使った記事を書いたのでそれに従って写真も入替)

ここに首塚があった理由・弔う人たちの存在

 しかし、ただ単に晒し首にされた跡地とだけいうのではなく、その後の地誌にも「明智光秀墓」(『雍州府志』)「明智日向守光秀塔」(『京羽二重織留』)「明智光秀塚」(『山州名跡志』)と書かれていたようになんらかの形としてわかる「もの」があったことがわかる。しかしこういったモノは光秀一人に対するものだったのだろうか。晒し首にしたという記録には他に何千人も殺して積みあげた、みたいなことが書いてある。このあたりがその場所だとしたら、昔のことであるからその後坊主が勝手に何か作って供養するようなこともあったかもしれない。そういったものが百年の後には光秀で代表されるようになったのかもしれない。これは「かもしれない」程度の消極的な推測である。

 もっと積極的な理由として考えられるのが、明智光秀を弔う人たちの存在だ。『日次ひなみ紀事』という17世紀後期の京都の年中行事をまとめたものに六月十三日は「明智日向守光秀忌」と書いてある。そして、「南禅寺・五山・大徳寺妙心寺等には祀堂料が寄せられている。下粟田口には塔がある。東坂本の西教寺(明智光秀が再興)にも塔と位牌がある。」ということだ。明智門があった大徳寺・光秀の伯父がいた妙心寺・光秀に恩のある西教寺だけではなく、公式仏教とでもいえる禅宗のトップの南禅寺・五山までが光秀を弔っている。そしてここはその南禅寺の近くであり、ここにある「塔」の存在も知られているのでまったくの無関係だったとも思えない。たとえば単に南禅寺から近いところに仮墓を設定したという考え方もできる。そう思ってもう一度地図をみるとなかなか興味深い事実がみえる。

東照宮の存在

 おもしろいことに、光秀首塚とされる場所のすぐ近くに東照宮があり、東照宮に参ると光秀の首塚を遥拝することになるのだ。

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すぐ近くに東照宮がある

 すぐ近くに南禅寺があり、その塔頭寺院のひとつ金地院は光秀の首塚とされる場所の近くにあり、その敷地内の中でも光秀の首塚とされた場所に近い場所に家康の遺言で建てられた三大東照宮の一つが立っている。のちに江戸幕府の外交・寺社政策に関わったとされる「黒衣宰相」の金地院崇伝が南禅寺に入ったのは慶長10年(1605)。光秀の重臣斎藤利三の娘(のちの春日局)がのちの三代将軍家光の乳母となったのが慶長9年(1604)。ここに東照宮がつくられたのが寛永5年(1628)。ちなみに現存する方丈よりも東照宮の方が先に建てられている。ということで、この東照宮の存在を本能寺の変家康黒幕説とつなげるといろいろと話をふくらませやすそうではある。まぁしかし、冷静に考えてみると、単に春日局の剛腕でそうなっただけで、むしろ同時に粟田口で晒された斎藤利三の方がそのような配置になったファクターとしては強いのかもしれない。(斎藤利三の墓は真如堂にあり金地院からみると北になる。)ただの妄想なのでこれはここまで。(ごめんなさい。レイライン的な話でした)

 しかし、ひとつ言えるのは、光秀を弔う程度のこともタブーだったのは秀吉在世のころで、関ヶ原以降はそういうタブーもなくなったのだろう。光秀死後百年の京都では公然と「明智日向守光秀忌」が営まれていたくらいだから。明智光秀の伝説に強い影響を残した『明智軍記』もそういう空気の中から誕生したのであろう。ひょっとしたらこの首塚なるものも単にその空気の中で路傍の塚に妙な思い入れが込められただけかもしれない。

明田理右衛門

 ということで、次は明田理右衛門なる笛吹きの話にうつり、冒頭の白川沿いの「明智光秀首塚」がなぜ生まれたのかを書く。

明智光秀 (織豊大名の研究8)

明智光秀 (織豊大名の研究8)

図説 明智光秀

図説 明智光秀

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