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君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

大背美流れの「背美の子連れは夢にも見るな」の解釈

 明治11年(1878)の年末、太地の鯨捕りたちが鯨漁に失敗して100名以上の被害者を出した事件がある。これを「大背美流れ」と言う。欧米諸国の遠洋捕鯨のために不振だった太地の近海捕鯨に大打撃を与え以後壊滅状態になったとされる。

 さて太地町のサイトのなかに大背美流れについて書いたページがあるが、こんな風に書かれている。

しかし、発見した鯨は、未だ嘗て見たこともない大きな子連れの背美鯨で、そのような巨鯨は当時の技術ではしとめるのは難しく、昔から「背美の子連れは夢にも見るな。」といわれるほど気性が荒々しく危険であるといわれていた

太地町の歴史と文化を探る : 大背美流れ(おおせみながれ

 この「背美の子連れは夢にも見るな」の掟を破ったために大惨事を起こしたという記述は捕鯨を説明する一般書に広く見られる。ググったところでは内田康夫の小説『鯨の哭く海』にもでてくるらしい。まぁちょっと前に反捕鯨が盛んだったが、そのころいろいろ調べたつもりの人もそんなに深く調べたりせず適当な一般書に書いてあることを鵜呑みにして拡散したりしているということだろう。しかしこの解釈は間違っていることが既に明らかにされている。たとえばネットでは以下のように書いたサイトもある。

その時の事故のことを「背美の子持ちは夢にも見るな」という格言として残っていて、これを、背美鯨の母子の場合には捕鯨を行わないというこの「戒め」を無視して捕鯨を行ったため、事故が起こるべくして起こったといった迷信めいた一部の解釈がありますが、

太地角右衛門と熊野捕鯨 | 背美鯨捕鯨絵図

 とし、古式捕鯨では子連れの鯨は子供を先に捕ると親が離れようとしないので親も捕りやすいということでむしろ好まれていたとし、「背美の子連れは夢にも見るな」というのは前から言われていたことではなくて、「大背美流れ」事件の後、その事件自体を指して言ったものだと書いている。

 このサイトをたちあげているのが太地亮氏で、実は『熊野誌』にたびたび太地の捕鯨について投稿していてなかなか参考になる。『熊野誌』については程度の低い郷土史家の投稿が多いと再三書いているが、もちろん玉石混交というだけの意味であって、昔は光る玉も多かったのである。最近は玉も石も数自体が減っていて縮小する地方を体現している。

 それはともかく、太地亮氏の論考でこの件について参考になるのは太地亮「太地角右衛門と熊野捕鯨」『熊野誌』33号、昭和62年12月(1987) である。上記サイトは断片的な紹介になっていてよくわからない面もあるが、これを見ればだいたいわかる。実はもう新宮を離れているが、新宮市立図書館に通っていた間に抜き書きしたものを参考にして紹介する。

 この論考では背美の親子の格言が出現したのは 太地五郎作『熊野太地捕鯨乃話』昭和12年(1937)らしい。太地五郎作は背美流れのときの関係者の四男で、親の和田金右衛門は太地角右衛門(太地覚吾)にこの鯨をあきらめるよう進言したが、角右衛門が強行したのでこうなったという話にしている。それがまた戦後『熊野太地浦 捕鯨の談』として流布されたということだ。国会図書館で検索してみても、基礎資料扱いをされているようで日本民俗文化資料集成などにも入れられている。

 しかしその当の和田金右衛門自身の日記によると実に淡々と経緯を記録しており、意見が対立したなどということは書いてないのだ。そして論考では日本海側の捕鯨について聞き取り調査した人の記録を引いてこの文章の前の方で書いたように子連れは一度で二度おいしい獲物つまり、寧ろよい獲物であったことを紹介している。たとえば今普通に国会図書館デジタルコレクションで検索してみてもこんなのがでてくる。

お背美子持を突置いて、背美の子持を突置いて、春は參ろぞ伊勢樣へ、きぬた踊は面白や、猶もきぬたは面白や

太地網方梶取掛よ、月に子持を二十五持、子持を月に、月に子持を二十五持

国立国会図書館デジタルコレクション - 紀州

 ここからわかるのは子持は儲かるということだ。昭和10年捕鯨のことをまとめた資料で昔のこんな俗謡を普通に紹介しているので子連れの背美はタブーだったというのは背美流れ以後とかではなくそもそもそんな話はなかったということなんだろう。西洋から導入した遠洋捕鯨が一般化して、古式の近海捕鯨のことが記憶から薄れたころに、太地五郎作による背美流れについての偽史が登場し、他に適当な資料もなかったためにそのまま世間に受けいれられてしまったというところなんだろう。そして太地亮による論考も、『熊野誌』という新宮発のローカル雑誌だったために捕鯨関係者の目に届かなかったというところだろうか。

 ではなぜ太地五郎作のような偽史が登場したかだが、おそらく古式捕鯨の凋落の原因がよくわからない人たちがいたからなんだろう。それは単に欧米の遠洋捕鯨がむちゃくちゃ捕ったせいで日本近海に来ていた鯨がこなくなっただけであり、構造的な問題である。まぁしかし今でも政治の動きを全て政局で理解しようとする人たちがいるように、その狭い視野の中で理解しようとする人達がいて、古式捕鯨の凋落は背美流れで壊滅したから、そしてそれは太地覚吾が下手うったからだということにしたかったんだろうか。太地角右衛門(覚吾)は背美流れのあと、さらに太地にあった昔からの灯台を近代的な灯台にしたのだが、それは政府が認めた正式な灯台ではなく私設灯台だったためいろいろと苦労したらしい。しかもそれで借財を背負ってしまい、金策のために新宮に来ているうちに客死してしまう。そういった太地家の凋落の理由もよくわかっていない人たちが関係者が多くみなが知っていた背美流れに全ての原因を求めたというところか。太地五郎作はその事件の責任者の一人の子であるだけに責任から逃げるためにそういう話をつくった、もしくはそういう話があったと思いこんでいたのかもしれない。記憶なんてのはごく最近のことでも簡単に都合よく再造されるものだ。

鯨の哭く海 (角川文庫)

鯨の哭く海 (角川文庫)