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熊野学研究センターの失敗の歴史 1 瀬古潔市長の熊野記念館構想

熊野学研究センターの建設延期

 新宮市立図書館が新しく文化複合施設の一部として建てられる土地の発掘調査で中世の港湾「新宮津」なんていうレアなものが出土してしまい、その複合施設からとりあえず熊野学センターなるものをとりあえずなくす方向で調整することになったということは既に書いたが、その後新宮で郷土資料を読んでいると、どうもかなり前から似たような話が出ては延期し出ては延期していたらしい。その最初は昭和56年(1981)の「熊野記念館」になる。今から40年ほど前だから新宮市というのはやる気があるのかないのかよくわからないところである。

新宮

 新宮は紀伊半島の東南部にあり、地域の大河・熊野川の河口にある。そもそも熊野川は1998年まで法定河川「新宮川」だった。紀伊半島を特徴づける険しい紀伊山地の東部に空いた一本の谷が本宮から新宮への川筋にあたり、吉野の南の十津川や熊野北部の北山地方に降った水はすべて新宮へ流れ落ちる。ということで、川が木材運搬の高速道路だった時代、新宮は十津川や北山の木材のハブとなって栄えた。江戸時代には熊野地方の東の抑えとして紀州藩の中の支藩が新宮に置かれ,地域に睨みを効かせた。

 まぁつまり新宮というのは熊野地方、すくなくとも東半では中心部だと自認していたし実際そうだった。しかしその力の源泉である木材が流れてこなくなる日が来る。トラックが走れるような自動車道が開通し、川にダムが作られるようになった昭和40年代(1965-1975)から新宮の凋落がはじまるのである。といっても新宮はこれでも地域の中心なので、まず山の方で進行した過疎で移動した人口の受け口となっていたので地位の低下はゆるやかに進行した。新宮は黙っていても山から幸が降りてきていた。いつのまにかそれが途絶え、そろそろ時代にとりのこされつつあると知って焦りだしたのが昭和50年代というわけだ。

熊野古道(熊野参詣道)

 新宮のことをあまり悪く言ってもしかたないが、都会の人間は山奥には関心がないからしかたない。しかし県もしくは国のレベルから見ると、交通の大道が運河・河川・道路から鉄道に交替しさらに自動車道に交替していった中で、紀伊半島南部の自動車道の整備は深い山のせいで遅れており、どんどん過疎が進行しているのが目にみえてわかるので対策を建てる必要があった。たとえばその一つが昭和45年(1970)頃の『広域市町村圏計画』である。新宮を中心とした和歌山県の9市町村が「新宮周辺広域市町村圏」として指定され、その地域の中で必要な施設を按配するということが行われた。こういった広域計画でこの地域を貫通する観光の目玉として登場するのが熊野古道だ。地域振興事業として熊野古道は再開発されるのである。

 前にも書いた「歴史の道調査報告書」シリーズの劈頭を飾った熊野参詣道だが、それにさきだって和歌山県による調査が昭和44年度(1969)から行われている。昭和50年(1975)の『広域市町村圏振興整備構想』では熊野古道の整備が明記され、その一環として本宮に熊野風土館というものが構想されていた。

 さてここで海辺の都市新宮にもどると、まず最初に書いた昭和46年(1971)の新宮周辺広域市町村圏の計画の中で「図書館の改築」と「郷土資料館の新設」が明記された。図書館の改築については前の記事に書いたように昭和49年(1974)に新図書館が開始している。郷土資料館は歴史民俗資料館として昭和54年(1979)に開館した。しかし新宮は熊野古道での振興策からはどちらかというとはずれていた。熊野三山の一つ速玉大社を抱えていながらそうなったのは一つには本宮・新宮間は通常船で往復するか川沿いに渡船を何度も使って移動するし、那智から新宮はそれほど遠くもなく険しくもなく沿岸なのでどちらにしても神秘な山奥を歩くイメージからも遠いからだろう。昭和55年(1980)には「熊野古道関係市町村連協」が発足しているが、構成しているのは中辺路町・本宮町・熊野川町・那智勝浦町で、新宮は熊野三山の一つを抱えているのに入っていない。地域の中では交通が便利なのが裏目に出た形だ。

レクリエーションエリアの新宮

 そういう広域計画のうち、国土省が作ったもので新宮が割り当てられていたのがレクリエーションエリアの整備である。その名も「新熊野林間レクリエーションエリア」。今、雲取温泉 高田グリーンランドというのが本宮と新宮の間の道から山にちょっと入ったところにあるがこれがそのエリアのその後だ。今南紀にある観光施設はそのころ構想されて作られたものが残っていることが多いからなかなか侮れない。そのレクリエーションエリアの一環で整備されたのが新宮城(丹鶴城)だ。それまで新宮城は私有地で、二の丸には旅館があった。藩の主城がこの昭和50年代までいろんな人の手を転々としたままの私有地で旅館が営業していたという事だけでも新宮を象徴するような出来事だが、昭和54年(1979)に取得すると「丹鶴城公園」として整備しだすのである。

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 この写真が旅館「二の丸」が営業していた跡で当初は旅館の建物をそのまま利用するつもりだったらしい。どこまでも新宮らしいエピソードだ。

 ちなみにここは新宮城の縄張りの上では「鐘ノ丸」というところで、二の丸はもっと下にある。

瀬古潔市長 の熊野記念館計画

 新宮の市長は散財屋→始末屋→散財屋という循環があるそうだが、ここで紹介する瀬古潔市長はどちらかというと散財屋になる。しかし熊野浮上というビジョンをもっていろんなことを計画しており、今だに実現できていないことが多い。熊野川河口に大橋を掛けて沿岸の直線道路を作るというのもその一つだ。

 新宮は熊野古道の広域計画からははずれており、レクリエーションエリアの整備をあてがわれていたが、そのなかの丹鶴城跡整備の一環として熊野記念館を建てようとしたのも瀬古潔市長である。もっともこのアイデアは京大の外郭団体委託していた振興計画で提案されたものだが、それを今ある広域計画の中にハメこんで即座に実行しようとしたのだ。同時にその計画を県の広域計画の方にも反映させている。

新熊野林間レクリエーションエリアに整備する施設
熊野歴史記念館 熊野の歴史・人物等に関する資料の展示

国土庁計画・調整局 和歌山県企画部『モデル定住圏の推進支援調査報告書』昭和56年3月 (1981)

 そう決まると建設着手を市政50周年の昭和58年(1983)に決め、丹鶴城の整備をそれまでに進める一方で、歴史・自然の二班に分かれて人を集め、資料などを広く収集しだした。ついでに佐藤春夫の文学記念館も併設するべきという意見もとりいれられた。

 また同時に司馬遼太郎梅原猛などの著名人をひとりづつ招いて熊野をテーマにした講演会を開いた。特に梅原猛を昭和56年(1981)11月21日招いて開いた「熊野の心」講演会は重要だろう。梅原猛はのちに国際日本文化研究センターの所長となって「熊野学」の旗振り役になってくれるのである。ただしこの「熊野の心」というのが梅原のオリジナルかどうかはわからない。既に同年6月に瀬古潔市長が「関西の地域計画を考える」研究大会でなした報告のなかに「熊野の歴史と心」なる項目があるからだ。

 それから熊野三山協議会というものをつくり、熊野古道関係でもりあがる「熊野」の中から新宮が置き去りにされないような手も打った。これは今でも生きている。

 しかし熊野記念館の話は市長の交替によってあっさり延期となってしまった。散財屋→始末屋の循環の始末屋の番が来たのである。当時の紀南新聞によると当初計画の3億2千万円に空調内装展示などの費用がふくまれておらず、6億5200万円かかりそうなのに国や県の補助もしぶく着工を繰り延べざるをえなくなったということだ。もっとも直近の昭和54年に歴史民俗資料館をつくっているので重複する部分もあるからその運営は新宮市の財政では耐えられないという判断があったのかもしれない。

その後の熊野記念館

 計画が延期になっても組織や収集した文化財はのこり、その後平成元年(1989)には「みくまの総合資料館研究会」と改組して箱のないソフト的なものとして続いていくのである。もともと、行政の計画のレクリエーションエリアの一環として構想されたもので、体験・学習・研修という要素がある。レクリエーションエリアの中心と設定された高田(今の雲取温泉施設)には修験道体験とかいうものまで作られたほどだ。熊野記念館で予定されていたものが歴史探訪スクールや自然探訪スクールで、これは今でも続いている。

その2に続く

おまけ

 ちなみに京都大学の外郭団体・防災研究協会が作った報告のタイトルは『美しく豊かな日本のふるさと 熊野 新しい熊野のくにづくりのために』というもので、安倍首相の「日本をとりもどす」とか「美しい国」とかに通ずるものがある。これからの日本も新宮市のように必要なことにカネを使えず無駄なことや福祉にカネばかり食われて成長もできず停滞していくのではないかという気もする。

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