メモ@inudaisho

君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

旅行はヒマな金持ちの道楽

はじめて海外に旅行したのは1996年の11月で、大学の寮の先輩(元オウム)の言った「イスラエルに10万円でつれてってやろう」という甘い言葉にのせられたのがはじまりだった。船で上海についていきなり「ここから別行動だ」といわれ、クリスマスに印パ国境インド側のアムリトサルにあるゴールデンテンプルでの再会を約して別れた。カシュガルまで行ってみると中パ国境のフンジェラーブ峠は冬季閉鎖がはじまっていてバスがない。そこをトラックに乗ってなんとか越え期日までにアムリトサルに到着した。以後二ヶ月、元オウムの二人と行動を共にし、パキスタンへの再突入やダラムサラ滞在などあったわけだが、自分は修行とかに興味なかったせいか、「旅行の目的が違うから別れよう」といわれ、その後三ヶ月くらいかけてインドを一周してタイ経由で帰った。
インドの社会はどこにいっても大なり小なりなんらかの人間の集団の住みわけがあり、その集団が断絶しつつ物理的には混在しているようにみえるところがその後行ったどことも違っていた。そんなインドの住人であっても、人間の考えていることの底みたいなところはあんまりかわらないということがわかった。

このはじめての旅行で使った金は15万弱、期間は6ヶ月程度極力出費を抑えながらではあるがそれだけあちこちいけたのは金の値打ちがちがうこともさりながら、貧乏人向けの施設などがいっぱいあるからでもある。インドから帰ったあと、サークルの後輩(男、ドイツ文学専攻)が卒業旅行にドイツにいくけどいっしょに行きましょうというので行ってみたが、そのときは一ヶ月で25万程度かかり、貯金をつかいはたしてしまった。その半分は飛行機代だった。ドイツの田舎には貧乏人向けの施設などない。ユースホステルであっても当時の金で一泊3000円くらいはした。ということで、総出費を減らすため、フランクフルトからミュンヘンまでは単独行動をすることにし、ロマンチック街道とやらを歩いて南下し、野宿することで出費を減らした。途中観光もしつつ一週間くらいで歩き通すのは無理なので途中から交通機関をつかった。もっともこれは節約のためだけに歩いているわけではなく、歩いてわかることもあるからである。南ドイツの田舎の小さな町は教会を中心にできている。教会のまわりに集落があり、集落のまわりに畑が広がり、その畑のまわりには森がある。街道を歩き丘の高みにいたる、もしくは森を抜けると遠くに教会の尖塔がみえる。さらに街道をすすめば集落の屋根がみえ、街道には石碑などもあらわれる。集落に近づけば石碑が増える。そういう石碑はそんなに古いものではなく、18世紀以降のものが多い。

グダグダとはじめての旅行のことを書いてみたが、言いたいのは旅行なんて時間とカネがあれば誰でもできるということだ。学生や若者の旅行が貧乏旅行になりやすいのは時間はあるけどカネがないからだ。それでも貧乏国にいけば、その国の金持ち並にはなれるので旅行もしやすい。時間もカネもある人間はもっと余裕のある旅行ができる。
旅行の問題は時間とカネをつかいつづけるモチベーションだ。どこに面白味をみつけるかということだ。初めての旅行はだれでもおもしろい。毎日が新しい体験で刺激にあふれている。しかしそれは日本と違う文化だというだけで、その社会の文化に慣れたら目新しいものでもなくなってくる。それを解消する一つの方法は違う新しいところへ行くことだ。しかし次から次へと新しいところへいっても所詮は人間のやっていることなのでそんなにバリエーションのあるものでもないし行けるところにも限りがある。目的がある人間はそのあたりで目的が洗練されていくものだし、なんもない人間は青い鳥は足元にあると気付いて本国での生活にもどっていくものだろうが、それでも長期旅行をつづけると人間が誰でも持っている食欲と性欲、ドラッグなどに下ってくる。あるいは海外でのダラダラとした自滅的な生活自体が目的になる。「自分探し」とやらでみつかったのは自分だったというわけだ。

旅行なんてのはそういう意味で本当に時間とカネを消費する道楽だ。そしてそんな道楽にカネと時間をつぎこめる時点で金持ちであるといってよい。本当に貧乏な人間は生活におわれてそんなことをする時間もカネもない。
最近はなぜかしらないが世界一周とかいうのが流行っているらしい。国と地域によっては外国人が安くで宿泊できるところが限られているため、そういう人種に出会うことがある。人の道楽だからどうでもいいし、そういう人種の中にもおもしろい人はいるのだが、あるときそういう人種の一人のおっさんが「旅行というのは感動を人に与えるものだ」と力説して非常に気持ち悪かったので「旅行なんて金持ちの道楽」だというとそれがいたくお気にめさなかったのかいろいろと噛みついてきた。お互い違う観点の事を言いあっているだけだから平行線にしかならない。そういう人間がいるのだと認めればよいだけの事なのにそれができずに噛みつき言いまかそうとしてくる。そんな人間が海外旅行して相互理解がどうとか海外旅行している日本人がどうこうとか言うんだから世の中おもしろい。
あのおっさんも結局は何がしたいかよくわからず、テレビなり旅行会社なりに煽られるまま旅行し、その理由を「感動」とかいうものに求めているのだろう。あのおっさんが満足のいく感動とやらを買えたのかどうか、それを人に売れるようになったのかどうか、自分は知らないし知りたくもないが、あのおっさんが一人の消費者であることは間違いないだろう。「感動する(かもしれない)旅行」をカネと時間で買っているのである。
やはり道楽は道楽と自覚して道楽したいものだ。