国会図書館デジタル化資料で明治の大峰山参りを描いた本を二冊みつけた。
国立国会図書館デジタル化資料 - 夜行富士登山・大峯登山冒険修行
この本は明治35年(1902)に出たもの。巻頭に黒田湖山が寄せた文に
僕の好きな少年諸君!
ひまがあつたら盛に旅行をし給へ、ドシドシ冒險をやり給へ
とあるように少年向けの本であるらしい。「夜行富士登山」「大峯登山冒険修行」の両方とも主人公は10代の少年に設定されている。20世紀にはいってまもなくで、まだ近世的な空気がのこっているころだ。「夜行富士登山」もおもしろいがここでは大峰の方を取りあげる。
夏の終わりに和歌山に近い和泉の岡中(大阪府泉南市信達岡中)の昔の同級生の家に遊びにいった少年が、岡中の村で組織した大峰参りにいっしょに参加するという筋書。
当時のそのあたりの大峰参りは通過儀礼のような意味合いがあったようで、新客(新規参加者)20人はほとんど13から20歳以下の少年であった。
關西地方の風習として、一度この大峯行をやつて來ると非常に信用する様になる。これを濟まさ無いものは、甚だしきに至つては一人前に見ない位ゐである。
心にやましいところのある人間は参加しないこともあったそうな。
他に案内役の先達が一人、古客(経験済みの再参加)が10人。
行程は
- まず浜で身を清める
- 午前一時半鎮守の森に集合→金熊寺(泉南市東信達)→風吹峠(和歌山県岩出市)→昼ごろ 橋本 約40km
- 午前二時橋本出発→五條→金剛山→阿田→下市→洞川 川で身を清める 龍泉寺 蟷螂が窟
- 午前一時洞川出発→原八十丁→金かけ→西の覗→東の覗→蟻のとわたり→平等岩→お亀石→竹林院→大天井小天井→吉野
- 吉野→大野
- 粉河でお土産を買う→岡中村帰着
真夜中に出発だが、時期は8月の終りなので、暑さを避ける意味もあるのかもしれない。
彼らの行なった「行」を列挙してみると、
- 洞川の蟷螂が窟
- それぞれが松明をもち、案内者にしたがって奥へ進み、奥にまつってある行者尊をおがんで帰る
- 前後左右は真っ暗だが形ばかりの梯子段があってその都度昇降する
- 第一 金かけ(鐘掛)
- 二丈もある岩をよじのぼる。古客がそばにいて足の登る順番なども指示
- 第二 西の覗
- 岩の窪みに行者の像があるのでそれを上から覗く
- 先達が帯をもち、古客二人が足をもって体を突き出させる
- 必ず親に孝行するとかきっと信心するとか詰問される
- 酒を飲むものや親不孝者は容易にひっこめてくれない(古客は同じ村なので知っている)ので、どんなに高慢なものでも降参する
- 第三 東の覗
- 崖の先、半間ほど離れたところに下の下から突きでた岩があり、そこへ飛び移る。
- 第四 蟻のとわたり
- 絶壁の間の一跨ぎくらいの隙間を崖にへばりついて渡る
- 第五 平等岩
- 突き出た岩にへばりついて一回りする
- よくグラグラする
- 上から小さい子供が襟をつかんでグルグル回してくれるらしい
- 最後 お亀石
- 甲羅のような岩のまわりをぐるぐる回る
こんな感じ。行といっても一種の肝試しで、暗い洞穴に入っていったり、危い岩にしがみついて一周したり、崖から吊るされたりして肝をやしなうということのようだ。新客20人に対し、古客10人というのも新客の面倒をみるための人数なのだろう。古客の荷物は新客が持たされるのだが、実はそれも行の一環だったりする。
小笹の宿での行というのをオプションでおこなうことがあるらしい。その場合、怪鳥の声が聞こえる中、お堂に一晩籠るそうだが、夜中の二時二分になると戸をゆりうごかされるというもので、
天狗がくるのだと云ふ事であるが、自分は狐狸の仕業だらうと思つて居る。
ともっともらしく書いている。
なるほど、通過儀礼としてはなかなかよいツアーでもある。大衆化した大峯山の修行というのはこういう使われかたをしていたのかとなかなかおもしろく感じる。
つぎは
国立国会図書館デジタル化資料 - 冒険的大壮挙深山帯大探険
だが、これは明治43年(1910)のもの。そのころ「冒険」とか「探検」とかいうものが流行っていたが
虚構が多い、偽が多い、捏造が多い、空想が多い、無暴が多い、瞑想が多い、
とフィクションだらけなのに腹を立て、自ら
破天荒の大壯舉を行つて、ウジウジする世の俗輩共を驚かし呉れんず
という次第らしい。
つまり修行とかのために登るのではなく、大峯山は通過点の一つでしかなく、しかも最終の目的地は秘境の大台が原であった。当時大台が原を切り開いた古川嵩の大台教会があり、それをたずねようというものである。そういうわけなので大峯関係はちょっと冷めた目で眺めているところがある。
信者の登山者は兜巾、鈴掛、金剛杖、總て山伏姿で多いのは數百人、少ないのは十數人團隊となつて、其先達と云つて山上に精通した者が引率して登攀するのだ。其初めての参詣者は彼等の仲間で『新客』と云つて新兵のそれのやうで、どんな事でも先達や先輩の命令に従はねばならぬ、
其れ等登山行者は先づ第一にさこやの前の金の鳥居で行をする、行と云ふは其鳥居に手を掛けて其ぐるりを廻りつつ馬鹿らしい歌を先達の命令で唱えさされる、
よしのなる、金の鳥居に手を掛て、
みだの淨土へ入るぞ嬉しき、
おんあべらうんけんそば……と三度念唱さされる、其して宿に着くのだ、
とまぁこんな調子なので最初の本とあわせてよむとおもしろい。
もっとも彼の行程は吉野から入っているので若干違う。
- 桃谷駅(汽車)→畝傍駅→橿原神社→飛鳥の岡寺
- 岡寺→橘寺→壺坂山→吉野山金の鳥居前さこや
- 吉野の各所見物
- 午前二時出発→水分神社→金峯神社→心見の茶屋→(夜があける)百丁目の茶屋→鞍掛岩→洞辻茶屋→油溢→鐘掛→お亀石→西の覗→東南院山坊
- 東南院→小笹→叔母覗→柏木村
- 柏木の三大洞窟、金剛寺
- 柏木→大台が原の大台教会
- 大台教会で四五日→柏木→帰途
冒険といいながら途中で会った若いのを大峰山までつれていき、さらに腹がおかしくなりながらも柏木までつれまわしていたりしているがまぁそういう無茶なあたりも冒険なんだろう。当時の大台教会には帝大の学生なんかもたくさん来ていたらしい。この記事を書いた人も柏木から登るとき、水害で橋が落ちており案内人が嫌がって帰ってしまい、困っていたところ、農林学校の生徒が登ってきたので案内してもらったとある。
青年向けというべきか、山奥の若い女性観察みたいな記事もある。大台教会に当時住んでいた妙齢18歳の古川嵩の娘はその後どうなったのか気になるところだ。