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君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

『石光真清の手記』戦中版と戦後版の相違点

 『石光真清の手記』というと一般には中公の出したものが広く読まれているとおもうが、国会図書館デジタル化資料にはその戦後第一版と戦中版が含まれている。中公のものの「曠野の花」部分がそれに相当する。四巻本ならその二巻目。  昭和17年(1942)の『諜報記』と昭和33年(1958)の『曠野の花』だ。

 いずれも館内限定なので国会図書館の端末でないと読めない。諜報記は二冊デジタル化されており、もう一冊の方は増補版であるが、残念なことに脱落が多い。

 『曠野の花』にはこう書いてある。

『曠野の花』の大半は昭和十七年刊の『諜報記』が根幹になっているが、当時の社会情勢から発表を憚かられた部分と脱落していた部分を新たに追補して、全面的に再整理したものである。これによって手記本来の姿に立還ったので敢えて改題した。

 またこうも書いてある。

三著をなす手記と、それに関する資料は厖大複雑であり、もともと発表する意思で書かれたものでなく、死期に臨んで著者自ら焼却を図ったものである。その中には自分を他人の如く架空名の三人称で表したものさえ多く、その照合と考証に多くの年月と慎重な努力を要した。従って焼却された部分や脱落箇所の増綴や、全篇に亘っての考証は、編者(嗣子石光真人)が生前の著者から直接聞き正し、また当時の関係者から口述を得たものによって行ったほか、生前の著者を知る多くの人々の協力によって、こゝに全容の完成を見るに至った。しかし事実を述べるに、なんらの作為を弄せず、私見もさし揷んでいない。

 しかし「なんらの作為を弄せず、私見もさし揷んでいない」といわれても実際に妙な相違点があるのでいろいろイジっているのはまちがいない。

 妙な相違点といってもザっと目を通した中で気がついたものなのでもっとあるとおもうがそれを挙げていく。

  • お花がハルビンに来て石光真清と会う時期
    • 愛暉のお花がロシア軍の侵入後の虐殺をのがれなんとかハルビンまで来て石光真清と再会するのに『諜報記』では石光真清の第二回目のハルビン入りのときだとする。そして奉天行きに同行して失敗したあと日本に帰り、第三回目のハルビン入り(ウラジオから四人でのりこんですぐ帰ったとき)のときにはいなくなっていたとある。『曠野の花』では第一回目のときから会い、お花は男装し洗濯屋の番頭として店をとりしきり、真清不在のときも店を維持し、あたかも真清の諜報活動はお花がいないと成りたたないかのような具合になっている。
  • 洗濯屋の始末
    • 第一回目のハルビン滞在はロシア軍通訳の韓国人崖の世話で洗濯屋を開いて繁盛したのち、寛城子(現在の長春)に移動しようとしたことで終わるのだが、『諜報記』ではその洗濯屋の売上が多いようにみせかけ、崖に売りわたして清算したことになっている。しかし『曠野の花』ではお花に預けたことになっている。
    • その後、『諜報記』では崖が洗濯屋の儲けがいまいちだったせいか、あずかっていた洗濯物を勝手に売ってしまったため、崖も犯罪者となってしまってどこかに消えてしまったことになっている。『曠野の花』では真清が日本軍のバックアップをうけてハルビンに菊池写真館を開くときまでお花が洗濯屋を維持しており、菊池写真館が繁盛したので他の日本人に売ったことになっている。
  • 菊池写真館への関与
    • 『曠野の花』ではスパイだとの噂をたてられたりしてハルビンにあまりおれず写真館の運営は人に任せきりであったように書いてあるが、『諜報記』ではそんな風には書いてない。

 こういうストーリー上の違いがあるくらいだからもっと細かい相違点はあるのだろう。印象的なところを挙げていく。

 最初石光真清ハルビンを目指すのにウラジオストクからの最短距離、つまりニコリスク(今のウスリースク)から分岐してポグラニーチナヤ(今の綏芬河)をいく道を取るのだが、結局ニコリスクにもどる。最初ニコリスクについたときロシア人の馬車に泥水をさんざんハネかけられたとの記述があり、暗にロシア人による横暴な支配をほのめかしているようにもとれる部分であるが、『諜報記』ではニコリスクに戻ったあとこういうことをしている。

ハバロフスク行の汽車は、正午出發であると云ふ。ポグラニーチナヤに行つたのは馬鹿な廻り道だつた。こんな所では哈爾濱行きの手蔓など見付かりさうもない。余は辻馬車を雇つて今度は反對に道往く人々に泥水を引かけながら町中を無意味にのりまはした。

 自分などこの部分を読んで、石光真清という人は非常に味わい深い人だとおもったのだが、『曠野の花』では「正午出発であるという」以後はないことになっている。こういう部分があるから最初泥水を引っかけられたときの説明に

これは何處でも見られる露西亞の御者の惡戲で相手が恐ろしい者でないと見てとると惡戲して笑つて過ぎて行くのである。後から次々に來る馬車も鞭こそ當てなかつたが、ひどい汚水を引かけ乍ら、はい御免よと通り過ぎた。乘ってゐる客も別に氣の毒な顔もしなかつた。

 とあるのが生きてくるのにいらぬ操作をしたものだ。

 そういう下らない操作をするあまり文章がおかしくなっている部分もある。第三回目のハルビン入り、つまり武藤大尉らと共に四人で写真館の下見に乗りこんだときだが、そのとき石光真清らはやはりニコリスクからハルビンへいく最短ルートを選んだ。しかし武藤大尉の振舞いが軍人っぽいせいかすぐにロシアの官憲などにあやしまれてしまい、ビクビクしながらハルビンに向かうことになる。そのときの『諜報記』の一節。

掖河では眞野新吉の友人川上常吉の土工小屋に泊つた。牡丹江鐵橋の建設工事を請負つてゐたが、日本政府から何等の助力も籍らずに彼等がこの種の大工事をどしどしやつてのけてゐる實力には、つくづく感心させられた。東清鐵道の要所々々は、この樣にして彼等同胞の手によつて建設されたのである。

 新吉の小屋のあと川上常吉の小屋に泊ってこういうことを書いているわけだが、『曠野の花』ではその間に韓国人の工事監督の小屋にとめてもらったことを差しこんでいる。板の間に寝かせてもらったが武藤が土方の親方が寝台で寝ているのに板の間では寝れぬとヘソを曲げた話をいれたうえで上の一節を節略したものにつなげている。

掖河では真野新吉の紹介で川上常吉の土工部屋に泊った。牡丹江鉄橋の建設工事を請負っていた。東清鉄道の要所要所は、このようにわが同胞の手で建設されたのである。

 なぜ短くしているのかわからないうえ、韓国人監督の小屋での話を長々とさしこんだ直後だからわが同胞云々も微妙な感じになっている。ここは「泊めてもらった」だけにして流した方がよかったのだろう。

 こういう不思議なことになっているのは一つには石光真清の手記とはいいながら、おそらくは石光真清自身が書いた手記自体が事実どおりではないところがあったり数バージョンあったりしてそのままでは出せないから編集されたせいではなかろうか。もっとも読み物としては『諜報記』の方が前後まとまっているのでいらぬ改変をしたものだとおもう。『曠野の花』だとどうみてもお花は現地妻で謎の調査ネットワークをもっていて万能すぎるしお花がいないと諜報活動自体なりたたなかったのではないかとおもってしまう。『諜報記』では石光真清の苦闘のすえに機密写真をとることができたのだが、最後にアレキセーフ極東太守が直々写真館に乗りこんできたように、ロシアに泳がされていたのではないかという感じがなくもない。

 それからこの『諜報記』、評判がよかったのか、昭和18年には『諜報記 續 シベリヤ篇』というのを出しているらしい。これは国会図書館にはないようでデジタル化されていない。

 さてこないだ国会図書館東京本館に行ったのだが、そのとききづかなかったのだが憲政資料室に石光真清関係文書がおさめられていた。

 『石光真清の手記』の元ネタが閲覧できるようになっていたわけで世の中便利になったものだ。そういうわけで頑張ったらここで挙げた相違点についても明らかになるのかもしれないがもう関西に帰ったのでわざわざこのことのために東京までいくのも何だし、どうせだれか研究してるだろうし。とりあえず気付いたことを忘れないように記事にして残しておく。

一冊本版