メモ@inudaisho

君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

今回の平岡龍城調査はここまで

 さて三月の上旬は平岡龍城の生没年調査に費してみたが結局ほとんどわからなかった。
 平岡龍城の本名だが、森中美樹の調査では「平岡十太郎」ということで、その根拠である選挙人名簿抄本も見てきたが確かに十太郎とあった。抄本というから手書きの冊子とおもっていたら活字で印刷された小冊子だった。その後、自分も『中国文学』83号支那語界回顧と展望 で平岡十太郎の名前で言及されているのも見付けたが、「十太郎」ではそれ以上の成果はない。
 さて平岡龍城の違う名前がのっている名簿をみつけたのが今回の新成果といえるもの。この名簿はほぼ毎年出されていたものだが公開されている図書館の所蔵としては熊本と東京に分かれている。熊本にある分は全部スマホで写真をとり、東京にある分は目を通してきた。名簿というのは人脈の宝庫なのだがここから人脈を掘り出せるところまではいかなかった。というのもこの名簿を出している会には毎年二回会合があるのだが某雑誌にのっている出席者一覧を追ってみたところほとんど出席していないことがわかった。出席を確認したのは晩年の一回だけ。そしてこの名簿に名前がのりだすのも東京で『標註訓訳水滸伝』を出した後である。詳しく書かないが標註訓訳水滸伝の出版情報からすればまったく関係ないわけはないのでなぜ平岡がそこまでまったく痕跡をのこしていないのかがわからない。
 ちなみにその名簿には住所がのっているので平岡龍城の東京の住所の変遷もほぼ押さえることができた。名簿は全部残っているわけではなく欠落があるので没年がわからないのが残念だがある程度の範囲に絞ることができる。大正の初期は芝区で、大正の中頃から最後までいたとおもわれるのは新宿副都心の南のワシントンホテルのあるあたりだが、このあたりは東京大空襲で焼けている。しかしこの方面からはあまり情報をひきだせなかった。代々木にある善隣書院の宮島大八の家には歩いていける距離であり、日華大辞典の共著者は善隣書院に縁の深い人間で固まっているので何か関係があるかもしれないと考え、今そこにある善隣書院を尋ねてみたが、ここからも何も情報を引き出せなかった。善隣書院自体は当時麹町にあって東京大空襲でも焼け残ったのだが、そのために関係被災者の宿舎と化し、書類の類は風呂の焚き付けとして消えていき、今となっては昔のことが全然わからなくなってしまったらしい。さすが中国関係だけあって永楽大典の消滅を再現しているようである。善隣書院の卒業生は満洲国で活躍していたりするので戦後、軍が書類をほとんど燃やしてしまったようなことがあったのかと思ったのだがそうではないということだった。もう終戦処理をした当事者はおらずその子の世代が老人になっているような時代なのでそう聞いたとしか書きようがない。
 『日華大辞典』のパトロンの方向からも攻めたのだが、こっちは孫と連絡がついた。満洲朝鮮に資産をもっていた家だが戦後もがんばっていたので人事興信録などでパトロンの子が追えたのだった。パトロン氏が昭和恐慌期に倒れた後、東大卒業したかしないかくらいのパトロンの子が事業をひきついでいたので日華大辞典についても詳しく知っている筈で、没年がわからないのでまだ生きている可能性に賭けていたが、なんと20年前に死んでいるということだった。パトロンの孫ももう70代だが何分生まれる前のことなので小耳に挟んだ程度の知識しかなく、植民地資産を失ったりしているので昔の資料もあまりないということだった。ただし話に興味はもってもらえたようで調べてみるということだった。でも20年前に記録とかは整理してしまってるんだろうなきっと。

 東洋文化学会とか大東文化協会に関係していたある人物が某政治家宛てに平岡を紹介している書簡をみつけたが、その中である人物を平岡の門人として併記している。この人物もまったくの無名人というのではなく、ある有名人の弟だった。こっちは話がふくらめばおもしろそうだがまだ手をつけないうちに終わった。平岡龍城についてはとにかく絞りやすい情報がない。出てくる名前がビッグネームばかりなのだが、ビッグネームの個人的友人というのではなさそうなのが困る。石光真清のような諜報の世界に生きる人間だったのか、あるいはだれかの調査要員とかブレーンみたいなものだったのか。石光真清的存在だったとしても軍人ではなかったのだろう。防衛省防衛研究所史料閲覧所でもさがしてみたけどわからんかった。士官学校や陸軍大学でも教授した痕跡は見いだせなかった。士官学校については「歴史」という名前の大事記があり陸軍大学では卒業式の記録がありその方向から誰が教えていたか押さえることができるが名前はでてこない。わからん。
 まぁまたなにかの機会に調べることとする。