メモ@inudaisho

君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

御嶽行者の皇居襲撃

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 明治に肉食が解禁されてから1カ月ほど後の1872年2月18日に、白装束に身を固めた御嶽行者10名が皇居に乱入し、4名が射殺され、1名が重傷、5名が逮捕されるという事件が発生する。精進潔斎を信条とする山岳信仰の徒である彼らは、肉食は許しがたい行為であるとし、旧秩序の復活を願っていた

 というのがリツイートされてきて目をひいた。肉食解禁の結果、御嶽行者が皇居に乱入して射殺される。そのすさまじい内容にびっくりしたのだが、同時にその年修験道が禁止される。なにか関係あるのではなかろうかとおもい調べだしたのだが、なんか違った。

 まずそのツイートだが、

岡田哲『明治洋食事始め――とんかつの誕生』 (講談社学術文庫)

 これが出典だった。ツイートした人はどっかからコピペしたようで、ググれば他にもあった。  この本は日本が西洋料理を受容して日本人の嗜好にあうように改造し、あんパンやトンカツをうみだす過程を描いたもので、御嶽行者の件はその最初の受容期の肉食解禁の時の一エピソードとして挿入されている。肉食解禁の拒否反応の一例というわけだ。供述書も引用されている。

 当今夷人渡来以後、日本人(もつぱら)肉食ヲ致ス故、地位相穢レ、神ノ居所コレ無キニ付キ(中略)夷人相討シ、且神仏領・諸侯ノ領地等、(いにしえ)ノ如ク封ニ致シ(たく)

 この事件は当時でも注目の的だったようで、明治の新聞記事をあつめた「新聞集成明治編年史」でもその事件発生時と処分のときの二度にわたって記事が引用されていた。ただし新聞記事では肉食のことはなく、「外国人追討又は諸寺諸侯領地回復」の託宣が下ったため奏聞におしよせたということになっている。託宣?

ここで御嶽行者というのが何者なのかよくわからなくなってきたので、御嶽行者について調べてみた。

菅原壽清『木曽御嶽信仰―宗教人類学的研究』2002 中山郁『修験と神道のあいだ―木曽御嶽信仰の近世・近代―』2007

 県立図書情報館でいろいろ見たがこの二つがわかりやすかった。この両著者が組んで一般向けに書いた本もあるが、一般向けだけあってあらまししかわからない。ただ地図がついているのがよかった。

菅原壽清・中山郁・時枝務『木曽のおんたけさん―その歴史と信仰』2009

 御嶽行者というのは、御嶽講の中心要素であったようだ。御嶽講とは?木曽の御嶽山を信仰対象とする宗教団体の総称...とでもいうべきか。御嶽山は古代はいざしらず、江戸時代には、100日間の潔斎をした行者しか入れない場所になっていた。まぁつまり霊山が宗教的管理の下に伏していた時代である。そこへ18世紀の後半になって覚明行者というのがあらわれ、一般の信者でも登れる道を無理矢理開いた。道というのはつまり簡単なお清めだけでもいいことにしたのである。

そういう信者の団体である「講」がこの木曽の山奥にもたらす経済効果が大きかったためにその道がだんだん開いたわけだが、御嶽講を御嶽講たらしめているのはその後出現した普寛行者である。彼がした大きな事は二つある。

  • 王滝口を開いた
  • 御座の開発

 それまで御嶽山を管理していたのは黒沢口であり、覚明行者も黒沢口から登れるようにしたのだが、普寛行者は御嶽山の南にある王滝から登れるようにした。それによって新しい時代を本格的に開いたわけだ。もうひとつが御座の開発である。修験道に憑り祈祷とか寄加持というのがあるが、それは巫女や子供なんかに障りの原因である生霊なんかをとりつかせて原因をさぐるというものである。(その内容が妥当かどうかはここでは問題にしない。自分は原理主義者ではないので、そういう文脈がありそういう文化が生きていたという事実は受けいれる)

 普寛行者の発明はそこで降ろすものを「神」にした。そして行者がその依代(中座)となり、別の行者(前座)が伺いをたてるという方式にした。これを今では御座という。さらに行者の修行方法も確立させた。なにかが取りつく状態=トランス状態になるのが中座で、そのトランス状態をコントロールするのが前座である。

 神様と対話できるというのがウリになったのかどうか知らんが、普寛とその弟子たちの関東での信者獲得は成功し、各地で講が結成され、御嶽山参りにやってくるようになった。どうも普寛行者は修験の行者が御座を管理するつもりだったようだが、講が爆発的にふえると、修験の行者など全然間にあわなくなる。普寛の弟子たちも独自に御座の方法を開発したりし、御嶽講は「在俗の行者が講をひきいる」ものになった。普段は生業をまじめにこなしている人が同時に厳しい修行もこなし、講をひきいて御嶽山にのぼれば神がとりついて託宣をしたりするというものである。こう書くとだれでもできるようなものかとおもえるが、肉体を極限状態においてトランス状態を導く方法を開発し、きっかけ次第でトランス状態になれるようにするというものなので、だれでもなれるようなものではないようだ。ある村では若者はみなこの修行をやるが、ほとんどは最初の段階で終わり、中座や前座ができるようになるのはほんの一握りだとか。どの世界にもエリートはいるものだ。

 ちなみに。今みてアヤしいものというのは、当時でもアヤしいのである。幕府からみてもそういうアヤしい団体が盛んに人をあつめている状態は好ましくなく、普寛の弟子には逮捕弾圧されるものもいた。

 そういう禁令状態から一転尾張藩の保護を受け益々栄えるようになるからおもしろいものだ。というのも御嶽行者が藩主の関係者の女性の病気を直したのである。19世紀前半のことである。したがって幕末は御嶽講、ひいては御嶽行者にとっては最盛期となった。御嶽講と一口に言っても、普寛行者が御座の方法を確立し、素質さえあれば誰でもできるようにしたものだから、講それぞれが行者とともに独立して存在していた。各種の講が発達した江戸時代の後半というのはそういう時代であったといえるかもしれない。

 さて尾張藩の庇護も明治維新とともに消滅し、御一新の世の中となって御嶽行者にとっては厳しい時代がやってきた。廃仏毀釈神仏分離が直撃するのはもちろんのこと、そもそもが修験道のアヤしいところを切りとってさらにアヤしくしたようなものが御嶽講だから、万事合理的なのが好まれるような世間では目の仇にされる。先の新聞集成明治編年史の明治5年5月7日に「天変来たって世界は泥の海」という記事があるが、記者は「笑止千万」と切ってすて、「コレヲ煽動スル原由ヲ尋ルニ恐ラクハ筮者浮屠者流、或ハ山伏富士御嶽講ナド云フ類、方今文明ノ治ニ臨ミ己ノガ宗法ノ行レズシテ活計ノ立ザルヲ憂ヘ、斯ル妄誕虚無ノ邪説ヲ唱ヘ、人心ヲ惑亂シ、其隙ニ乘ジ貪術ヲ要スルナラン」と御嶽講などがその流言のもとだろうと推測している。実際にはイギリスの天文学者が星がおちて地球が破滅すると予想したのが日本にも流れてきたもので、むしろ文明開化の余波であったようだ。

 御嶽講にとっての問題は、そういう一部の冷眼視などよりも、政府の宗教政策が激しく変わる中で、どこに落ちつけるかの方が重要であったのだろう。

 ながながと書いたが、御嶽講というのは神降しできる御嶽行者を中心とした小さな団体の集まりで、言うならあやしい新興宗教の団体のようなものであった。おおざっぱにいえば修験道もあやしい方に分類されていたようだが、そのなかでもさらにあやしいものだったといえるだろう。

 さて冒頭の皇居乱入事件については『岩波日本近代思想大系5 宗教と国家』にその取り調べの調書がのっており、それをわざわざ現代日本語訳した人がいる。

御岳行者皇居侵入事件(史料II―9)

 これをみればわかるように、この事件をおこしたのは久宝丸の船員であるが、また同時に御嶽行者がひきいる御嶽講であり、御嶽行者の託宣に従って奏聞のために皇居にのりこんだというものだった。遊女を四人仲間にひきこんで、四天王としたが遊女のお抱え元から文句つけられ金をはらって放した、ということだが、御嶽行者の御座の方法の中には御座の四隅を守って変な霊が中座にとりつかないように結界をはる役目の人があるものもあるので、それに抜擢したつもりだったんだろう。

 ところで、この『岩波日本近代思想大系5 宗教と国家』は1988年にでた本であるが、書かれた時代から予想できるように天皇制に焦点をあてたものであり、この資料の解釈もそれにそっている。

 その要求内容は復古主義的であるが、強権的近代化政策の全体を"敵"として措定し、天皇制国家に真正面から挑戦した興味深い事例である。

 左翼脳全開www

 彼らは彼らなりの武装をしていたとはいえ、目的は直訴であり、あんまりおかしいので門のところで射殺されただけであって、"強権的近代化政策の全体を敵として措定"とか"国家に真正面"から挑戦ってウケルwww

 そのころの御嶽講の状況からすると、肉食で地が穢れたというのは時代に対する文句の一つにすぎず、御嶽講の庇護者であった尾張藩や、信仰対象であった諸山諸寺の復興の方がさしせまった願いであったろう。