メモ@inudaisho

君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

藤田西湖の出身地

 藤田西湖『どろんろん』1958 を国会図書館の図書館送信サービスで読んできた。なるほどおもしろい。まるでマンガの主人公のような話だが、忍術の修行といわれるものの他に山伏の修行とか「南蛮殺倒流」の修行とかをやっている。祖父に教えられた忍術修行の第一が整息術と歩行術で、最初っから爪先歩きや砂に手をつっこむ手刀の訓練とかやらされているということになっているのだが、青年になってから出会ったはずの南蛮殺倒流は、手指足指を鍛えるのが特徴だとか書いてある。それにしきりに有名になった有名になったと書いてあるので痕跡も残っているはずだから同時代資料で調べるかと、とりあえず図書館送信サービスで読める範囲でしらべると最初っから意外なものをみつけた。
 大正15年(1926)の『心霊と人生』3巻7号にこうある。

氏は伊豆は大島の産だと云うが、現在は東京府下西巣鴨町に武藝の道場を開いて其の父母兄妹と樂しく平和に暮してゐる

 雑誌のタイトルからして怪しいが、このとき既に忍術と称してそういう怪しい場所で披露していたようだ。しかし甲賀流14世というのはどうなったのか。江戸うまれならまだなんとかわかるがさすがに伊豆大島うまれでそれを称するのは無理ではなかろうか。
 次に昭和11年(1936)の内海朝次郎『逓信畠の先輩巡礼』。これによると、早稲田実業を出たあと大正七八年ごろ、逓信省の貯金局内国為替課に事務員として勤務していたとある。大学をわたりあるいたというのはこのころで、昼は貯金局で事務をやり、夜に夜学で勉強していたとのことだ。そういうことも『どろんろん』では書いてない。ちなみにこのころのプロフィールはこうだ。

神田生れの江戸兒で、本年四十歳の働き盛り、祖父は三千五百石の旗本で、藤田東湖の家とは血縁關係があるとのことである。藤田さんの忍術修業は幼少七歳の時早くも、嚴父指導の下に秩父山中で行はれ、今は甲賀流第十四世を稱されているが、詳しくいへば甲賀五十三家の南山六家に屬する和田伊賀守の末流である

 このころには『どろんろん』にのっているのに近いプロフィールになっている。ただし祖父ではなく父から教えられたことになっている。

 ここでようやく↓を発見した。「藤田西湖 伊豆大島」で検索してみつけたのだ。
三重大学 人文学部・人文社会科学研究科 | 第5回「藤田西湖研究」(前期)
 この研究が論文としてまとめられたのかどうかしらずとにかくネットにはないようだが、この要旨によると、

藤田は当初、修霊鍛身会会長として、肉身貫針術、熱湯術などを披露し、病気治しなども行っていたが、大正13年(1924)ころからそれらを「忍術」として披露するようになった。

 ということで『心霊と人生』にのっているのは忍術と称してからまもなくでまだ伊豆大島の産をなのっていたらしい。そのあと忍術を商売とする都合上甲賀流忍術14世を名乗るようになったということだろうか。ちょうど関東大震災で下町が焼けてしまったので、あのあたりの産まれとしておくと都合もよいというところだろうか。「術」になったのは武術をやっていたからそこからの連想だろうか。
 もっともそれまでに身につけた異能をそのころの時流にのって発揮できたのが「忍術」というものだったのかもしれない。昔からの山伏や武術家が生きのこっていたが、また一方で講談流の忍者やインチキ心霊術がはびこった時代、そういうものに全部頭をつっこんで全部飲み込んで消化研究した成果が「甲賀流忍術」だったのだろうか。

(2016/04/12 追記)
藤田西湖の新聞スクラップ - メモ@inudaisho