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「戊辰内乱」の謎

「戊辰内乱」の謎

 8月末から9月頭にかけて東京に行って本を読んできたのだが、そのときついでに国会図書館で検索したら例の吉岡拓が山国ネタで「戊辰内乱の記憶 / 記録と身分意識」というのを書いていた。はて? 戊辰内乱?

 ということでそのとき一日くらいで適当にまとめたのだが、それだけだとなんかものたりないのでつっこんで調べるといわゆるマルクス主義史観の沼にハマってしまい、本来やるつもりだったこともおろそかになって一ヶ月くらい空費してしまった。

国史大辞典の「戊辰戦争」の項目に書かれていないマルクス主義史観

 国史大辞典で戊辰戦争をひくと、研究史としてまず原口清・石井孝の戊辰戦争論争があげられている。当時の研究を見てみると「内乱」の語は普通に使われていて、石井孝などは『維新の内乱』1968 というような本まで出しているくらいだ。ということで内乱は普通の用語なのかと勘違いしてしまうが、ここでいう「内乱」というのは、マルクス主義史観でいうところの「戦争→内乱→革命」というような図式でいうところの「内乱」、または法律でいうところの「内乱」であって、一般的な歴史用語ではない。

 そもそもこの原口清・石井孝の論争も共にマルクス主義史観の枠内で行われていて、それぞれが正しいとおもうマルクス主義史観のために論を立てていたのであるが、そういうことは国史大辞典の記述ではわからない。

マルクス主義史学の沼

 ということで、ちょっと調べたらわかるだろうと軽い気持ちで、戊辰戦争がらみの研究からさらに、コミンテルンが戦前に出したテーゼや日本資本主義論争なんかまで手をのばしたのであるが、もうそのあたりが沼だった。書くと終わらないので書かないが、どこにも「模範的な日本のマルクス主義史学」というのは存在しない。みんな「オレのマルクス主義史観的解釈」を掲げてその時々の政治動向に合わせて言う事を変えてるので何が何やらわからない。国史大辞典が原口清・石井孝の論争の前を書かなかったのはまとめづらいというのもあったのだろう。彼等の先輩にあたる「マルクス主義史学者」服部之総はいわゆる講座派の数に入っていて明治維新あたりのことについて論陣を張ったのだが、必ずしも彼の表現するところが当時の主流派ではないところがおもしろい。そもそも服部のころは、不定形だったマルクス主義史学がそれなりの形へ発展していく叩き台のような時期でありまた政治的な激動の時期なので言うことが時期によってマチマチなのはしかたのないことではある。だから、代表的な「マルクス主義史学者」とされる服部之総よりも、戦後の石井孝の方が図式的な理解で済ましている面があるという「退行」もあるわけで、前を見ようとするとどうも簡単にまとめづらい。ということでここについてはお手上げで放置しておく。

「内乱」の三つの表現

 さて「戊辰内乱」的な言い方は1960-70年代に流行ったようであるが、それをみると三つの方向がある。一つは国際的な観点から内乱ということ。一つは「内乱」の表現として草莽隊が研究されること。一つは関東の地方社会での騒乱状態という意味で内乱ということ。

石井孝の『維新の内乱』

 石井孝の『維新の内乱』は1968年(昭和43)に出たもので、世間では明治百年を祝っていたころだ。石井は明治百年をくさすためにそういうタイトルにしたのではなく、原口清の『戊辰戦争』が出ているのでタイトルがかぶらないようにそうした、ということにしている。しかしこの本はわざわざ「内乱」をタイトルにたてるために、戊辰戦争を国際社会からの観点を軸にして書いたのだ。つまり国際社会からみて「タイクン」の政府が正当政府とみなされる状態から、「タイクン」の政府と「ミカド」の政府の内戦を経て、「ミカド」の政府による支配が確立する、そう見なされていた事実を記述の柱に立てているのだ。そしてその枠組みを利用して、服部之総が考案した「絶対主義への二つの途」つまり戊辰戦争天皇による絶対主義確立と将軍による絶対主義確立を目指した路線対立でおこった戦争ということを説明した。そして服部之総が至った「明治維新は革命ではなく上からの改革」であるという見方を強調したのだが、そもそも革命か改革かの違いが意味をもつのはマルクス主義史観の解釈の上での話なので、勝手に言ってればというだけではある。しかし石井の著述は当時の国際関係からの視点を軸にして構成しているので、その点で「内乱」が無駄にはならず実のあるものとなっている。

 ちなみにもっと直接的に「内乱」を示す下からの革命のエネルギーという見方も健在で、石井自身は「人民史観」とその考え方を叩きながらも、たとえば「ええじゃないか」を人民の革命へのエネルギーを逸らせるために西郷らが仕組んだもの、のように書いていておもしろい。もっとも石井はそんなに単純な「革命へ向かうエネルギー」と描いているわけではなく、「人民闘争」が将軍による絶対主義確立を阻害したというように書いているのだが、いずれにしてもマルクス主義史観の枠組み内での論争だ。石井の方がより実態に即した把握をしようとしたとはいえる。

クーデターだから内乱

 ちなみに法律用語的な意味での「内乱」であるところの、戊辰戦争はクーデターだという見方は当然ながら明治のころにはすでに旧幕臣が残している。これは、実際に経緯を眺めてみれば、大政奉還が先にあり、そこから薩長方が天皇を担いで討伐軍を出したというので、名分論だけでいうとあながち間違いでもないのだが、これは徳川慶喜大政奉還の手に出たのがすごかったというだけのことで、実際に他よりも隔絶した大大名である将軍家がそのまま残るというのは難しい話ではあっただろう。実際に西南戦争までは士族反乱が相続いたわけだし、戊辰戦争のうちの函館戦争も士族反乱的な性質が強いので、戊辰戦争による徳川慶喜の恭順がなくても、いずれ戦争にはなっていただろう。(20191004この段落追加)

草莽隊 を「内乱」の表現とみる

 国会図書館で戊辰内乱を検索すると1960-70年代に用例のピークがあるのだが、多くは「草莽隊」の研究になる。戊辰戦争に民間から参加した諸隊のことを「草莽隊」というらしいが、それを「内乱」つまり社会全体で革命へ向かうエネルギーの表現のように捉えているのだ。要は、そのころ流行っていた一揆の研究の目的が「失敗した革命である農民戦争」の研究であったのと同じようなものとして扱おうとしたのだ。その見方に沿う形で分類すると「戊辰戦争」は正規軍の戦いで、「戊辰内乱」は民間の戦いということになるかもしれない。とはいっても論考の中でちゃんと区別されているかというと結局戊辰戦争がらみの諸隊なので戦争と内乱の区別がどこにあるのかわからないまま時流にのって使っているだけにもみえる。

関東の地方騒乱での受容

 ところが、その後80年代まで使われている方面がある。それが関東の地方史だ。関東は徳川将軍家のお膝元というだけあって、新政府軍が関東へ進出したあとも官軍につくか幕府方につくかの騒乱がみられた。であるからその地方では、戊辰戦争というのは単なる正規軍どうしが勝手にやってた戦争ではなく、地方をまきこんだ戦乱の時代であって、それを記述する言葉として「内乱」が受けいれられやすい。という事情があって「戊辰内乱」という用語が受容されたようだ。関東人の明治維新への恨み言の一種の表現ではあるな。

宮間純一によるリバイバル

 戊辰内乱の語はそれから少なくともタイトルで使うようなものではなくなっていたようだが、それを2000年代になって復活させた人がいた。それが中央大学の宮間純一だ。ただ、この人の「戊辰内乱」の使い方は正直よくわからない。定義もせずにいきなり使っているし、論文によって使ったり使わなかったりしている。『戊辰内乱期の社会』2015 では、「新出史料を駆使して実証的水準を維持しつつ、政争史だけではない社会状況を包括した全体的な戊辰内乱像を構築することが、現状における最大の課題」と書いているのだが、その「新しさ」の演出のためにわざと目新しい用語を選択しているだけではないか。「新たな戊辰内乱像」の柱が佐幕と勤王の対立だというのだからそれは新しいものなんだろうか。関東地方史での「戊辰内乱」の受容が前提とすれば、最近の東京あたりの住民は関東からあんまり外へ出ていかないので、関東で通用する用語がメインストリームだと思うということだろうか。

 ちなみに宮間氏の研究の内容はおもしろいものなので、それなのにどうして用語レベルでわけのわからんことをするのかわからん。昨今の学会は奇を衒わないと生きてけないんだろうか。

明治百年と明治百五十年

 ところで石井孝が明治百年に『維新の内乱』をぶつけてきたように、明治百五十年を祝った2018年度に日本史研究会大会の近現代史部会では戊辰戦争を持ってきたのだが、発表者に宮間純一と吉岡拓を選んでる。つまりそれが冒頭紹介した吉岡拓の「戊辰内乱の記憶 / 記録と身分意識」なのだが、では肝心の宮間純一はどうかというと「地域における明治維新の記憶と記録」というお題を立てている。中では普通に戊辰戦争と書いている。本当によくわからん人だな....

 ところで2018年度の大会発表は、2017年度に偉い人から日本史は古代中世近世近代と世界史的な区分してるくせに世界史的な観点に繋げるような研究がないという苦言があり、その反応という面があって近現代史では「記憶と記録」とかいうお題が選択されたようだ。ちなみに古代と近世は完全に無視で、名指しされた中世は東洋史の研究みたいな海域アジアの発表を出してきてお茶を濁している。近現代史おフランスで提起された歴史認識に関する議論を若手に押しつけてお茶を濁したというわけだが、宮間純一はソツなくこなしていてそのあたり格の違いを感じさせる。

 (古代史部会と近世史部会の発表は中できっちりそういう議論をしてたのかもしれんがそこまでちゃんと読んでない)

オチ

 ちなみに、東京でこのことを人に話したときは、「頭ではマルクス主義史観を否定していても、体が忘れられず、ついつい変な用語選択をしてしまう...」みたいなおもしろ記事にするつもりだったが沼が深すぎてそれどころでなかった。調べてみたらマルクス主義史学とかいうのは実証的手法によって発達していったように見えた。今は実証史学というのが高唱されているが、だいたい実証でない史学は存在せず、ただ解釈の違いがあるだけなのでおサヨクのみなさんは、服部之総のようにどんどん「おれのマルクス主義史学」を自分で再構築していけばよいだけではなかろうか。もっともそういうことをやってどんどん組織から除名されていったのがおサヨクの歴史かもしれんが。

(実証だと主張することはその解釈が正しいことを保証しない。科学を装った迷信が存在するのと同じ事)

国葬の成立 明治国家と「功臣」の死

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戊辰内乱期の社会

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