粟田口の明智光秀の首塚
現在京都の白川沿いにある明智光秀の首塚だが、本来の首塚は粟田口(今の蹴上あたり)にあり、それを移動したものである。調べたらすぐわかることなので知っている人は知っている。その粟田口にあった首塚というのは江戸時代の記録に残っているものなので、秀吉のころに明智光秀と斉藤利三の首晒した場所そのままなのかどうかはわからない(そうかもしれないが確定できない)のだが、それについて検討した中で、実は南禅寺の金地院にある東照宮がその首塚のあったあたりを向いているらしいということを指摘した。
ところでここで使った地図は明治の仮製二万分の一図なので、そんな細かい比定には向いてないのだが、もっと詳細な地図があるのでそれを使ってみた。
琵琶湖疎水資料館にある地図で比定する
琵琶湖疎水資料館には「従滋賀県近江国琵琶湖至京都通水路実測図」(明治16年)という地図が展示されている。この地図の存在には気付いていたのだが、その展示室に撮影禁止とあったので使わなかった。ということだが、こないだ地図展を見にここへ来たとき、事務室に聞いてみると、この撮影禁止は著作権の絡みで撮影禁止だとのこと。ならこの地図の一部分だけなら著作権的には問題ないのでは?と聞いてみるとよいみたいだったので撮ってきた。その地図で比定してみたのがこれ。
赤い丸で囲ったところが、光秀の首塚があったであろうとおもわれる場所だ。前の記事に書いてあるが、江戸時代の地誌の記述だと江戸時代中期は「谷川町の人家のうしろ」で後期は「西小物坐町のうしろ」ということになる。赤い丸のあたり、三条通から道か川かよくわからないのが北に分岐しているが、これが谷川町と西小物坐町の境になっているようで、首塚も境目にあったのだろう。首塚のあったあたりは除地があったというのでこの赤丸の下の人家の隙間がその除地だろう。というわけで順当に人家の後ろのあやしいところを赤い丸で囲うと、ちょうど東照宮がその場所に背中を向けていることがわかるというわけだ。
現在は消滅
前の記事にも書いたが、この地は交通の要衝で、かつ疎水もここを通ったことで地形が激変して昔の面影はない。首塚があったあたりは今は蹴上発電所の敷地内で完全に消滅している。
山崎の戦いの後の記録では明智方の兵が何千人も殺されて積まれていたらしいので発電所の工事のときに骨が出たりしててもおかしくないんだが、そういう記録や回想をまだ見付けていない。まぁ粟田口の処刑場も正確にどのあたりだったのかよくわからないらしい ( 1000年もの長期間刑場として使われていたので時代によって移動している ) ので、ここの工事では骨が出てくるのが普通だったのかもしれない。そんなに熱心に記録類を漁ったわけではないので、そのうち熱心な誰かがそういう記録をみつけてくれるかも。
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