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井上章一『京都ぎらい』の花園・嵯峨の田舎具合と20世紀の都市の拡大

京都ぎらい (朝日新書)

京都ぎらい (朝日新書)

  • 作者:井上章一
  • 発売日: 2015/09/11
  • メディア: 新書

 こないだブックオフに行ったとき、井上章一『京都ぎらい』朝日新書 2015 のクタクタになった本が108円で売ってたので買ってきた。うーむ。なんというか屈折した感情で京都をあれこれ書いてて正直微妙な本だが、さてここで井上章一の言う花園・嵯峨がどれくらい田舎かみてみよう。今昔マップの明治末の京都の地図。

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明治42年(1909)測図 今昔マップより

(地図内の色付記入は筆者による。以下同様)

 これでわかるように嵯峨はおろか花園でさえも京都の市街地から離れている。花園も嵯峨も京都市に入ったのは昭和6年で、それまではそれぞれ花園村・嵯峨町(大正12年(1923)から町制)だった。花園は京都の市街地から妙心寺の南門へ行く街道筋の町でいうなら門前町に近いがその南側はまだ空き地だった。この明治末の状態から大正の15年間で京都市の市街地は天神川と山陰線の東側まで拡大する。このころでも北野天満宮のあたりが京都市街地の北西端にのみこまれつつあったわけだ。

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大正11年(1922)測図 今昔マップより

 そこから関東大震災による関西方面への人口移動にくわえ、関西経済の成長もあり京都の市街地も急速に拡大する。

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昭和6年(1931)測図 今昔マップより

 山陰線の花園駅妙心寺を結ぶ道のあたりに町が展開しているのがわかるだろうか。つまりこのあたり昭和になってから急速に市街地が拡大した場所だったわけだ。井上章一はこの花園で戦後の1955年(昭和30年)生まれということなので、新興住宅地か在来の花園村の方だったのかはわからないが大正末までの状態を知っている人からすれば京都ではないに違いない。嵯峨はさらにその先なので言うまでもない。井上章一が嵯峨が京都か京都でないかのような話をグチグチ書いているが京都でないと思う人がいる方が普通だろう。井上章一が20代の若者だったのは昭和50年代ということになるが、市街地が天神川の西側に伸び出してからまだ50年くらいしかたっていない。

 明治末までの都市の規模というのはそれほど大きいものではないのは当然の話で、たいていの日本の都市が現代の市域になったのは世界的にも人口が爆発した20世紀の中頃である。井上章一のように都市の近郊に住居があり、その後市街地に飲まれた人というのは別に京都にかぎらず日本中世界中にあるだろう。たとえばこれは明治末の大阪の地図だが、

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明治41年(1908)測図 今昔マップより

(黄色が鉄道)

 今の大阪の環状線は当時の市街地の外側を巡るように走っていた鉄道が元だということがわかる。また、今の阿倍野のあたりは「野」らしく本当に何もなく、「新世界」とかあるあたりはこの後開発されたところで本当の意味で「新世界」だったこともわかる。まぁ大阪は今でもこの上町台地の上だけに繁栄が集中している感じはあるが、人間の行動範囲が徒歩で制限されていた時代の都市は市街地と市街地外がこのように明瞭に分かれていた。都市はその後急速に拡大し、周辺地域は市域に次々と飲まれていったわけだが、その元周辺地域の市域の人と旧市街地の人たちの間で帰属感に微妙な差が生じたことは日本中の都市でもあったことだろう。京都は都市としての歴史が日本の中では長かっただけだが、それも実のところ秀吉くらいのころに大改造されたのが今の京都のもとだということは当の『京都ぎらい』の中でも家康の開発した京都という形で指摘してある。日本の今の県庁所在地の都市は織豊期から江戸初期に城下町として始まったところが結構多く、町の歴史として見ると京都も案外変わらなかったりするので、古い歴史を誇る人達と周辺地域の人たちの都市への帰属感の差はそこでも見られたことだろう。要は『京都ぎらい』の中で冒頭指摘してるような事は規模こそ違え、全国的にあったことである。京都は幕末の地震以後空襲も受けずにいたので強く残った面はあるだろうが。

 井上章一はその都市近郊民の微妙な帰属感を京都の歴史とからめていやらしく書いてるだけなので、この本からただよう京都の「いけず」さというのはむしろ井上章一本人の「いけず」さだ。若いころに受けた田舎者扱いという貴重な体験を20世紀都市論に展開できず、ひたすら京都に因縁をつけていくだけのくだらない本にしてしまったあたりに井上章一の限界がある。どんな本を書こうが勝手だが、この程度の本が2016年の新書大賞とやらを取ったというのだから今の知識人とやらの頭脳の退廃も徹底したものだ。平成の30年間というのは本当に腐敗と堕落の30年だったということだな。

 全然関係ないが井上章一の本で読んだことあるものでは↓がおもしろかった。ヨーロッパでいう「古代」というのは狭い意味ではローマ帝国の領域だったか否かということで、中国周辺の歴史でいうとそれに相当する古代帝国は漢のことになるから漢の領域になかった日本に古代はないというのは、ヨーロッパ的な「古代」の使い方を適用するなら確かにそうなのだ。これはソ連マルクス主義的史観で「古代」を規定してたようなちょっと前の日本史学者からはでてこない視点で、そういった美術史的な「古代」史観をベースにもつ建築史の専門家だった井上だからこそ持てたものなのだが、こういう虚を突くような本ばかり書いてりゃいいのに。『京都ぎらい』を書いたときは60歳ということだが、もう早ボケてきたのかな? これだから戦後生まれは...

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