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君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

小米の電子ペーパー端末の噂

小米(Xiaomi)の電子ペーパー端末の噂

 事情通のGood e-Reader がこういう情報をみつけてきた。来週小米が電子ペーパーの読書端末を出すという噂だ。

goodereader.com

 実は小米がそういうものを出すという噂は前からある。早くも2010年にできた読書プラットフォームをやっている多看科技を2012年には買収して傘下におさめている。この多看は当初 Kindle 上で動くKindleアプリのような中国語の読書ソフトを作り、そこからiOS版、Android版などにも手をひろげているらしい。 つまりすでに読書プラットフォームとして十分成熟しており、そこから Kindle の庇を借る形ではなく独自の端末を作るのではないかという観測もなりたつ。既にそういうおもわせぶりな情報も去年のうちに流れていた。

 また Good eReader が何回も流しているように 小米は電子ペーパーの温度計など出しているので電子ペーパーについてまったくの素人というわけでもない。そのうちなにか出てくる可能性はある。(が、ハードを出すと在庫になるのでそこまで踏みきるのか微妙なところ)

ただし今回のはガセ

 ただし残念ながら今回のはガセ情報ないし宣伝の一種だろう。百度で検索すると来週出るという噂の他に同じネタで今日出るという噂もある。そこでネタ元である「小米有品」をみてみた。この、小米有品というのは要は小米が経営しているEコマースプラットフォームで、小米にかぎらずいいものを売るというコンセプトっぽい。淘宝(タオバオ)や楽天Amazonの精選版のようなものだ。みると掌閲 iReader という中国市場だけで出ている電子ペーパー端末がでている。よくよくみるとこの掌閲の画像が Good eReader やその他百度で流れていた観測で出ていた画像と同じだった。つまりこの「小米有品」で電子ペーパー端末の売り出しをするという予告が、小米がそういうものを出すという観測とまじったのか、意図的に宣伝として混同されたのか、とにかくそういうもので出てきたのだろう。

 まぁしかし画像自体がガセで来週出てくると思いこんで待ってみるのもいいかもしれない。そろそろ秋冬に向けての新製品の発表の季節だから、出てきてもおかしくはない。ないのだが、たとえばソニーの新端末の情報も一向に出てこないし、Hisense A6 の次の情報も出てこない(秋に出るという話だが。)ので、やっぱりニッチな市場すぎて活発にモノを出せる状況ではないのかもしれない。

南丹市八木町諸畑の明田氏

家紋研究家の探索

 明田理右衛門の出身地丹波の明田氏について調べていたらこういうブログをみつけて、前の「明智光秀首塚と明田理右衛門 その2」の方に追記しといた。

arkness.blog.fc2.com

 これによると南丹市八木町諸畑の明田氏は応仁の乱のあとここにやってきたということらしい。

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八木図書室

 ということで、八木の図書館に行って郷土資料をあさってきた。

出身は信州?

 『郷土誌八木』第7号の鈴木祥一「八木町内の宝篋印塔 その他」に清源寺の宝篋印塔について説明があるが、その塔の横に明田氏の石碑があり、こう書いてあるそうだ。

当寺開基 桓武平氏三浦家之末孫者 代々明田和泉守由緒信州明田城主也 平家二十一代伯耆守義国応仁文明乱軍敗一族遁世刑部庄内大谷口 嫡男和泉守義季文明十三年(一四八一)再興清源寺 此塔従古大谷口代九番地 在旧屋敷跡 昭和五十二年秋 移此処為明田家先祖菩提矣

 日本語を漢文っぽく書きなおした文章で微妙だがまぁ昭和52年だからしかたない。信州明田城主だったが応仁文明の乱で負けてここに遁世したとある。信州明田城というのがよくわからん。何代何代と詳しく書いてあるということは系図でもあるんだろう。

内藤氏の配下

 「丹州船井郡八木村山城之城代書覚」という八木の地方誌ではよく翻刻されている資料がある。明智光秀が内藤氏を攻め滅ぼす前、八木城に詰めてた人たちの名簿らしい。「御弓大将」という組が一番から六番まであるが、その一番の組の中に明田氏がいる。

八木孫太夫 坂口備後 波々伯部伊豫 杉崎宗俊 中後藤之助 中川兵助 川藤數馬 杉崎德右衞門 明田儀左衞門 杉崎孫之亟 塚本治部左衞門

 丹波室町時代の後期にはだいたい細川氏が守護になってた国で、その下で代々守護代をつとめていたのが内藤氏。三好長慶の部下の松永久秀の弟が入りこんできたこともあるが、その息子の内藤ジョアンは足利義昭にしたがって結局丹波を離れている。この名簿は織田信長から討伐対象として目の敵にされてたころで、丹波には明智光秀に早々と従った勢力もあったが、明田氏は徹底抗戦した側なわけだ。ま、それまで丹波の中心だった八木城の近くに住んでるわけだから、当然といえば当然か。

遁世?

 さてそこで気になるのが出身が信州で応仁文明の乱で負けてここに遁世したというところだが、ここはその応仁文明の乱の立役者の一人であった細川氏の領国の治所と目と鼻の先なので、その争いで負けた側が遁世できそうな場所ではない。江戸時代には明智光秀が開いた亀山(亀岡)と園部藩が置かれた園部がこのあたりの二大中心となったので、そのころなら若干寂れてしまった感はあるが、いずれにせよ亀岡盆地の北の端なので遁世なのかどうか.... しかも明智光秀が滅ぼした内藤氏についている側なので、それ以前からいたことになり、「遁世」について無理に解釈してもしかたない。応仁の乱についても、どちらかというと活躍した側なのでは? という見方もできる。そもそも信州明田城というのがよくわからない。

 最近は中世の山城の探検が日本中で流行っていて、ネット上で検索したらすぐ出てくるのだが、明田城で検索して出てくるのが丹後の大宮町明田にある明田城(入谷城)で、もうひとつが備前岡山県赤磐市にある明田城。どちらも応仁文明の乱の立役者のひとつの山名氏がなんらかの関係のある国なので、もしも応仁の乱でどうこうしたというのがそれなりに実のある話なら、明田氏は負けて遁世したというよりは寝返ったとかなにかそういう理由で元の場所に居辛くなって、細川氏の足元で保護されてたのかもしれない。

秋田 明田 麻田

 おもしろいのはこのあたりは明田の他に秋田・麻田という名字がまた名家として存在していたことで、秋田は特に多い。そこからたとえば、こういう妄想もできる。この「あ●田」が実はみな秋田がもとで、なにかで分かれたときに名字をちょっと変えたのがそのうち忘れられて、戦国期から江戸時代初期に別の由緒で置換された、のような。他にはもともと同じ氏でそこから派生したとかという筋も考えられるが、これは単に「似たような名字が多いという事実から思いついた証拠のない妄想」なので、たまたま似たような名字が集まっただけかもしれない。

 ということで特に結論もなくいかがでしょうかブログ的に終えることとする。

(実は「八木城に詰めていた人リスト」も江戸時代になってから作られた偽書(作成当時の名家リストを八木城に詰めていたという体裁でまとめた一種のなりきりもの)の可能性がある)

山名宗全と細川勝元 (読みなおす日本史)

山名宗全と細川勝元 (読みなおす日本史)

八木町誌

八木町誌

Boox Nova Pro 買った

(20190511 リフローの画像間違えて全然変わってない画像をアップしてたので修正)

Boox Nova Pro

 Boox Max2 に英語版ファームウェア V 2.1.1 が落ちてきたのだが、それが画像スキャン系PDF閲覧者にとって至福の更新だったということは既に書いた。

inudaisho.hatenablog.com

 そしてあまりによかったのでその勢いで7.8インチの Boox Nova Pro 買ったのだが、その直後入れた前歯のブリッジが大失敗でちゃんと噛めず、こういうのを漫然といじる余裕がなくて記事にもしてなかった。今でもあんまり隅々までいじりまわす余裕がないのだが、とりあえずどんなもんか書くことにした。

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到着した Boox Nova Pro を開封したところ

とりあえず新書と比較

 さて画面だけでいうと一番近いのは新書になる。

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新書との比較

 機械の大きさではほぼA5。

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ダイソーのA5ワイドリングノートとの比較

 つーわけで携帯に便利なサイズだということだ。画像中の白地ノートはA5ワイドなのでA5より若干大きい。Boox Nova Pro は A5 が入るポケットなら入る。

精細さは十分だが。

 

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新聞集成明治編年史を表示

 このとおり、新聞集成明治編年史でも表示して読める。まぁ6インチで表示させてたよりはマシ。ところでこれを無惨にも新書の活字と比較するとこうなる。

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新書と並べてみる

 この新聞集成明治編年史国会図書館デジタルコレクションのものなので画像がちょっと甘い。印刷物と比較するとこうなってしまうがまぁしかたないかな。元のサイズがほぼB5なのでどうしても縮小表示になる。老眼で小さい字が読めないとかでなければ十分読める。老眼の人は Max2 を買えばいい。

きれいにスキャンされた論文PDFをみる

 もうすこしきれいにスキャンしてあるもの(論文PDF)を見るとこう。

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論文PDF

 たぶんこれ元がA5なのでより見やすい。これを、Boox ファームウェア V2.1.1 の NeoReader 3.0 の機能をつかうとこんなことが簡単にできる。

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ナビゲーションモード → 他の設定

 これはページ別になってるPDFなのでかなり設定しやすいのは前の紹介で書いた通り。自由にスキャンした画像だと本の位置が泳ぐのでついつい枠に余裕を持たせて設定してしまう。↑これが、↓こうなる。

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より見やすい

 みやすい! みやすい!

 興奮して何回でも書いてしまう。。。。

PDFのリフロー

 テキスト系のPDFはリフローできる。

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テキスト系PDF

 フォーマット → 再表示 の再表示というのがリフローの意味で、英語版だと Reflow となってるのに日本語版では 再表示という訳になってる。まぁそっちの方がわかりやすいだろうと思ったんだろう。リフローさせるとこうなる。

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リフロー

(20190511 画像まちがえてた)

 まぁ7.8インチといえど組版がある場合たいてい元よりも小さくなってしまうのでこの機能はいいのでは。

お絵描きもよい。テキストは知らん。

 まぁ前に書いた個人的な事情で必要な事以外する余裕があんまりない状態なのでテキストのことはあんまりよくわかんない。テキストだとフォントがより綺麗に表示されるのでは。フォントも追加できるので工夫のしどころはいろいろあるだろう。(ここに書くほど工夫できてない) ノート機能はなかなかよいが今まで Max2 のでかい画面をつかってたので、いままでと違う携帯ノート的な使い方が必要だとおもう。Max2とどう使い分けるかなど、とにかく歯の件がおちつかないとなんともしようがない。

使い勝手がよいので32Gがすぐ埋まる

 使い勝手がよいのでどんどん画像系PDFをつっこんでいくとすぐ埋まる。この点だけでいうと Likebook Mars の拡張性は魅力だが、Likebook 系の操作感はわからんのでなんともいえんな。人によって必要な機能も違うだろうし。とにかく自分にとって NeoReader 3.0 は最高だったということで。

重さ

 外装がよくてしっかりできてる分こころもちズッシリ感じる。ノートの機能にはその方がいいのでしかたないかな。

V2.1.1 への自動更新はストップしているらしい。

 ちなみにこのバージョンのファームウェア、自分にとっては非の打ち所がないのだが、どうも他のところに不都合があるらしく、OTA アップデートは止まってる状態らしい。サイトの方では英語版を配布している。

www.boox.com

 日本人はクレーマーっぽいのが多いから日本語版のOTAアップデートは最後になるだろうなwww

君見ずや出版新刊『光秀物浄瑠璃集 本朝三国志・三日太平記・絵本太功記』

 調べ物すると本を出したくなるもの

『光秀物浄瑠璃集 本朝三国志・三日太平記・絵本太功記』

 「本能寺の変」をあつかった人形浄瑠璃をあつめたもので、18世紀の浄瑠璃世界で明智光秀のキャラクターがどんどん発展していく様を追える。人形浄瑠璃ってのがそもそも近松門左衛門竹本義太夫のコンビで急速に芸術性を高めたもので、その脚本力で上方芸能界に君臨したものの、それがいつまでもつづくわけでもなく、埋没しかけていくところ、歴史の裏面を掘る方向に進路を見出していき、その中で当たったのが光秀物。その先鞭といえるのが近松半二らの『三日太平記』、頂点が18世紀末の近松やなぎらの『絵本太功記』。浄瑠璃の歴史を書いた昔の本をみるとこの「太閤記物」が没落・品質低下の象徴みたいに書かれてるんですがもとに戻っていく過程での最後の輝きみたいなもんなのでは。

 明智光秀は京都では地味に人気があったし、淀城には光秀配下の斎藤利三の娘春日局の血をひく稲葉家がはいっていたので、大阪の秀吉贔屓との微妙なバランスをとりつつ浄瑠璃世界での展開を探ったら悲劇の英雄的な光秀になったのかも、と妄想したのが前の記事。

太上天皇諡号

太上天皇・諡号

太上天皇・諡号

古事類苑からの抽出ものです。践祚とかについで出したのでついでに。諡号については漢風諡号や和風諡号とかありますが、そもそも諡号を立ててない時期の方が長くておもしろい。

Boox Nova Pro

 Boox Nova Pro はMax2よりも小さくて携帯に便利だし小さすぎなくていい。Max2 の 207ppi だとちょっと粗く感じたのが 300ppi だと粗い感じがなくなる。少々細かくても見れるようになる。また記事書くとはおもう。ところでファームウェア2.1.1はなんか不具合で配布停止してるとか。日本語版への正式リリースは一番最後だろうな。日本人クレーマーだらけだし。

明智光秀の首塚と明田理右衛門 その3 「18世紀後半光秀再評価の波とその背景」(了)

inudaisho.hatenablog.com

光秀の評価について

 「その2」で丹波出身の明田理右衛門がなぜか明智光秀の子孫を名乗るようになった姿を外形的に捉えてみた。ではどうしてそんなことをしたのか、背景を探っていきたい。

光秀の地子銭免除

 さて、実は京の市中の住民にとって光秀はさほど嫌う対象ではなかった。「その1」で書いたように死後百年にして「明智日向守光秀忌」の日があったほどであるが、その他に特筆すべきこととして、光秀が本能寺の変のあと、人気取りのため地子銭(宅地税の一種)を永代免除し、その後の政権もこれだけは撤回できないまま江戸時代も続いていたのだった。つまりは京都の人にとっては光秀の事をいいように解釈する素地があった。のちに首から上の病について「光秀の首塚」にお参りしてしまうようになるのも、次の項目から書くような事以外にも、そもそも無視できない人物だったからだろう。

18世紀後半の光秀再評価の波

 芸能の世界での光秀像も18世紀後半から大きく変化した。原田真澄「太閤記人形浄瑠璃作品に表われた謀叛人―『絵本太功記』の光秀を中心に―」『演劇学論集 日本演劇学会紀要』55、2012は主に幕末に流行った『絵本太功紀』の光秀像を主に対象にしているが、その中で先行作品群の紹介もしている。

ci.nii.ac.jp

 そこで悪人としての光秀像に変化があった作品として近松半二の『仮名写安土問答』安永9年(1780) を挙げている。

この作品での小田春長(織田信長)は、足利将軍家を滅ぼそうとする策略家の謀叛人に描かれている。それに対して武智光秀(明智光秀)は、主君春長の謀叛をとどめ、主家の名前を穢さないために敢えて謀叛を起こし、自分が逆臣の汚名を着ることを選ぶという悲劇的な人物である。いわば、忠義の為の謀叛であり、この光秀は単なる謀叛人ではなく、むしろ忠臣であるといえよう。しかしながら、「不忠の忠義」のために謀叛人となった光秀は、『絵本太功記』の光秀とは異なり、春長の悪逆を告発せずに、ただ謀叛人として死ぬためだけに真柴久吉と闘うのである。

以上のような、信長を足利将軍家に対する謀叛人、秀吉を織田の天下に対する謀叛人とするような視点は人形浄瑠璃の中では特異である。

 この作品の近松半二はまた明和4年に(1767)には『三日太平記』で、無道な信長に追いつめられる光秀というストーリーをつくっている。ここでちょっと人形浄瑠璃の状況について触れておく。

人形浄瑠璃の翳りと反面人物

 近松門左衛門の脚本と竹本義太夫のあやつり人形が作り出した竹本座の人形浄瑠璃は一世を風靡し、そのあやつりの仕草が人間が演じる歌舞伎の所作に影響を残してしまうほどであった。とにかく脚本の力がすごく他の芸能を圧倒したのである。近松門左衛門の死後は、竹田出雲がプロデューサーとして会議制脚本家集団の仕組みをつくりあげ、脚本の質を保つことにこれ務めたおかげで、ひきつづき大坂芸能の王者の地位を保っていた。しかし、多人数での合作が続くとまずまとまりがなくなってくること、また人形であるから少々複雑なことでもできるので、趣向に凝るあまり趣向のための趣向、技巧のための技巧に走ってしまったこと、また歌舞伎の世界にも脚本家が育ってきたことなどから人形浄瑠璃の人気に翳りがでてきた。出雲のあと人形浄瑠璃の世界をひっぱって消滅を先延ばしした人物に近松半二がいるが、その半二の努力も甲斐なく人形浄瑠璃は芸能の王者の地位から退いてしまった。

 物語の趣向に凝りだすとその趣向の一つとして、反面人物を主人公にして、新しい評価を与え、新味を出して物語に深みを与えようとする事がある。「奥州安達ケ原」の安倍貞任、また「義経千本桜」での平家残党などがその例になるが、明智光秀もその部類であろう。そして、先程あげた原田論文に挙げられている「本能寺の変を題材とした人形浄瑠璃作品」10作品をみればわかるようにほとんどが18世紀後半に集中していて、人形浄瑠璃の焦りが18世紀後半に生みだした数すくない受けるネタが光秀物であった。また同時期に講談の世界でも『真書太閤記』がまとめられ、それが読本の『絵本太閤記』になっていくのもこの時期だ。諸芸能が秀吉ネタ(同時に光秀ネタ)をあつかっていた時期なのだ。そこから「劇的葛藤に満ちた魅力的な人物」としての光秀が登場する『絵本太功記』に至るということになる。これがここで言うところの「18世紀の光秀再評価の波」である。

淀城の稲葉氏

 もうひとつおもしろいのが京大坂の中間にある淀城の稲葉氏の存在だ。享保8年(1723)淀へ移封された稲葉氏は、明智光秀重臣斎藤利三の娘春日局の末裔である。また途中で毛利秀元の娘の血も入っている。親戚には徳川綱吉大老堀田正俊江戸城内で殺した稲葉正休もいる。また赤穂浪士の事件がおこったとき、たまたま老中だったが、即刻処分されないように処理したらしい。このような複雑な背景をもつ稲葉氏が京大坂の中間の要衝にいたのだから、歴史的内容にふれて度々停止をくらっていた浄瑠璃の方でもあまり誹謗にならないよう、また秀吉贔屓の大坂の顔も立てるように、その間で智恵をこらした結果、このような複雑な性格を持つ光秀が誕生した、という可能性もある。

 ちなみにこの稲葉氏がその2で引用した『翁草』の「明智光秀齋藤利三墓の事」に出てくる。むしろ斎藤利三の事がその記事の主題で、明田理右衛門の話は前座のおまけのようでもある。といっても話としては簡単で、春日局の墓のある妙心寺は保護が手厚く稲葉家から采地二百石もらっているのにその親の斎藤利三の墓のある真如院(今の真如堂)は何もない、と真如院が明和9年(1772)年、淀の稲葉氏へ訴え、文を求められたので人に頼んで書いてもらった、というもので、その文には、海北友松が暴れているスキに真如院の長盛が利三の首を盗んで持ち帰った云々と、真如院のことと、春日局のことばかり書かれている。その心は妙心寺塔頭のように采地がほしいということだろうが、それがどうなったのかはこれだけではよくわからない。

明智光秀首塚」の寄進物

 「明智光秀首塚」の周囲にある石造物は幕末から明治にかけて役者連中が寄進したもので、光秀物はこんなものを寄進できるほどの人気番組だったことがわかる。

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首塚」境内にある手水鉢 「竹本大隅太夫

 その1で明田が「石塔婆」を移動させたとあったが、それが今どこに行ったのかはよくわからない。ここにある細い五輪塔はネットでみると弘化2年(1845)と書いてるものがあるが、表の道標のことではなかろうか。年代が書いてあるところは見なかった。何も書いてなかったようにもみえる。

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観光地「明智光秀首塚

 ここが観光地化していたことは幕末期の観光ルートに入っていたことからもわかる。

www.jstage.jst.go.jp

 谷崎友紀「旅人の属性にみる名所見物の特徴 -武蔵国から京都への旅日記を事例として-」『人文地理』69巻2号、2017 の中で農民(江戸近郊民)は観光ルートが定型化しやすいと書かれているが、その一例としてあがっている『伊勢讃岐道中日記』嘉永2年(1849)では青蓮院から知恩院の間にこの首塚に寄るように書かれており、定型ルートの中に組みこまれていた様子がうかがえる。同時に18世紀末以来の太閤記物(光秀物)がこういった農民にも受容されていたこともわかる。本来の首塚の場所は蹴上で京都の中心からすこしだけ遠いが、観光ルート化もしづらい。上記論文でも南禅寺はより知識のある人が行く場所の例に挙げられている。そういった意味でも蹴上よりは白川沿いの首塚の地理的優位がわかるだろう。おカネになりやすいのだ。

明田理右衛門が光秀の子孫を名乗った理由の推測

 これだけではただの状況証拠しかなく、実際のところはなんともいえないのだが、小説的に考えてみよう。明田理右衛門は粟田祭の鉾が冬の一本橋を渡りやすいように前もって木屑をまいてやるくらい目端が効き、サービス精神に溢れた人物である。また、能の笛吹きということで芸能の世界の住人であり、目端の効く人間が芸能界のトレンドに詳しくないわけがない。おそらく彼は光秀物の人気が上がってくる様子をみて、京都市中では珍しい名字であることと、明智係累かなにかと思われて蹴上の首塚を押しつけられたのを奇貨として、より京都の繁華街に近い自分の屋敷内に石造物を移し、今のように参拝できるような場所を開いたのだろう。ついでになにか物売ったり金取ったりしていたのかもしれない。だからこそ、明田が死に、一族がどこか(おそらく弘前藩江戸屋敷?)へ行ってしまってからも、渡辺山城なるよくわからない人物が管理を続けていたのではなかろうか。幕末の安政のころから今までは近くの餅寅が管理しているようである。

作られる歴史

 浄瑠璃の脚本家集団の一人に医師が本業の三好松洛がいるが、鞆を舞台にした脚本で何々坂何々坂といった地名を適当に作ってあてはめ、鞆出身の人に聞いたことない地名だと言われると、こう答えたらしい。

いや、今までにはそんな地名はなかったろうが、この作が当ればきっとそんな坂の名も出来るよ

 そう、ある人たちにとって歴史は作るものであり、あとからついてくるものだった。明田理右衛門もそのあたりのことを承知していたのかしないのか、光秀の子孫であるかないか曖昧にしつつ光秀の子孫っぽいことをやってるうちに勝手にその名がついてきた。それが数代あとになると、明智光秀の子孫であることを疑いもしなくなり、明治14年にはわざわざ明智と改姓したらしい。さらにその子孫が今、明智憲三郎として活躍中であり、やはり光秀の子孫と曖昧に主張しつつ、自分なりに調べて妄想を付加した光秀の伝記のようなものをつくってこれが真実と唱えて売り、年金生活をエンジョイしている。さすが明田理右衛門の子孫というところだろうか。

参考

光秀からの遺言: 本能寺の変436年後の発見

光秀からの遺言: 本能寺の変436年後の発見

陰謀の日本中世史 (角川新書)

陰謀の日本中世史 (角川新書)