メモ@inudaisho

君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

明智越と愛宕山

明智

 亀岡盆地から京都方面へは普通国道9号線沿いの老の坂で出るのが普通だ。保津川沿いは険しい谷になっていて道がなく、保津川を出たところの嵯峨・嵐山方面と亀岡は直線距離だとわりと近いのに車で行こうとすると大きく遠まわりすることになる。

 ただしそのへんを通って明智光秀が本能寺へ行ったとかいう話があり、今そのルートは明智越と呼ばれている。その辺漠然と聞いていただけで実際どういう道かは知らなかったが、こないだ、愛宕山へ登りにいったが時間が遅すぎた時、試しに明智越の方へ抜けてみたらおもしろかった。ある程度登ると高さに大差ない道がずーっとつづく尾根道で、道のためにあるようなところだった。

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明智越のルートから外れた尾根

 写真の場所は実は明智越ではなくてそこから分岐して北へ行く尾根なのだが、感じがわかりやすいので貼っておく。細いところではこんな感じの道がずっとつづくところで、もっと山道っぽいところを歩かされるとおもっていたが全然そんなことはなく楽なものだった。亀岡に近づくと看板がでてきて、ふるさとの史跡を整備しようとしているのがわかる。

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土用の霊泉

 これは土用の霊泉というところでどうも水が湧いていたらしいが、枯れていた。しかし水が湧いていたというだけあって地盤が軟弱なのか崩落して道が半分なくなってもいた。一応建前上は通れないことになっているのはこういうところが数カ所あるからのようだ。

愛宕山との関係

 さて、その看板を何個か眺めてわかるのは、亀岡に近いあたりに愛宕山白雲寺の分寺のようなものがあったようだ。ということはこの道、もともとあった愛宕山へ行く道で、明智光秀がはじめて整備したわけではないことになる。さて、この尾根道を今昔マップに傾斜線量図を重ねて強調させた図で見てみるとこうなる。 原図(今昔マップ on the web)

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明智越 重ねただけの図 「今昔マップ on the web 」の画像を加工

 傾斜線量図をかさねると地形が強調されて尾根筋がはっきりみえるようになる。これだけだとわかりづらいので赤で明智越、青で保津川を表示するとこうなる。

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明智越を強調 「今昔マップ on the web」 の画像を 加工

 この赤のルートがいわゆる明智越なのだが、赤のルートの右がわの谷と左の盆地を結ぶ道がこのルートの他にないことがわかるだろうか。丹波高地程度の低い山地の場合、すぐ崩れる湿気た谷を通るよりも、乾燥した尾根道を歩く方がはるかに楽なので、尾根道の方が街道として選ばれやすかったというのはほぼ常識のようなものだが、ここでもそれがあてはまる。赤のルートの右の谷をすこし登っていくと水尾で、そこから登っていくのが愛宕山になる。つまり赤のルートの右端の谷の右側が愛宕山の塊になる。この赤のルートの途中で上に分岐しているところがあるが、そこが上の写真の場所になる。そこも、そこしか道がない場所なので昔は道標とかあったかもしれない。今は鉄塔が立っていてちょっと改変されているのと明らかに街道でないところを歩いて北へ行ってしまったのでそういうのがあるかどうかわからなかった。

 ところで、尾根道を伝うだけだと上の地図だと右下の方へ行った方がよさそうなのがわかるだろうか。もうすこし大きい全体図を同じように「今昔マップ on the web」を使って作ってちょっと加工するとこうなる。

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明智越・保津川・唐櫃越・老ノ坂 「今昔マップ on the web」の画像を加工

 今度は黄色で道を示した。こうしてみると明智越のルートは途中からいくつか選択肢があるのがわかるとおもう。途中北へ分岐するルートはぐるっと北の方へまわって愛宕山の裏へ出る。山では上り下りで疲れるので愛宕山へ楽して行くなら北へ回った方がいいかもしれない。地図で色はつけていないが、水尾からは愛宕山へ登らずにだいたい同じ高さの山腹を縫って清滝の方へ出る道がある。京都へ行くのだけが目的ならその道か、保津川の方へ降りて川沿いの道を進むか、になる。尾根をずっと伝っていくと保津川のJR保津峡駅があるあたりに出る。今はそこから川沿いに進む道があるが、このあたり深い峡谷なので信長光秀の時代にそのルートがあったかどうかはしらない。嵯峨の豪商角倉了以がここを浚渫して荷物の運搬につかえるようにしたのはもうすこし後なのでひょっとしたらもうすこし河原が広がっていて道として使いやすかったのかもしれん。

 図では老ノ坂と唐櫃からと越も示した。古代の街道は尾根道と書いたがそれは山だらけの場合で、広い河原や砂浜を行く場合もあるし、谷であっても老ノ坂くらい広いと尾根道よりも大量の荷物を運べるので街道になる。といっても地図ではつい新道の方に色をつけてしまったが、新道のような深い谷はすぐ崩落するので土木技術が発展するまでは選ばれず、老ノ坂の旧道は南側を通っていた。ともかく老ノ坂ルートは足利尊氏が挙兵した篠村八幡宮がそのルート上にあることからもわかるように亀岡盆地方面から京都へ出るときのメインルートなので、明智光秀の軍隊が通ったのは、すくなくとも本隊が物理的に通れるのはそのルートだろう。『信長公記』では「老ノ山」で右に下りるか左に下りるかみたいに書いてあったがこの峠を下りたところの沓掛(もしくはその先の中山)で京都へ行く道と西国街道へ出る道に分かれるのでそこを念頭に入れて書いてるんではなかろうか。

荒神明智新道 (20190427 追加)

 さて明智越の先、水尾あたりから嵯峨方面へ出る道についていろいろ書いていたが、もうすこしちゃんと調べたら愛宕山を経由せず水尾からまっすぐ嵯峨へ行く道があった。今、水尾 → 荒神峠(庚申峠)→落合→六丁峠とされる道がそれ。下の絵の黄色のルート。紫のルートは参拝道。

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荒神峠 「今昔マップ on the web」の画像を加工

 ネットで探してるとこの黄色のルートのことを米買い道として紹介しているところもあったが、これが米買い道というのは間違いらしい。愛宕研究会の大槻雅弘(『京都愛宕研究会調査資料集I』)によると、米買い道というのは、愛宕山の参拝道の茶店の人たちが米を買いに水尾などへ出た道で、23丁目から分岐しているということだ。上の写真で紫ルートと黄色ルートの中間で赤で示したルートがそれ。「水尾からは愛宕山へ登らずにだいたい同じ高さの山腹を縫って清滝の方へ出る道がある。」と書いたその道のことだった。落合から嵯峨方面へ出る道は六丁峠といって、今でも車の道が通っている。保津川沿いに道ができたのは自動車道が整備されてからのようで、最初疑っていた通り、昔は道が通ってなかった。

 ところで京都叢書(京都の過去の地誌を集めた叢書)でいろいろ見ていると幕末の『洛西嵯峨名所案内記』では参拝道の「二十一丁目」から分岐している道があり、それを「明智新道越」と呼んでいる。この道は米買い道のことだろう。幕末であるから明智光秀にいろいろな伝説が付加されたあとなのでいかがとおもうが、本能寺の変から百年ほどの黒川道祐の取材時点(1680年代)でも、明智光秀が単騎どこかこのあたりを通り桂川で本隊と合流した、その道を「明智新道」と呼ぶ、ということになっている。「元来樵夫往来の間道」とか書いているので黄色ルートのことであろう。ちなみに明治くらいには既にいわゆる明智越が明智光秀の通ったルートということになっている。山道が交通のメインルートでなくなったらすぐそのような記憶の書き換えがおこるのがおもしろい。

勝軍地蔵

 ところで戦国末期には愛宕山は勝軍地蔵の山として武将たちから信仰されていたらしい。勝軍地蔵については良助法親王(良助親王)(亀山天皇第八皇子1268-1318)が宣揚したとか清水寺が元とか足利将軍家が信仰していたとかいろいろあるようだが、とりあえずciniiにあった論文のリンクをはっておく。

 勝軍は将軍に通じ、軍神として信仰を集めていたようだ。

細川氏と勝軍地蔵

 ただし愛宕山と勝軍地蔵が結びつけられたのはそんなに古いことではなく、応仁の乱以後の畿内政治史で異彩を放った細川政元が何らかの関与をしているらしい。

近藤謙「愛宕の神の変貌―丹波の神から勝軍地蔵へ」(京都愛宕研究会講演会レジメ) (pdf)

 具体的には足利将軍家の勝軍地蔵信仰と細川政元愛宕信仰が習合し、細川政元が暗殺されたあともその信仰は残存した上に昂じて日本中のイケイケの武将達の信仰を集めたようなのだ。戦国時代というのは日本史の中でも一般からの人気が高いジャンルだが、足利将軍家足下の畿内は混乱を極めたのと人気がなかったためにあまり研究も進んでいなかった。最近になってようやく整備されだしたのでこれから急速にのびて戦国時代観を書き変える分野だとおもわれる。たとえば愛宕山の北側には宇津氏という土豪がいて、数少ない皇室領の山国荘を押領しようとしたりしていたが、丹波はもともと細川氏の領国であり、宇津氏も細川氏の被官で、しかもかなり忠実な方だった面があったことがわかってきている。

 細川政元の養子の細川高国は京都の東、一乗寺の上の瓜生山のあたりに勝軍地蔵城(将軍山城 - Wikipedia)を作ったらしい。その細川高国が権勢を振っていた1520-1524に愛宕山の寺坊が増えて愛宕五坊となった(野崎2016)というのだから、細川高国愛宕信仰を維持したのだろう。細川政元愛宕信仰については、

末柄豊「細川政元と修験道」『遥かなる中世』4、1992

 という論考があって、司箭院興仙すなわち宍戸家俊なる修験者が関わっており、愛宕信仰と勝軍地蔵を結びつけたのもこのあたりの仕業なのかもしれない。

明智光秀と勝軍地蔵

 その細川氏の領国だった丹波土豪の波多野氏などを平らげたのが明智光秀だが、本能寺の変の直前にも愛宕山に参ったとされている。愛宕信仰と勝軍地蔵信仰が結びついて以後のことなので愛宕権現の本地は勝軍地蔵になっており、明智光秀は軍神の勝軍地蔵に参って籤を何回も引いた(『信長公記』)ことになる。また、明智光秀細川高国比叡山の麓の瓜生山に作った勝軍地蔵城にも一時入っているのでなにか適当なお話をつくってこじつけようとおもえばいくらでもこじつけれそうだ。明智越についても、京都へ行く最短ルートとして整備したというよりは愛宕山へ行く道なので、既存の道を整備して愛宕山へ行きやすくしたということかもしれない。おもわせぶりな項目を立てたが何かあるわけではなく、小説のネタくらいにはなりそうというだけの話。

 ちなみにまともな研究書(藤田達生明智光秀 史料で読む戦国史3 』八木書店 2015)では天正3年に愛宕山威徳院に丹波攻め成功の祈願をしてからのおつきあいということになってます。

京が見える明智

 ちなみに明智越のルートから北へはずれたところからは京都市内がこのように遠望できる。

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京都市内遠望

 信用できない軍記と名高い『明智軍記』では老ノ坂、唐櫃越とならんで愛宕山の近くのこのルートの三手を通ったということになっている。明智軍記では

保津ノ宿ヨリ山中ニ懸リ水尾ノミササギヨソニナシ内々作ラセ置タル尾傳ヲヅタヒノ道ヲシノギ嵯峨野ノ邉ニ打出テ衣笠山ノ麓ナル地藏院迄著陣ス

 おそらくこの記述のせいで明智越は本能寺の変のとき明智光秀が通った道ということになったんだろう。しかしまぁ、明智軍記でこのルートを明智光秀自身が通ったことにしたのはおもしろい。情報漏れを防ぐためルートを全部押さえたということもできるし、ここからだと京の町がよく見えるので適当なドラマをこしらえるにもいろいろ都合よさそうだ。

江戸時代前期の明智ルート (20190427追加)

 明智軍記は江戸時代前期に成立したとされるが、その中では愛宕山近傍のルートについて軍隊が通ったように書かれている。その一方で、黒川道祐の取材時点(1680年代)では光秀が単騎で通って桂川で本隊と合流した、ということになっている。道の狭さから言うなら単騎で通過した話の方が真実味があるがいずれにせよ、このあたりを明智光秀が通ったという伝説は明智軍記が作ったというわけではなく、何らかの伝承が明智軍記に反映されたということなんだろう。黒川道祐の『雍州府志』が先行してるとするならその記述を下敷にして話を膨らませたということかもしれない。ちなみにいわゆる明智越のちかくから上の写真のように京都を展望できると書いたが、さらにその荒神峠のルートからも京の町は展望できるらしい。しかしこんなところを乾坤一擲の夜に単騎で通ったという伝説が残ってるくらいだから明智光秀って相当エネルギッシュな奴だったんだろうな。

追記 20190424

 「明智越は本能寺の変のときのルート」みたいなことを書いたがあとで最近よくでてる光秀関係の本をみたら「明智越は愛宕山へ行く道」と書いてあった。まぁ明智軍記に書いてあるから本能寺の変のルート、みたいないいかげんな事は今は書けないよな。

信長公記 川角太閤記

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足利季世記

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