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君見ずや出版 / 興味次第の調べ物置き場

慶應と日本共産党

人民の天才 野呂栄太郎

 羽仁五郎終戦後、日本共産党による革命の機運が高まったと思っていた時期、活動のためにいろいろ書いた文章の中に「人民の天才 野呂栄太郎」というのがある。野呂栄太郎は戦前の日本共産党(非合法)の理論的指導者の一人と目され、委員長をしていたときにつかまり、拷問をうけて病状を悪化させて死んだ人だ。殉教者というわけで、以下のように美化している。

 余輩の聞くところにて、人民の權義を主張し、正理を唱て政府に迫り、其命を棄てて終をよくし世界中に對して恥ることなかるべき者は、古來唯一名の佐倉宗五郎あるのみ佐倉宗五郎一人の名は知られて居る。

(略)

 數百千のわが人民の天才英雄は、その名も知られて居ないのである。

(略)

 それらのわが日本人民の革命的天才のなかに、その最大の一人、野呂榮太郎が立つて居る。

羽仁五郎「人民の天才 野呂榮太郎」『青年にうつたう』日本民主主義文化連盟、1947(昭和22) 初出は雑誌で1946年(昭和21)中

 江戸時代の義民として有名な佐倉宗五郎をまず出し、それを「人民」の闘争の系譜にして、そのつながりのなかに野呂栄太郎を立てるというやりかたで、まぁ共産党的ではある。

日本共産党慶應

 羽仁五郎がこのように野呂を「人民の天才」とまで持ちあげるのは、理論的指導者でかつ殉教したからという日本共産党の教史の上で美化しやすい位置にいたというのもあるが、その他に野呂が慶應出身であったこと、そして日本共産党の有力者野坂参三慶應出身で野呂は後輩だったからというのもあるようだ。文中では後輩というより弟というふうにその関係を強調している。野呂を美化しもちあげることで野坂参三の立場を強くするというところだろうか。同じ文章の中で野坂参三を「救国の指導者」とも賛美している。

革命の列に加えられた福沢諭吉

 羽仁五郎福沢諭吉共産党の革命史の列に加えている。

 日本にとつては、福澤諭吉は日本の民主主義革命の先驅者であり、野呂榮太郎はその後の日本の民主主義革命の最も苦難の時代における輝ける指導者である。

(略)

 明治維新期に開始された日本の民主主義革命は完成していないように、慶應義塾の使命は未だ完結していないのである。その故にこそ福澤諭吉の創立した慶應義塾がその後、野呂榮太郎を生み、野坂參三を生んでいるのである。

(略)

 明治維新の偉業を明らかにし、明治維新において不徹底に終つた日本の民主主義革命が現代において完成せらるべき條件を明かにしたことが、野呂榮太郎の不朽の業績である。

羽仁五郎福澤諭吉野呂榮太郎」『青年にうつたう』日本民主主義文化連盟、1947(昭和22)

 つまり昭和20年代の一時期には、「革命の先駆者」福沢諭吉 → 「人民の天才」野呂栄太郎 → 「救国の指導者」野坂参三と、慶応閥による共産党の英雄の系列が作られていたというわけだ。

まとめ

 特に日本共産党に興味もないし慶應がどうであろうが知ったことでもないのだが、野坂参三は90年代にソ連のスパイであった事実が暴露されるまでは日本共産党内で重きをなしていたわけだから、党内の闘争での浮沈はあれど、戦前に死んだ野呂栄太郎の評価などは長く変わってなかったのではなかろうか。慶應といえば金持ちの集まる大学で竹中小泉なんかを生み出したところで助成金をジャブジャブ受けとっており、平成の堕落腐敗を象徴するようなところだと考えていて、

慶應 is 邪悪

 と観念しているのだが、その観念を強化されるような心温まる内輪エピソードだった。8月末から9月上旬くらいにかけて東京に行ったときにたまたま目にしておもしろくて書いたものなので特にオチもなく終わる。

(どうでもいいことだが野坂参三ソ連のスパイだというので90年代に処分されたのだが、その事実があったころ(つまり戦争中)の日本共産党は所詮はコミンテルンの日本支部なわけだから、支部の人間が支部の問題について上級組織関係の秘密警察に告げ口したというだけの話で、事の当否は別にして、組織的には問題ない話では。)

歴史としての野坂参三

歴史としての野坂参三

初版日本資本主義発達史 上 (岩波文庫 青 136-1)

初版日本資本主義発達史 上 (岩波文庫 青 136-1)

山国神社にあった江戸初期の世界地図

山国神社で江戸初期の世界地図発見?

 今年2019年の二月、山国神社で世界地図が発見されたという記事がでた。

www.kyoto-np.co.jp

 この記事よくよく読むと、

 この地図は昭和はじめに東大史料編纂所が存在を確認したが、1990年に別の研究者が神社に照会したところ、見当たらないとの回答を得たため、これまで所在不明とされてきた。

 とのことなので、新たに出てきたわけではなく90年代には見当らなくなっていたらしい。それを昨年になって東大史料編纂所の研究グループの一員の人が確認したということらしい。では昨年2018年再発見されたものだろうか。

10年くらい前の山国神社文書調査

 実は10年くらい前の中央大学の山国神社の文書調査で既に存在が確認されていたものである。『平成17年度~平成19年度科学研究費補助金研究成果報告書 (課題番号17520449) 中世後期~近世における宮座と同族に関する研究 主に丹波国山国荘地域を例に』という冊子にその科研費をつかってやった調査の報告がある。この報告書の中身のほとんどはエクセルでつくった文書目録で、おまけで吉岡拓の浅薄なレポートがついている。その山国神社の目録の中にこう書いてある。

f:id:inudaisho:20190811114314p:plain
日本長崎ヨリ異国江渡海之湊口マテ船路積

 ここからわかるように、中央大学の連中はこれが東大史料編纂所が把握できなくなっていたものだということがわかっていない。なんか地図があるから記録しといたというだけである。

 みつからなかった件だが、どうも昭和初期には軸装してあったのがなぜか軸から外されていたのでわからなかったということらしい。

「新発見」の明の地図

 それから「新発見」という中国の地図の項目はこれ。

f:id:inudaisho:20190811112918p:plain
大明地理之図

 ということで、これもごく最近みつかったのではなく、10年前には所在が確認されていて中央大学作成の目録に載っていたのである。この目録が出たのは2008年。それから10年何をしていたのだろうか。

値打ちを認めたのは東大史料編纂所のチーム

 目録の中にあった地図に値打ちをみとめたのは東大史料編纂所を中心とした科研費「画像解析と歴史・地理情報の高度活用に基づく荘園絵図の総合的研究」のグループだ。

kaken.nii.ac.jp

 つまり彼ら絵図を専門に集めた研究者によって値打ちが認められたということである。京都新聞の記事もよくよくみるとこう書いてある。

 山国地域に残る古文書を20年以上調査している中央大の坂田聡教授(中世史)らの調査団が見つけ、東京大史料編纂(へんさん)所の共同研究グループが確認した。

 坂田聡らは見付けたわけではなく単に記録しただけで、その後10年くらい放置していただけだ。だからこの記事では坂田聡は無視してもよいくらいなのだが、なんでここで坂田聡が出てくるのか? おかしいよなー。

例の樺山聡記者の「勤王の村」記事も同時期

 そう、実は前にネタにした樺山聡記者の「勤王の村」記事も同時期なのである。

inudaisho.hatenablog.com

inudaisho.hatenablog.com

inudaisho.hatenablog.com

inudaisho.hatenablog.com

 集中してこのような特集を組み、あわせて新発見とされる記事をのせるのだから、よほど坂田聡に肩入れしたい連中が京都新聞にいるということだろう。本来ならその東大史料編纂所のチームのことを取りあげるべきなのに何もしてない坂田聡の記事を組む。おかしいよなー。

文禄・慶長の役での毒殺

加藤光泰の毒殺

 山崎の合戦で明智光秀の本隊を側撃して局面を打開するきっかけを作った加藤光泰が、その後の論功で光秀が作った周山城一万七千石をもらったらしい。このころの事柄というのはあんまり記録が残っていないのが普通ではっきりしない事が多いのだが、加藤家は江戸幕府の大名として残ったので周山をもらったことはその年譜に残されている(周山城登山会で高橋成計さん作成の資料で紹介されていた)。ということで幕府が作った家譜集をみてきたのだが、気になることがあった。どうも朝鮮で毒殺されているらしい。

寛永諸家系図伝 (17世紀中期)

すでに歸陣のとき、光泰西生浦(せすがい)にいたりて鴆毒にかゝり卒す。年五十七。

寛政重修諸家譜(19世紀初頭)

既にして歸陣のとき、石田三成謀りて宮部兵部少輔長房が陣營にをいて、和睦の宴を催し鴆毒をすゝむ。八月二十九日西生浦(せすかい)にをいて卒す。年五十七。

違いと共通点

 寛永の方では鴆毒で死んだと書いてあるだけだが、寛政の方では三成の罠にかかって毒殺されたと書いてあり、寛永と寛政の150年くらいの間で加藤家の始祖伝説がよりドラマチックになっていることがわかる。まぁ三成云々は無視してみると、毒で死んだと書いてあることは共通している。

 このことについて、加藤光泰本人の手紙が残っており、最近体調が悪いみたいなことが書いてあるらしい。それを根拠にして病死と言う人もいるんだが、病死なら病死と書いた方がよさそうな事柄についてわざわざ毒で死んだみたいに書いているのだから、周囲からみて不自然な死に方をしたんだろう。

九鬼家臣も毒殺されている

 いきなり話は変わるが、すこし前三田(さんだ)の図書館に行ったとき、九鬼氏の家臣の家譜みたいなのが大量に綴じてあるファイルがあり、ザーっと眺めてきた。前にも書いたのだが飾り気がなくておもしろい。たとえば「両親ともに朝鮮人」とか「唐人の子」とか平気で書いてある。そのとき気になったのが、加藤光泰とおなじように「鴆毒」で死んでる奴が結構いたのだ。加藤光泰程度の大物になると、謀殺か?という話も湧いてくるかもしれないが、水軍の九鬼氏の家臣も毒で死んでるとなると、結構普遍的な現象だったのかもしれない。

ふぐ毒?

 ちょっとググってみると、朝鮮ゲリラが毒殺をしかけたみたいな「中国の抗日ドラマでよくみる話」は出てこず、その代わりに、日本中から下関に兵が集まってふぐにあたる人間が続出したため秀吉がふぐ食を禁止した、みたいな話がでてくる。そうかそうか、それで話を締めようか、とおもって探しても裏付けになるネタがでてこない。そもそも話が下関に限られていて、伊藤博文・下関の春帆楼がセットで出てきて河豚解禁第一号みたいなこともいっしょに書いてある。そのわりに山口県のあたりでは禁忌という感じでもなくふぐ料理が一般的なところからみると、春帆楼周辺でつくられた伝説のような気もする。それにフグ毒ならすぐ死ぬので、手紙で体調が悪いとか書けないだろう。ということで、オチも結論もなく終わる。

追補 西生浦

 そういうと、Wikipedia加藤光泰 の項には、

日本外史では「西生浦」と誤記されており、それに従ってこの表記を用いる書籍がある。

 という謎の注記がある。それを書きこんだのは利用者:Quark Logo - Wikipedia という人だが、どういうわけか西平浦で死んだことにしたいらしい。その人がしきりに書きこんでいる項目をみるとどうも朝鮮関係が多い。西生浦というのは、そのWikipediaにも項目がたっているが、

ja.wikipedia.org

 加藤清正が作った日本式の城がある。西平浦というのは李舜臣関係で出てくる小地名のようだ。視野の狭い朝鮮民族主義者で西生浦を抹殺したいのかな?

 あと、加藤光泰の項目の履歴をみると、どうしても毒殺説を抹殺したい人が何度も何度も消そうとしているので、ここでは毒殺を強調することにした。なぜなら既に紹介したように他にも「鴆殺」されてる人が複数存在するから。孤例ではないものには必ず何らかの背景があるので、無理に理由をつけてわかったつもりにならない方がよい(負け惜しみ)

西尾正仁の由緒書研究と『禁裏領山国荘』

(20190804 竹田聴洲著作集を借りてきたらいいネタみつけたので追記した)

兵庫県立教育大学修士 西尾正仁

 さて、最近調べていることの近傍を押さえている先行研究として重要な西尾正仁「近世村落成立期における家伝承の研究ー丹波国桑田郡山国郷の事例ー」(修士論文)1996 を読みに兵庫県立教育大学まで行ってきた。西尾氏は1956年生まれの高校の教員だが中途で兵庫県立教育大学の院に入り、その修士論文として1996年これを書いたということだ。西尾氏は坂田聡編『禁裏領山国荘』2009でも似たような内容の文章を寄せているのだが、要約版で、奥歯にモノがはさまったような具合でよくわかったようなわからないような具合になっている。他にも西尾氏のこれに関する論文はあるのだが、その最新版も教育大学の河村昭一の退官記念論文集(2013)に載っていて、これまた京都周辺では所蔵が少ない。ということで無職の強み、足の軽さを利用して両方押さえに行ったのだ。

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兵庫県立教育大学の図書館

 ただし、修論の方は複製不可ということなので図書館で読んで要約を作ってきた。

西尾論文の重要さ

 この論文だが、正直言って、作られた由緒が現実の歴史に介入することのある近世の山国の歴史をみる上で非常に重要な論文だった。しかも核心部分は非常に明晰で、最近どうでもいい文章ばかり読んでたので新鮮に感じた。ちょっと感動したのでその核心部分を紹介しよう。

正治二年私領田畑并官位次第」の不審点

 「正治二年私領田畑并官位次第」というものが『丹波国山国荘史料』1958に紹介されている。この官位次第は三十六名八十八家の官位が正治2年(1200年)に定められたというもので、江戸時代後期の山国では名主家リストの根本史料のように扱われていたものだが、明らかに作為的に作られたものなので、それがいつ作られたのかというのが一つの焦点になっていた。

 ところで同名資料は山国にもあるのだが、活字化されたものは山国の隣の黒田の家に残されていたものである。この黒田地域は歴史的に山国荘の一部だったとされているのだが、奥の方なので別に扱われがちな地域でもあり、本郷・枝郷みたいな扱われ方をすることもあった。明治の町村制施行のときにはそれぞれ山国村・黒田村と別になっている。ところがこの活字化された官位次第の後にある文章にはいわゆる本郷の山国を「下山国八ヶ村」黒田のことを「本郷山国三ヶ村黒田」のように表現してあり、当時の文脈としてはおかしい。

 ここまでは普通の人でも目につくところだが、西尾氏の素晴しいところは、その文章に出現する事柄をきちんと一々検討し、山国の政治史にからめてこの文書成立についての仮説をうちたてたところだ。特に素晴しいのは官位次第とその後に続く由緒書の内容に齟齬があることから、別物とみたところである。そしてその由緒書部分には山国の論理で作られた部分があることから、「官位次第」のあと「原由緒書」が山国でつくられて黒田で手が加えられたと三段階に分けた。そして山国での由緒書形成を家の形成とからめて三期に分けて説明を試みる。

「伊佐波山宛行状」

 さて、まずはクドクドと説明することは避けて、どこに感銘を受けたのかド速球で紹介しよう。まるごと引用する。手で書写したのをここにタイプするので、どっかに書写間違いがあるかもしれないが、情報が詰めこまれているのによくわかるその明晰さを味わってほしい。

 十七世紀半ば、惣庄山の分割を契機に、名主家は、本来用木貢納の反対給付として与えられていた惣山の用益権を遠く平安宮造営に結びつけた「五三寸三尋木」の由緒を語ることで、維持し続けようとして、二度にわたって「改記」を作成した。その作業の中で、近世村落の胎動が始まった時期から蓄積され続けた様々な伝承や偽文書類が集大成されて原由緒書として結実したのである。

 そして、それは枝郷たる黒田村において、自村の立場で書き換えられ、天正十四年に前田玄以に提出する形式に工作された。そのことは、第一章第二節で指摘したように沙汰人四人の連署が黒田宮の春日神社に残る嘉慶元年(一三八七)十二月二十三日付「伊佐波山宛行状」の沙汰人連署を真似ていることから明らかである。

 いや、いきなりここを出しても背景を説明してないのでよくわからないかもしれない。軽く紹介すると、戦国時代には荘園の単位である名が名前だけのものとなり名主の地位が不安定になって地位の安定を目指す動きが山国に限らずあった(例えば紀伊加太で名主の「永定」がおこなわれた)。その反映として「官位次第」つまり名主リストが作られたとみる。これを「家伝承萌芽期」として西尾1996では幅を取って15世紀半ばから16世紀半ばくらい(つまりいわゆる戦国時代)であろうとする。(西尾2013では16世紀半ばとみる)。

 次に「家伝承成長期」として各種由緒が作られたとみる。たとえば「官位次第」の三十六名八十八家であったり、「七十二姓の郷中名主と比果・窪田の郷士両家」であったり、いろんな天皇の綸旨を受けた、と主張したりすることだ。そしてそれらが総合されたのが「家伝承結実期」で、これを17世紀半ば(江戸時代初期)までとする。17世紀半ばまでに山国荘が持っていた奥山が各村に分割されたのだが、その際名主層が保持していた利用権を維持するための理由として「五三寸三尋木」が語られたということで引用のところに来る。

 これが本当にすごいのは、黒田村が挿入したテキストの出所をみつけたというところだ。それが「伊佐波山宛行状」の沙汰人連署だ。山国関係の大量の資料から修論作成のための短時間の間にこれを抉り出してきた手腕は本当にすごい。それだけ読みこんだということでここは賞賛に値する。たとえばこの「伊佐波山宛行状」が他の文書と同様に偽作されたものかもしれないということはここではどうでもいいことなのだ。なぜなら論旨が要求しているのはテキストとして黒田村が保持もしくは作成したものが流用されたということを示せればよいだけの事なので、たとえばこれが偽作されたものならそれはそれで別の補論ができるだけである。

実り多きすばらしい論文とその瑕疵

 この論文のすごいところは上記で説明したテクニカルな点だけではなく、由緒という偽文書の変遷からいろんなことが説明できる事を示した点だ。なぜならここで扱われている山国の由緒書は、どこかの家が権威付のために一人で捏造したものではなく、地域のある層の政治的な目標を達成するために共同で作成されたものだから、政治文書でもあるのだ。何が強調されているのか、何が忘れ去られていったのか、それを追うだけでもたくさんのことが説明できるようになる。実際には修正を要するところも出てくるかもしれないが、偽書でしかない由緒書から歴史的情報を抽出するとはこういうことだと見せつけたのである。

 ただし一つ瑕疵がある。それは西尾氏が同年代の坂田聡の「家」論と安易に結びつけて家の形成の説明に利用しようとしたところだ。これで説明できるのは「名主」の枠の形成ではないのか。「近世宮座と家格伝承ー京都府北桑田郡京北町山国の場合 」『御影史学』29、2004では同様の論を形成しながら、宮座にひきつけて説明を試みているのだが、こちらでは「家格」としているのですんなり宮座の議論に接続できて見通しがよい。だいたい「家」という謎タームは何でも入る箱なので説明できたような気になるが、それで説明すると謎を増やすだけである。そしてこの瑕疵は最悪な形で報いがくる。「家」専門家・坂田聡の介入と押領を招くのである。

パクりの坂田

 さてここで坂田聡編『禁裏領山国荘』2009 をひらいてみよう。

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『禁裏領山国荘』目次の一部

 第二部の劈頭を西尾正仁「名主家由緒書の成立過程」が飾っているが、そのすぐ後に坂田聡「由緒書と偽文書」が続いている。坂田聡は似たような主題で何を論じたのか。西尾論文をほぼ全面的に引用しつつ、「伊佐波山宛行状」などが黒田村の利益のために作られた偽文書であることを論じたのである。

 自分は最初この本を読んだとき、この坂田というやつは何でこんなに必死になって黒田の偽文書を論じているのか、程度に思っていた。偽文書なんてどこにでもあるものだからだ。しかし西尾正仁の1996年の修論を読んではっきりわかった。この坂田というやつは、実り多きはずの西尾論文の枝を切り落として前座に押しこめ、その一方で自分の論説では全面的に引用しながら、補論で済むような小さな問題を大きくスケールアップして、西尾の論拠を抹殺し(たつもりになり)つつ、自分が考えたようなふうな作文を書き、西尾の晴れの舞台を奪ったのだ。本当にクズだなこいつ。 とにかく西尾論文の値打ちがまったくわかっていない。たとえば後続の山崎圭の論文で扱っている網株の話題にも広げることができる。もちろん宮座の話題にも接続可能だ。身分の固定の話題にも接続できる。山国隊まで話を伸ばすことも可能だ。西尾論文はたくさんの枝からいろんな実を取れる大樹のはずだった。それを、この坂田というやつは、編集という立場を利用して、それ偽文書とケチをつけるだけのクソ論文を書き、一方で西尾論文をただの由緒の変遷を追うだけのものに矮小化したのだ。自分は前、坂田聡に対して「空中戦の坂田」と揶揄った文章を書いたが、今回この入手困難な西尾論文を読んで心底怒りを覚えた。パクりの坂田と言うべきだな.... しかし論題をパクられてもさらに話が大きくなったなら、相手がすごかったな、で話が終わる。これは論題の矮小化であって、学問的には誰も得をしない。

偽文書の指摘も竹田聴洲のアイデアの転用

 坂田の論旨では天文年間の名主リストも黒田が作ったものという指摘で、先学はこんなものを信じて論を立てていると書いているのだが、坂田が言及していない先行研究がある。山国関係の研究では名高い竹田聴洲だ。「古家連党旧集記」という由緒書が残されているが、竹田聴洲はこれを山国荘の一番奥の大布施地域が山国の由緒を利用して作った偽文書だと判断した。坂田の指摘はそれを黒田村もやったということにしたにすぎない。坂田が実際書いてることはなるほどと思うところがあるが、それに言及するなら竹田聴洲の成果についても言及せねばならない。しかしそういう敬意を払うことは全くなく、逆に竹田仲村は天文の名主リストなんか信じてたアホと踏みつけにしている。はっきりいってこの坂田という人、名利欲旺盛なうえに業が深そうだ。

全部借り物の坂田

 以前『由緒と天皇』にいろいろ難癖をつけたことがあったが、あれは焦点がズレていた。結局この坂田が西尾氏の論題をパクりながら、西尾氏程度の見通しもないので偽文書を指摘するだけのチグハグなものになり、そのチグハグさで『由緒と天皇』まで突っ走ったため、結果的にまるで山国が偽文書・偽史製造所のような扱いになったのである。しかも西尾氏は修論を書くための二年くらいでこの地平に至ったのだが、坂田はパクっておきながら偽文書をどう扱うかについてまとまった史観も出すことができず、最近話題の偽文書があるぞと騒ぐことしかできなかった。全部借り物だもんな。「有力百姓」のタームさえ西尾論文に見ることができる。坂田は狭い分野の通史ならいろんなことを捨象できるのでなんとか書くことはできそうだが、地域の通史を書く能力は本当に低そうだ。さてその坂田は今何をやっているのかというとこんなことをやっている。

kaken.nii.ac.jp

 文書の再検討みたいなことをやっているそうだ。まぁ地道な作業をするのはわるくないんだが、「昔の百姓は字が読めないバカ」みたいな底の浅い論旨になりそうな気配があるぞwww

由緒・偽文書と地域社会―北河内を中心に

由緒・偽文書と地域社会―北河内を中心に

  • 作者:馬部隆弘
  • 発売日: 2019/02/28
  • メディア: 単行本

神戸ナンバーはやばい

 さてまた偽書収集で岡山まで行ってきたのだが、結局車で行ってしまい、ついでに途中いろいろ寄ったので時間がかかった。といっても相生や姫路のあたりはその昔高島さんところへ遊びにいっていたときによく行ったので行くほどでもないのだが、今回三年ぶりくらいに連絡を取ってみようとすると持っている連絡先が全て不通になっていることに気付き、固定電話まで不通になるとはもしや死んでしまったのでは? と検索しまくったり家まで見に行ったりしたのだが、twitterのフォロワーに教えてもらったところによると、どうも老人ホームに入所したということらしい。

 ところで岡山・姫路方面まで行くときはだいたい国道372号を使う。つまり亀岡から篠山を通り、姫路まで山の中を通りぬけるルートだ。海沿いの2号線ルートを通ることはほぼない。信号が多いというのもあるのだが、神戸ナンバーにとにかくやばいのが多すぎる。20年くらい前のことだが、早朝のバイトで車に相乗りして神戸方面に行ったとき、併走している車からバットのようなものが出てきてなにかわめきながらバットをふりまわしてきたことがある。そのときは運転してた人が急に車を脇道に入れて難を逃れた。またこれはここ数年のことだが、前に無理に割りこんできたくせになにかその車の気に障ったのか急に路側に車を寄せてから少し車の先を出し、後続の自分の車を止めるかなにかしようとする目にあったことがある。軽自動車で狭い道をスリぬけるのはわりと好きな方なのですごい勢いで突っ込んでやった結果、自分の後続となにかもめていたのがバックミラーで見えたがそのあとどうなったのか知らない。また京都の山奥あたりでブイブイ飛ばしているのも神戸ナンバーが多い。その他すりぬけ、追い越し程度のことは普通に見る。とにかくゾロ目と神戸ナンバーはやばいという意識しかないので、神戸のあたりへ車で行くのはなるべく控えている。

 そのような次第で海岸沿いの2号線と中央を通る372号線のそのルートでしか兵庫県南半を知らない状態だったが、今回ちょっと寄り道して、その間に三田・小野がはさまっていることを知った。小野も三田も藩があり、特に三田は九鬼氏がいて戦後に偽書の九神文書なんてものが出てきたことでその筋でも有名だからなにか怪しい由緒とかあるんじゃないかとすこし期待して図書館に行ってみたが、そういうのはあんまりなかった。だいたい程度の低い郷土史家がそういうのにひっかかってくれて意味のわからないことを書いてたりするのが無批判に並べてあったりするおかげで図書館で見れたりするのだが、三田の図書館に至っては九神文書を偽書として扱っている本ですらなかったので徹底していた。そのかわり藩士の由緒一覧みたいなのがあって、一通り見てみたがあやしいのがないかわり、いろんなところに出身があっておもしろかった。朝鮮出征の歴史が色濃く残っていて、「両親ともに朝鮮人」とか「唐人の子」とか書いてあったり、「朝鮮在陣中に毒で死ぬ」みたいな人が複数いたりした。系図を飾る必要がなかったのは九鬼氏自身が陸に上がった水軍で由緒に無頓着だったから、由緒を誇らない方向にインセンティブが働いたからだろうか。

 ところで神戸ナンバーがやばいみたいなことを書いたが、神戸ナンバーの範囲は広くてその小野や三田はもちろん篠山あたりや淡路島も神戸ナンバーだったりする。

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国土交通省のサイトにあった神戸ナンバーの範囲図

 やばいとおもっていた神戸ナンバーも兵庫沿岸の都会が放つ臭気というわけではなくて田舎ヤンキーの危険さなのかもしれない。

(2019/07/15 と無難な感じで文章を締めたが、今日京都市内で狭い道にブリブリ入ってきて道を譲ろうともしない神戸ナンバーをみたのでやはり神戸ナンバーはやばいという思いを新たにした)

九鬼文書の研究

九鬼文書の研究